第3回 自然哲学・万物の根源・倫理学への道のり

先週「哲学の始まり」という誠に高尚なテ−マについて書いたのですが、好奇心から読んだ人の中には途中で気分が悪くなった人もあるのではないかと心配していません。また、読んでも「何のことやようわからん」と思った人もいるでしょう。でも、それは別に知能指数が低いからでもなんでもなく、単に中学生には難しすぎる内容だからなのです(すんまへん)。だから、全く気に病むことはありません。でも、今日のは前にもまして複雑怪奇な内容な上に、見慣れないカタカナの名前が沢山出てきますので、読むならば深呼吸を三回ぐらいして、脳味噌のマッサ−ジをしてから読んでください。でないと、顔面神経痛や、脳味噌のアキレス腱断裂など起こし今期出場が絶望になったら困りますから。

 前回、ギリシアで紀元前6世紀に「万物の根源は何や」という問題を考えた人たちが出たといましたが、正確にはこれらの人は実は皆いわゆるギリシア本土の人ではなく、ギリシアの植民地の人だったのです。ギリシア本土は山がちで耕地が少ないので、ギリシア人は昔から地中海の色々なところに船で出かけていって、故郷と同じような町(ポリス)を立てたのです。今でも有名なナポリ(これはネア・ポリス、つまり「新しい町」と呼ばれた)やマルセイユやイスタンブ−ル(当時はビザンチオンと呼ばれた)はギリシア人の植民した町だったのです。

 ともかく、初めの頃のギリシアの哲学者の興味は、万物が「何からできているか」ということでした。別の言い方をすれば、ものの「材料」を探していたわけです。そして、水とか空気とか四元素などの答えを出したわけ。もう少し後になると、デモクリトス(BC.460~370)という人は、「万物はそれ以上分割できないもの(ア・トン)から出来ている」と原子論を考えましたが、これは現在の物理学でも採用されていますよね。

 でも、もう少し考えると、ものは材料だけで出来ているのではないでしょう。たとえば、陶器を考えてみてください。どれも粘土からできているけど、実際できあがった陶器は様々な「か・た・ち」がある。このことに気づいて、材料(哲学では「質料」と呼ぶ)より、「かたち」(「形相」と呼ぶ)を探し始めた人もいました。それがピタゴラス(BC.569~500ころ)です。この人は南イタリアで秘密の宗教団体を作ったのですが、彼は「すべては数だ」と主張しました。再び「あほちゃうか」と考えそうになりますが、この人たちは決してノ−タリンではなかった。この世界に存在するものには調和(対称や比例)があるでしょう。また数字にも独特の調和がある。そこで、万物の裏には数字があると考えたわけ。

 こうして、ものの質料と形相がわかったにしても、次はそれではその要素がどうして一つになったのか、が問題になります。ある人は、それは愛と憎しみだ、なんてとても詩的なことを言いました。つまり、愛によって異なる要素は結びつけられ、憎しみによって分離する、ってわけ。また別の人は、この世界の様々な要素を調和に導いている「精神」があると考えた(キリスト教の神様ですね)が、デモクリトスはアトム(原子)はそれ自体で動くと考えた。

 また、これとは別に「一つ一つのものを見るよりも、全体を見ないとあかん」と言った人たちも出ました。「万物は絶えず変化しとる(万物は流転する)」と言うヘラクリトス(BC.540〜476)と「本当の存在は変化せーへんもんや」と言うパルメニデス(BC.5世紀の前半)の主張の対立も見られました。

 パルメニデスは存在するものは唯一不変永遠であるはずと考え、この世の移り変わるものは本当の存在ではないと主張しました。彼は一切の変化と運動を否定したのです。この意見はまったく常識はずれに聞こえるでしょうけど、これもやはりでたらめではないのです。彼の弟子ゼノンは運動がないということを証明するために、有名なアキレスと亀の話を使いました。この話を知らない人は数学の先生に聞いてください。と言っても聞かないでしょうからちょっと説明すると、アキレスというのはギリシア神話に出るとっても足の早い人です。ゼノンは言います。「ある日アキレスと亀が50メートル競争したわけや。ハンディーつけるために亀は40メートル先からスタ−トさせる。そうすっとアキレスが40メートルの地点に来たとき、亀は少し先(これをA点とする)に行っとるやろ。アキレスがA点に着いたとき、亀はもう少し先(B点)に行っとる。アキレスが歯を食いしばってB点に着いたときは亀はもう少し先に行っとる、てなわけでアキレスは永遠に亀に追いつかへんちゅうわけや。だから運動ちゅうのは見せかけなわけや」と。 こうやって、「ああでもない、こうでもない」と言っているうちに、ギリシアでは大きな変化が起こっていました。紀元前490年に始まったペルシア戦争(有名なマラソンの戦いはこの時)の後、アテネが政治的にも経済的にもギリシアの中心地となる(紀元前5世紀はアテネの世紀!)。このアテネでは世界の歴史で初めて民主政治が栄えました。このような大きな変化に加えて、ペルシア人との戦争によってギリシア人が外の世界を知るようになると、世界には自分たちのとは違った風習や社会制度があることが段々わかってきたわけ。そうすると、人々の中には人間の作る法や道徳は今まで考えられてきたような不変なものではなく、移り変わるものではないか、と考える人が出てきました。

 また民主政治のために、アテネでは誰でも口先三寸で政治家になれる時代がやってきました。そこで人々が夢中になったのはいかにして討論で相手に勝つことができるかということ。そこで弁論術が大いに人気を博した(大学には弁論部があるところもあります。例えば海部元首相は早稲大学の弁論部でした)。それを見て「儲けたろ」と思う人が出るのは世の常で、アテネでも「弁論術、教えます。駅前学習塾」というチラシを新聞にはさんで配ったり、電信柱にはったりする人がうじょうじょ出てきました。この人たちは「ソフィスト」と呼ばれ、世界史上始めての専門的教育者と言えますね。

 こういう変化によって、それまで自然を研究していた哲学者たちは、これからは人間を研究するようになるのです。これが倫理学の始まりです。


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