第36回 自由について・その2 |
試験の発表が始まり一足早く関門を突破した人たちもいますが、まだの人たちのことも考えてクラスの雰囲気をよく保つように頑張ってください。今日も言いましたように、人は偏差値だけで計れない。本当の実力を身に付けるように普段から心がけてください。その一つの道が、何度も言うように良書を読むことです。 さて前回「自由」について話しましたが、今日はその続きです。まず、人間は自由だと言うことは、普通の人にとってはまったく疑いのない自明の事実なのですが、「いいや人間は自由じゃない」と言った人たちもいたことを教えておきます。例えば、ギリシア時代には運命論者と言われる人たちがいましたが(仏教もそうです)、この人々はこの世で起こるすべてのことは前もって決まっていると考えます。「そんなこと言っても、例えば今いうがいまここに居るのは、自由にここに来たからばい」と言うでしょうが、そうするとその人々は、「それはあんたがそう考えているだけで、そう考えることも前もって決められとったんや」と言い返すのです。でも、これはへ理屈です。私達が無制限にではないとしても、思い通りにいろいろとできることは、毎日の経験の中で確認された事実でしょう。 また、ルタ−(16世紀)は、以前何度か言いましたが、「人間は原罪の結果悪に凝り固まってしもたさかいに、悪いことしかできへんのや」と主張したのですが、これは結局人間は自由ではないということです。彼は『奴隷意志論』という本で、そのことを説明しています。 さらにマルクス(19世紀)は、「この世界の歴史は階級というものがない共産主義社会に向かって進んどるんやけど、人間には革命を起こしてこの歴史の流れに協力する自由しかあらへん」と言いました。このような自由は、本当の自由ではないことは簡単にわかるでしょう。 人間が自由でなければどうなるか。答えは簡単。「責任がなくなる」ということです。運命論者が正しいならば、例えば私が誰かに噛みついたとしても、「この行ないは私がしようと思ってしたことではなく、前からこうするように決まっとったんや」と言うことができるわけでしょう。ですから、当然責任はない。責任は、そんなことを決めた運命にある。運命が悪い、と言えるわけです。ルタ−の言うことが本当なら、人間は何をしても悪いことしかしないなら、人間は結局悪いことができないと言う変な結論になることがわかりますか。つまり、悪いことをしても、「どうせ私は悪いことしかできへんのやから、私には責任がない。責任があるのは、こんな風に人間を作られた神様とちゃいまっか」と開き直ることができるわけです。
マルクスの理論では、人間には自由に選べる能力がないということになります。これは、彼の考えの出発点が唯物論(物質以外のものを認めない。つまり精神的な存在を認めない)にあることの結果です。というのは、人間が肉体だけからできているなら、結局機械と同じように自然の法則(物理の法則)にだけ従って動くはずだから。 自由にものごとをすると失敗してその責任をとらなければならなくなる可能性があります。自由に失敗はつきもの。まだ若いときには失敗も多いわけですが、いろいろと自分で試してみて失敗してください。ただ、その失敗を教訓にすることを忘れずに。失敗を恐れて自分からは何もせずいつも大人の指示だけに頼っていては、いつまでたっても自分から自由に行動できる人にはなれません。以前ある大学で、入学式のときに一人の生徒の母親が学校の事務室に電話をかけてきて「息子が提出物を忘れたと電話で言ってきたのですが、どうすればよいのですか」と質問したそうです。18歳にもなった大学生がそんなことも自分で聞けないのかと事務の人は唖然としたそうですが、普段からなんでもかんでも親にしてもら子供が多い今、このような日本人が増えているのかと思うと心配ですね。 たしかに小さいときはまだ経験も知識も限られているので、自分で決めれることは少ないでしょう。だから、例えば、小学1年生の子供が自分のもらったお小遣いで、きれいな消しゴムを7つ買ったとする。後で「7つも買って損した」と悔やむでしょうが、こういう経験を繰り返すことによってお金の正しい使い方を学べばいいわけです。だから、子供のためを思うなら、親は小額のお小遣いを与えてそれは子供の自由に使わすようにすればいい。子供は自由をどのように使うかを失敗しながら覚えるわけです。 もちろん、何か決めないといけない場合、特にそれが重大な事柄であれば、信頼できる人に相談してその助言に耳を傾けるのは賢いやり方です。でも最後の決定は自分でして、その結果は自分が責任をとるのが一人前の人間でしょう。ということで、少しずつ責任をもって自由を使う練習をして下さい。 それではまた。 |
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