★★  怒涛!「D.H.T.」はこうして完成した!  ★★
私は1960年代初旬、長崎県長崎市に於いて生を受けた。
私のオーディオライフのはじまりは幼少の頃、オヤジが買ってきた、安価と思われるスピーカー付きアナログプレイヤー(型番購入時期など今となっては不明。)でウルトラQのレコードを聴いたのが最初だった。
ビジュアルのはじまりはもちろんTVだが、TVはオヤジとオフクロが結婚して、私が生を受ける前に購入していたようだ。(モノクロだけどね。)

幼稚園の年長頃に確かカラーTVに変わったと思う。初代ウルトラ世代でQ、マン、セブン、帰ってきたマン、そして初代仮面ライダー、2号、V3を見て育った。
初めて映画館にいった時の記憶は曖昧だが、いつ頃だったか・・・「ゴジラ」映画を中心とした「東宝チャンピオンまつり」だったように思う。

我らの世代が小学校の頃、学研の「科学」(理系)と「学習」(文系)という雑誌を学研と学校が結託して販売していた。(学研は学校にリベートとか払ってたんかなあ・・・不思議な疑問!?)私はで「科学」の方を購入していた。確か4、5年生の頃、「科学」の付録に自作するダイオード・ラジオが付いていた!付録の部品を組み立てて地元局とNHKが受信できた時は「ふんふんなるへそっ!」と歓心したものだ!

小学校高学年より、BCLにはまる。BCLとは簡単に言うと・・・ラジオで海外短波放送を中心にエアチェックするものであった。季節や電波、天候の状況で受信し辛いレアな放送局が受信できた時は感動ものであった。
当初National Panasonic製のラジオ(型番失念)で海外短波放送を聴き始める。
TRIO(現KENWOOD)のR-300ドレークSSR-1といった5〜6万の中級機種に憧れるが、当然のことながらお金もなく、月々の小遣いやお年玉をためて、やっと初級機種National Panasonic製クーガ2200(RF-2200:定価34,800)を2万円代後半の金額で手に入れた。その後、専用用アンテナ、アンテナ・カップラーを追加購入し、海外短波放送を聴きまくり、ベリ・カードの収集(海外短波日本語放送を聴いて、国際郵便切手を内封し、その局に送ると受信の証しとして、カードやペナントを送ってくれてた。)に躍起になっていた。
そういや北朝鮮の日本語放送も聴いていたが、やっぱり当時から独特の語り口調で、金日成首領様を礼賛し続け、アメリカ帝国主義と戦うとのたまい(現状のアメリカを見ると一理あるけど)、資本主義社会を完全否定し、まるで社会共産主義主義で実現できた天国のような国と自画自賛ばかりの内容でかなりの違和感・・・あったなあ・・・。(当時、小学生でもそれは感じていた・・・。)
でも、BCLはインターネット等もちろんない・・・海外旅行など夢のまた夢という時代で海外との繋がりを電波で知らしめてくれた貴重なメディアを体験できる素敵な趣味だった。(アメリカ、イギリス、ソ連、ドイツ、中国、台湾、遠くは南米エクアドル・・・。)

           クーガ2200(RF-2200)

同じく小学校6年頃、いつもお世話になっていた街の電気屋さん(SHARP製品ばかり取り扱っていた)が、家に来て試聴して下さいナ・・・・と置いていったSHARP製のモノラルラジカセ(型番失念)がいつの間にか自分のものになっていた。それから音楽を聴きまくり、カセットテープもどんどん増えて行くのだが、私は当時からどういう訳か流行の歌謡曲というものにあまり興味を示さなかった。BCLでの下地があったせいかFEN(在日米国軍人向けの大衆放送)やVOA(Voice Of America)などをよく聴き、誰が歌っているのやらや誰が演奏しているのやらさえよくわからなかったが、洋画のサントラや、洋楽ROCK、JAZZばかりを聴いていた。
中学まではステレオを体験できるのはVICTORのステレオを所有していた叔父の家に行った時だけだった。左右のスピーカーから繰る出される不思議な音響効果に聴き入ったものであった。

小学高学年から中学まで少ない小遣いで映画館にも足げに通った。洋画が中心であった。小学生の時見た「燃えよドラゴン」、「エクソシスト」、「タワーリング・インフェルノ」は衝撃的だった。
特に「燃えよドラゴン」からはじまる一連のブルース・リー映画、香港クンフー映画、千葉真一のカラテ映画、極真カラテ崇拝MOVIE「地上最強のカラテ」シリーズ、MADE IN AMERICAマーシャル・アーツMOVIEは後の私の人生に多大な影響を及ぼす。

