わがまち 大浜町
  
  福田港から大浜町を望む


1、大浜町の由来

 江戸時代の大浜町は「福田村大浦郷(おおうらごう)」と呼び、大村藩領に属していた(「大村郷村記」)。当時は福田村一帯が半農半漁の生活が主流で、米・麦・粟などの農作物の生産を始め、地引網漁や蒲鉾などの食品加工も行なわれていたようだ。

 現在では、長崎市西部のベッドタウン(町域410万1千u)として発展、平成27年8月現在の世帯数・人口は1,938世帯4,463人(男2,080人・女2,383人)で、福田地区(福田本町・小浦・柿泊・小江・手熊・上浦)の総人口の半数近くを占める。近年では、マンション建設をはじめ、大型スーパーマーケットや飲食店・コンビニ等の出店が続き、人口の増加が予想される。

 なお、現在の「大浜町」という地名は、昭和33年(1958年)の長崎市第5次市域拡張の際に付けられたもので「大浦」の住居表示が長崎市内の大浦(天主堂やグラバー園のある大浦)と重複するため、旧来の大浦郷から大浜町へと町名変更されたことにちなむ。


 マリナシティバス長崎前


2、大浜町の歴史・名勝

 長崎=大浜同盟


 鎌倉時代前期、大浜町を含む福田村一帯は老手(おいて)村と呼ばれていたが、老手・手熊両村の地頭職に任じられた平兼盛の子の包信が福田村と命名したことにちなむ(諸説あり)。その後、同一族は福田姓を称し、元寇や南北朝期に活躍、戦国時代には大村氏の配下に加わり、各地を転戦した。

 中でも、大村氏と対立していた佐賀の龍造寺氏・諫早の西郷氏・深堀の深堀氏との戦闘は壮烈を極めた。1982年発行の「長崎事典(長崎文献社)」でも元亀年間(1570−1573年)や天正年間(1573−1593年)の戦闘の様子などが紹介されており、長崎の盟主長崎氏が一之瀬口(現在の蛍茶屋)や居城桜馬場城(現在の桜馬場中学校裏山)で西郷・深堀連合軍と戦った際は援軍を差し向け、これを撃退している。福田・長崎両氏はともに大村氏の配下にあったものの、肥前を南下する龍造寺軍・北上する深堀軍を撃退するため強い絆で結ばれていたに違いない。



 福田沖海戦と大浦・小浦川


 長崎の郷土史家江越弘人さんの「長崎の歴史(弦書房2007)」に、戦国時代の福田沖でのポルトガル軍と松浦軍の海戦について詳しく書いてある。

 永禄6年(1563年)当時、ポルトガルの貿易船は平戸や横瀬浦が主な停泊地であったが、同年の横瀬浦焼き討ち事件により、ポルトガル司祭らは新たに福田港を停泊地として決めた。しかし、南蛮貿易で利益を得ていた松浦氏はこれに激怒し、大船10艘・小船70艘余の軍船を福田港へ差し向け、ポルトガル船の捕獲を試みた。
 松浦氏の率いる松浦党は水軍を率いた海戦や上陸戦が得意で、永禄8年7月の福田沖海戦も松浦水軍の急襲から幕を開けた。これに驚いたポルトガル勢は一時苦戦を強いられたが、松浦軍の攻撃が福田港の定航船に集中していたことが功を奏した。当時の福田・小浦・大浜町一帯は、小浦川・大浦川が複雑なリアス式地形を形成しており、松浦軍の背後からポルトガル軍の主力艦であるガレオン船が突如出現し砲撃を開始、形成は逆転しポルトガル軍の勝利に終わった。以後の長崎開港(元亀2年)まで福田の町は大変な賑わいを見せたという。

 
 
