わがまち 矢上
            
         
          旧長崎街道 矢上宿


1、長崎市東長崎地区

 
昭和30年(1955年)、矢上村・戸石村・古賀村の三村が合併し「西彼杵郡東長崎町」となるが、同38年(1963年)の長崎市第8次市域拡張により、長崎市に編入され今日に至る。なお、編入当時の東長崎町の面積は約41平方kmだった。
 昭和40年後半になると、つつじヶ丘団地(昭和46年)・古賀団地(昭和49年)・矢上・高城台団地…と次々に団地開発が進んだ。また昭和53年〜平成15年にかけて行なわれた「東長崎地区都市計画事業」により、矢上・田中・東町の各一部(105、3ha・総事業費約220億円)が再整備され、住み良いまちづくりがなされた。
 ちなみに、平成27年現在の東長崎地区の各住宅団地は、ほぼ全町域で人口減少が著しいのに対し、平地の既存市街地の人口は増加中である。



2、矢上の由来

 矢上(やがみ)という地名の由来については4つの説があり、はっきりとはわかっていない。しかし、神様に矢を奉納するという「山神説・軍神説・八郎為朝説」を見れば、いずれも弓矢の矢と関係が深いことがわかる。
 矢上町の隣町の田中町田ノ浦地区には「赤松」という字名があるが、この地名の由来であろう赤松の木は古代の時代から矢の木材部分に使用されていることや、田ノ浦地区のさらに奥の中尾地区に「矢筈(やはず)」という字名がある(矢筈は弓矢の弦を受ける尾の部分)ことから、これらの地区一帯で弓矢の矢は共通のシンボルのような存在であったのかもしれない。
 また、南北朝〜戦国時代にかけて、高城台に城館を構えていた「矢上氏」の名が見えるが、諫早の戦国大名西郷氏の滅亡と同時期に姿を消しており、詳細はつかめない…


  
  番所橋跡と田之浦川


3、史跡・名勝
   高級宿泊施設!?「矢上本陣」跡

 江戸時代、旅人が矢上宿に入ると、まず番所へ向かい役人の許しを得た上で、飛脚を長崎まで走らせ、長崎方面から来る飛脚に通行の許可を貰いこれを番所の役人が確認して初めて通行の許可が出ていた。
 当然、矢上宿→長崎→矢上宿と飛脚の返事を待つわけだから、少なくとも数時間は待機せざるをえず、旅人たちはその間に宿探しをして休息を取った。またこれは旅人だけに限ったことではなく、長崎へ往来する大名とその家臣団もこの矢上宿で休息・通行待ちをした。そして、大名・重臣クラスの武士たちが休息を取っていた場所が、この矢上本陣跡であった。
 現在は、国道34号線沿いの田ノ浦方面との交差点、ちょうど長崎自動車学校の角の高台あたりになる。「杉沢文庫」によると、畳が何百畳かある豪勢な建物があって、便所も漆塗りの特注であったそうだ。高台には巨木が茂っていて、そこに馬をつないだそうである。また、一般兵士の宿泊所(脇本陣)も矢上小学校の管理棟付近にあったそうだ。


                        
   現、長崎自動車学校高台付近

   吉田松陰先生「矢上番所」を通る

 嘉永3年(1850年)9月、一人の青年が矢上宿に滞在していた、その名は吉田松陰。藩主毛利公に遊学が認められ、長崎遊学の途中であった。矢上宿に滞在したのは一日だけであったが、当時の矢上番所を通る様子が、その日記(「吉田松陰全集第7巻西遊日記104項)に記されている。
 日記には、「矢上宿を離れるとすぐ番所の門があって、門内には街道警備の役人たちが見張っていて、通行の許可を得て門外へ出ると橋があった…」と記されている。
 下の絵図は、幕末期の矢上番所の絵図であるが、日記の文面の通り矢上宿−番所−番所橋となっている。「この番所橋を渡れば長崎まではあと少し!!」と、吉田松陰先生は夢と希望を膨らませたに違いない…


  
     現、浜田食堂付近                    

   矢上裁判所役屋敷」跡

 
矢上宿には、現川(うつつがわ)の諸士も合わせると100名ほどの諫早武士が常駐していたようで、長崎街道の警備はもとより、浦上から許可証を持たずに山越えをしてくる隠れキリシタンその他流れ者を厳重に取り締まっていた。また、民事・刑事・願い事・その他一切の事務を奥役・番頭などの3名でほとんど専決し、藩に報告していた。
 そして、明治5年に林田要之進の民間払下げとなり、その際の居宅・塀等が今に残っている。裏には、武道稽古場・踊り場があったという…


  
    矢上役屋敷跡          



4、明治日本の産業革命遺産と矢上地区

   侍石石材長崎三菱造船所

 長崎市東町の普賢山登山口から山側へ進むと狭い谷間となっており、この近辺を昔から「侍石(さぶらし)」地区と言い、かつて壇ノ浦の戦いで破れた平家の落人が腰を掛けて休んだ場所であったそうだ。それから、約600年後の明治初頭、平家の落人たちが腰掛けていたその休石に思わぬ需要が生じた。
 明治4年、工部省から三菱造船を引き継いだ岩崎弥太郎は、長崎港に次々と造船ドッグの建設をはじめたため、ドッグを囲む石材が必要となった。
 そのような折、この侍石地区の侍石層の岩盤が最適と判断され、三菱造船第一ドッグの底石として採用されるに至った。また、天草・島原・小浜などの各地から数百人の採石人夫が募集され、賑わいを見せたそうだ。

 
  田ノ浦地区の良質な石炭採掘所

 諫早藩の公式記録「諫早日記」には、江戸時代の文化年間にかけて、矢上・田ノ浦地区での石炭採掘の記録が見える。諫早藩では幕末の蒸気船運行のための石炭が必要であり、この田ノ浦地区の石炭が良質と判断され、慶応2年(1866年)から採掘を開始。近郊の東房地区には備蓄所も作られ、慶応4年の炭鉱閉山までの2年間、当時の蒸気船の燃料として用いられた。
 そして、、昭和33年1月から石炭採掘が再開し、田ノ浦川から南側(現在の陰平地区)に炭鉱夫の長屋などが建てられたが、3年後の昭和36年には閉山が決定。以降矢上地区での石炭採掘は行われていない…





5、参考文献

 ・長崎文献社       編「長崎事典 歴史・風俗編」1982
 ・東長崎地区連合自治会  編「2000年の東長崎」
 ・岩永弘         著「続・長崎市町別の史跡」2011
 ・林田作之進       書「矢上郷土絵図」





免責事項:本ページの内容について、その有用・有効・正確・最新性について何ら保証するものではありません。本各ページ末尾には「参考文献・引用資料・出典元」を記載しておりますので、さらに詳細事項をお知りになりたい方は各自ご確認願います。また、各ページともに予告なく更新されることがあります。

 Copyright やまたつブログ・長崎 AllRightsReserved2019