高校になりSONYのWALKMANが発売され、ヘッドホンで衝撃的なステレオ体験をする。
自宅にラジカセとWALKMANはあったが、ステレオシステムはなかった。
高校まで邦楽にはあまり興味はなかったが、大瀧詠一、細野晴臣、山下達郎と吉田美奈子(本田じゃないぞ!)を知り、その斬新な切り口の音楽性で邦楽シーンを一新した彼らに完全に嵌ってしまう。
洋楽はマービン・ゲイとボブ・マーリー、そしてマイルス・デイビス
この頃は兎に角の映画も見まくった。封切り日の土曜日にお気に入りの映画があると学校さぼって見に行った。
リー優作ジャッキーマックイーンHEROだった。(これは今も変わらない。)

高校卒業後は極真カラテの内弟子になるつもりだった・・・。そしてJAC(ジャパン・アクション・クラブ)に入りアクション・スターとなりハリウッドヘ等ととんでもないことを夢見ていたアホであった。
だが、しかし、私のこのアホな企みは両親やら親戚、果ては友人の親まで出て来て一同に会して説得され、気の弱い私は断念してしまう。家出する気力もなくなってしまう半端者。

しょうがないので大学受験、もちろんこんな半端者は受験失敗。
一浪して大学受験。何とか東京の大学だけにに引っ掛かり、誠に不本意な上京をする。

上京時、手元にあったAV機器は小学校の時に購入したクーガ2200とWORKMANだけ。TVもラジカセもない。
昼は大学に通い、夜はバイト中心の生活。(不本意な形だが極真の道場にも通った。)
最初のバイト料が入ったのでTVを買う。でもカラーTVを買う金がなくしかたなく1万4千円のモノクロTVを購入。

ところが、ひょんなところから泡銭が生まれる。
競馬である。(学生さんはほんとは馬券買っちゃいかんのだが・・・。)
バイト先で日曜日の午後ランチタイムが終了し、休憩時間になるとバイト仲間や社員の人がいつも馬券を買っていた。私は競馬など興味なかったのだが、ある日ちょっと気が向いて買ってみた。連複2千円の一点買い・・・。
厨房に置いてあるラジオからレースが流れる。本命馬全く来ない・・・。あれ、まてよ俺の馬券きっちゃたよ。当っちゃったよ。おいおいみんな!当っちゃったよ!ほんとに!52.9倍!2千円が10万5千800円になっちゃたよ!
ビギナーズ・ラック!って奴ですかねこれは!
しかし、所詮泡銭、これはすぐさま換金して使わなければ・・・。
ってことで、SONY製14インチカラーTV(型番失念)とSONY製β(ベータ)ビデオデッキ(型番失念)にバイトの休憩時間中に化けちゃった。(初めてのビデオデッキ。VHSにすべきかβにすべきか大いに悩んたが、その頃の仲間は何故かβ派が多く、携帯性と画質の良さに納得し、私もβを選択した。)
その当時、レンタルビデオ店も近隣地区にちらほらと現れはじめていた。しかしながらβの貸し出し作品は少なくVHSが多かった。その店はVHSデッキの貸し出しもやっていたので、VHSデッキを借りて、再生、βテープへコピー(これも違法だが、そのころはコピーガードもなくバンバンコピーできたもんだった。)その結果、膨大なβテープの洋画ライブラリができあがった。(当時は、考えりゃ画質や音にもそんなこだわりはなかったなあ。好きな映画が自宅で見れるだけで満足できたもんだ。)
映画館にもよく通った。バイト仲間や店長、チーフも映画好きでよく土曜日のオールナイトを見に行った。私の大好きな映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」に出会ったのもこの時だった。東京国際映画祭がはじまったのも大学の時だった。映画祭で見た「キリング・フィールド」も忘れられない。カンボジア人通訳ディス・プランを演じた今は亡きハイン・S・ニョールの舞台挨拶(ハイン・S・ニョール自身にとっては「キリング・フィールド」は実体験であった。)は印象的だった。

大学は何とか4年で卒業し、とあるコンピュータ・ソフト会社に入社した。
我々のころの就職活動はバブル前であったが、バブルへ向かう途中であったため、比較的に売り手(学生)市場だった。にも拘らず私はまたアホなことを考え就職活動が滞ってしまい、年を越してしまい4年の1月の時点で就職が決まってなかった。
別段あせってはいなかったが、周りの連中が続々と将来の決断を下す中、アホな私も多少心持が心配になってきた。
年齢からしてもアホな考えは諦めなければならん。就職すべ!
バイト先の休憩時間に朝日新聞の求人欄に大手コンピュータ商社傘下のソフト会社の求人が載っていた。結構名のある会社なのに、まだ新卒も募集している。なんの迷いもなく履歴書を送付し、連絡を取った。
採用試験で大いにトチッてしまったと思ったが、何とか1次面接、2次面接を潜り抜け就職することができた。(採用試験で大いにトチッていたのは事実であったようだ。私の結婚式の際、統括部長にそのことをバラされた。