上写真、現在の大浦川。戦国時代当時は入り組んだ地形を形成していた

※福田港に運ばれた貿易品等の物資は、福田ー油木ー長崎方面を経由する陸路・山路で運ばれたため、非常に不便であった。
 また、最終的な貿易港に選ばれた長崎港も、制海権を握る深堀軍の侵攻に悩まされ続け、安土桃山時代を迎えることとなる。



 大浜町の長崎市編入


 戦後の地方自治体の財政悪化は深刻で、大浜町を管轄する福田村もそんな自治体の一つであった。長崎県の当初の計画では「福田村−式見村の2村合併」案が有力であったが、昭和29年(1954年)6月24日福田村の北村十三村長が「福田村を長崎市に編入方請願」を長崎市議会に提出し、事態は一転する…
 
 長崎市議会は、福田村編入についての特別委員会を設置し、翌月から調査を開始した。その結果、福田村は古くから長崎市との人・物・経済の結びつきが強く、福田村村民の長崎市への編入希望も強いことや、長崎の郊外としての住宅・農林漁業振興の必要性から、昭和30年1月1日長崎市への編入が決定した。

 以後、長崎の郊外住宅地として人口が増加、特にコア・マンションなどが建ち並ぶ大浜町一帯の増加は著しい。また、近年では国道202号沿線でマンション建設・大型スーパー・衣料品店・コンビニ・飲食店・ホームセンター等の出店も進む。平成23年には「長崎南環状線」が全線開通し、ますます利便性が向上している…

 
  
  
◎近年の大浜町周辺の道路開通状況

 ・平成17年12月 「福田・大浜IC〜木鉢IC」 
 ・平成20年 3月 「女神大橋〜戸町IC」
 ・平成23年 2月 「長崎南環状線」全線開通



 長崎遊園地と大浜町


 昭和30年代、日本各地で観光レジャーブームが巻き起こる中、長崎自動車株式会社(長崎バス)は多角化経営の一環として、子会社「株式会社長崎遊園地」を設立。昭和32年(1957年)4月、長崎市に編入されたばかりの大浜町に大型観光レジャー施設「長崎遊園地」がオープンした。

 園内には、子供向けのレクリエーション施設や14基の大型遊具(後に16基に増設)、20のゴンドラを有する観覧車、海水浴場・食堂などが整備され、大変な賑わいを見せた。

 しかし、1980年代に入ると長崎県下とその周辺で大型レジャー施設がオープンし、来客数は年々減少。1996年8月、建物・遊具の老朽化も重なり閉園となった。なお、閉園後の敷地はマンション及び商業施設として利用されている(2015年現在)。


 福山雅治さんと大浜町
 
 ちなみに…

 長崎出身の歌手で有名なあの福山雅治さんと大浜町は無縁の関係ではない。なぜならば、福山さんはほぼ毎年夏に大浜町にライブに来るからだ。そう、毎年夏に開催される「福山雅治稲佐山ライブ」が行われるライブステージ台の住所は長崎市大浜町となっている。言わば、福山さんは大浜町でライブをしているのだ。



3、大浜町周辺の施設

 

  2015年現在、国道202号線沿線に様々な店舗が立ち並ぶ。大浜町だけでも…
 ・ダイレックス(生活日用品)
 ・大平青果
 ・ジョイフル(レストラン)
 ・エレナ(スーパーマーケット)、
 ・ファッションセンターしまむら(衣料品)
 ・サンドラッグ(薬局)
 ・ほっともっと(お弁当)
 ・めがね市場               など
  
  また、202号を福田方面へ少し進むと…
 ・西松屋チェーン
 ・若竹丸(回転寿司)
 ・ザ・ダイソー
 ・ホームセンターナフコ
 ・コスモス(薬局)
 ・サンキューカット(理髪店)       
 など、多くの商業施設が展開している。





4、参考文献

・長崎文献社 編「長崎事典 風俗編」1982
・長崎文献社 編「長崎事典 産業編」1988
・江越弘人 著「長崎の歴史」弦書房2007
・長崎市史編さん委員会 編「新長崎市史第4巻現代編」2013





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