第33回 救いは自力本願か他力本願か |
今年も暮れになって世界では物騒な事件が起こっていますが、これが一時的なものに終わるように祈りたいです。今年が終わる前に少し言いたいことがあるので、この場を借りて、言わせてください。 前回天国について話しましたが、キリスト教ではこの世界の歴史にはいつか終わりがあり、その時に最後の審判が行なわれ、その後は天国と地獄が永遠に続く、と教えます。だから、人間にとって本当の悪は永遠の罰だけで、そこに落ちる原因が罪ですから、この世で恐れるべきは罪を犯すことのみという非常に簡単な結論になります。また、「救われる」とは天国に行きそこで永遠の命を楽しむという意味になります。 それでは問題です。この永遠の命は人間の努力によって達成できる目標なのでしょうか。これはかなり難しい、というより理解不可能な問題なのですが、説明だけさせてください。仏教に自力本願と他力本願という二つの考えがあるのを知っているでしょう。自力本願というのは、自分の努力によって、つまり厳しい修業をすることによって悟りを開けるという考えで、禅宗(日本では鎌倉時代に始まった曹洞宗と臨済宗など)がそれ。他方、他力本願とは、救いは人間の力では達成不可能で、ただただ仏のご慈悲にすがるしかないという考え。浄土宗(法然)や浄土真宗(親鸞)や法華宗(日蓮)がそれでしたね。親鸞によれば、生涯に一度だけでも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、どんな悪い人でも救われる。 それでは、キリスト教は自力本願、他力本願のどちらなのでしょうか。ここで、キリスト教と言ってもプロテスタントとカトリックを区別しなけばいけません。プロテスタントの創始者のルタ−(1483〜1546)は、親鸞と同じ考え方です。つまり、ルタ−は「人間はアダムとイブの原罪によってとことん堕落してしもた。全人類はその堕落し切った本性を引き継いどるから、ええことしょうと思てもできへん。つまり、人間がする行いはすべて罪や。せやけど、イエス・キリストを信じたら、その信仰のみによって救われるんや」とドイツ語で言った。つまり100%の他力本願です。また、ルタ−は人間がよいことができないと言うことで、人間が自由であることを否定したのです。 それに対して、カトリックも、天国に行くのは人間の力では無理で神の助け(恩寵)がいると教えます。しかし、人間の側から何もできないのではなく、人間が神の助けを受け入れて協力する必要がある、と教えます。アウグスティヌス(4〜5世紀)という人は「神はあなたなしにあなたを造られたが、あなたなしにあなたを救うことはない」(ちょっとややこしいですが)と説明しています。カトリックでは人間に自由を認めるわけです。だから、カトリックの考えでは、地獄に落ちる人がいるならば、それはその人が自由に悪を選択した結果である、いうならば自業自得なのだ、なるほど、となるわけです。 でも、問題はそう簡単ではない。なぜならば、「人間は自由やと言わはっても、神様は初めから一人一人の人間がどんなことをするかをご存知でっしゃろ。そうやったら、地獄に落ちる人がいるとして、神様はそのことを分かっといてその人を造られるんやさかいに、結局人間の運命は前もって決まっとるわけで、自由なんて見せかけとちゃいまっか」と反論ができるからです。人間の運命が生まれる前から決まっているという考えを「予定説」と言い、カルビン(1509〜1564)がこれを唱えました。彼はスイスのジュネ−ブを支配して、自分の始めた宗教を他の国にも広げるために宣教師を派遣し、特にオランダとイギリスで成功を収めました。この信者たちは、当然「予定説」を聞いて恐れました。「ヒェ−、も、も、もし私が地獄に予定されていたら、どうしたらええん」と。それに対してカルビンは、「心配せんでもええ。あんたらはこの世で成功しているやろ。現世での成功は神様の祝福を受けている証拠やから、救いに予定されていると考えて間違いないんや」と言って安心させた。そこで、カルビン派の信者たちは、一生懸命に働き儲けたお金をドケチ教の精神で貯金し倹約をかさねて成功していったのです。 ついでですが、この考えに従えばこの世で成功していない人は滅びに予定されているわけで、「そんな人間は人間じゃねえ」という結論が出てきてもおかしくないでしょう。アパルトヘイトの南アフリカは、もともとカルビン派のオランダ人が植民したところですし、アメリカ合衆国もイギリスの清教徒が植民を始めた国だと言えば、人種差別と予定説が関係あることが予測されますね。 これに対してカトリックは、この予定説を誤りとして断罪しました。「でも、こんな問題については、何を根拠に結論を引き出すんや」と問われれば、それは聖書です。聖書にいかに書かれているか、それこそが最終的な根拠なのです。誰も死後の世界を見てから帰ってきて「おい、天国ちゅうところはこんなところやぞ」と話した人はいないのですから、人間の言うことはどれも想像に過ぎない。けど、聖書が神様の霊感を受けて書かれていると信じるキリスト信者は、聖書に頼るわけです。それでは聖書には何と書いてあるか。この点について一番大切な言葉はこれ。「すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる」(ティモテオ前、2章1、4)。神がすべての人の救いを望まれることは、聖書の他のカ所からも結論できる教えです。だから、もしそうなら神がある人をわざわざ地獄に落とすためにお造りになることは絶対にありえない。 神はすべてをご存じ(全知)というのは本当。だから、誰が救われ誰が滅びるかも神はご存じ。でも、ある人が滅びるということを知っているということと、その人を滅ぼすということは別と考えなければいけません。私たちが悪いことをしたとき、神が前もってそうするように決めていたから私たちがその悪を行ったわけではなく、やはり、自分で進んで自由にそれを選択したのでしょう。でなければ、たとえ悪業をしても、本人の責任ではなく、前もってそれを決定していた神様の責任になる。 とはいっても、この問題は最終的に人間には理解不可能なのです(人には理解不可能な啓示された事実を奥義{ミステリ−}と言います)。ただ、カトリックの教えとして三つのことだけ明確にしておきます。 神は誰をも永遠の罰に定めるということはない。 神は私たちが善を選ぶように助けを与える。 しかし、善を選ぶか悪を選ぶかは私たち人間に任されている。言い換えれば、私たちは自分で自分の運命を決めることができるということです。「人生は遊び事ではない。まじめなものだ」という結論になる。 |
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