社会人になって1年目のとある日曜日、突然ステレオ・コンポが欲しくなり、秋葉原の電気街をうろついていた。
オーディオハイエンドを見聴きしたら、エンドがなく切がない。(じゃーハイエンドっていうなよな!)しがない社会人1年生。妥協点は20万円しかないと決め。巡り巡った時、明らかにハイエンドとは程遠いが、私の心をゆるがす音が聞こえてきた。サンスイのシステム・コンポ(型番失念)であった。そのスピーカーから流れる音。同じ価格帯のコンポの中では明らかに音が違っていた。芯がありそれでいて流麗な音であった。初めてほんの少し音に目覚めた瞬間だった。即決した。
ビジュアルの方では、βビデオの衰退が思った以上のスピードで進行し、VHSへの移行も考えざろう得なくなった。
巷では走査線400本以上のS-VHSのビデオデッキが発売されることがアナウンスされるような時代になった。
画を見て即決した。東芝のS-VHSビデオデッキ(型番失念)で18万だった。
私の中でも徐々にA(オーディオ)V(ビジュアル)が交じりはじめて行った。
最大のきっかけはLDプレイヤーの発売ドルビーサラウンドプロロジックAVアンプの登場であった。
サンスイのシステム・コンポの寿命が尽きる(早い寿命であった。)とともに、LDプレイヤー(PIONEER製型番失念)KENWOOD製AVアンプ(型番失念)、スーパー・ウーハーにKENWOOD製SW-7、サラウンドスピーカーにマランツ製スピーカー(型番失念)が加わった。フロントはサンスイのシス・コンのスピーカーをそのまま流用した。
私のAV融合ライフはここからスタートした。しかし、モニターは当たり馬券で購入したSONY製カラーTV14インチのままと寂しいものであった。

社会人となって数年後、結婚という一大転機を迎える。

上京してから結婚するまで住んだ古く寂しいアパートよ!さようなら!大家さんお世話になりました。
サラウンドシステムは新しいマンションにそのまま移行した。

結婚してTVを買い換えることになった。私は29インチのTVを希望したのだが、妻の反対でSANYOの25インチ(BS内蔵。型番なんて憶えちゃいない。)になってしまった。このTV保証期間を過ぎた辺りからおかしくなってくる。走査線が極端に斜めに走り始め、画像が傾き始めたのだ。電気屋にも見てもらったのが直らないという。気に食わない。まったく気に食わない・・・買い替えを提案したが、却下。何年か我慢して過ごした。
ところがある日、妻が出窓に置いていた植木鉢の花に水をやろうとしたところ誤って、思いっきり気に食わぬTVに水を差してくれた。TVは見事にショートし、白煙を上げて、ご愁傷様となった。
妻は乾くときっと直るもん!と強く言い張ったので暫く我慢して様子を見たが、とうとうあきらめてくれた。
しょーがないので近くのコジマ電機に行った。
36インチのワイドはまた、文句でそうだけど32インチだったら大丈夫だろうと高をくくっていたところなんと32インチは高いしデカイし、嫌だねとごねる。
おい、またかよ、自分で全額金だすと言ったが、どこにそんなお金あるの?お金あるなら別のことに使えばいいじゃん。TVなんて見れればいいよ
あのね、少しでも大きい画面で映画みたいんだよ!と言いつつも強気になれない弱い私・・・。
結局8万程度の三菱製(型番失念)28インチワイドTVに収まってしまった。

その頃、AVの世界ではドルビーサラウンドプロロジックからドルビーサラウンドAC-3(ドルビーデジタル)の時代へと変遷を遂げ、DVDという新たなメディアが出現しようとしていた。

またまたある日。大好きな吉田美奈子のライブLDをかけようとしたところ、まったくREADできない。PLAY&STOPを何度も繰り返してもREADしない。ディスクに傷が付いたかと思い確認するがディスクには傷ひとつない・・・。試しに他のディスク、グラン・ブルーをかけて見るやはりREADしない。レンズクリーニングするが状況は変わらず。
コンパチだったのでCDをかけるがCDはかかった・・・。でもLDプレイヤーとしてはご愁傷様である。
また、妻と戦わねばならぬ。今度はLDだ!
既にDVDとのコンンパチ機種DVL-9が発売されている。狙いはこれ!AVアンプのドルビーデジタル対応化!AVアンプも必要だ!そうだセンタースピーカーもいる!

激戦の末・・・勝手にしろとのこと・・・。
PIONEER製DVD・LDコンパチプレイヤーDVL-9DENON(デンオン:注!現デノン)製AVアンプAVR-3200YAMAHA製センタースピーカーNS-C105(思えばYAMAHAの我が家へ参入はNS-C105が最初であった。)を手に入れた。

        DVL-9   NS-C105

ところが翌年、秋葉原のアバックでYAMAHAのAVアンプフラッグシップDSP-A1と出会ってしまう。DTS対応である。
DTS・・・DD(ドルビーデジタル)との対照試聴・・・。なんだこの音の緻密さと分離能力の凄さは!
同じスピーカーから出ている音かこれが?
そして初めて知るYAMAHAオリジンルDSPの魔力!

         DSP-A1

激戦する間もなく勝手に買い替えを決意じゃなく・・・。即決購入。
えーっとフロントスピーカーもリアスピーカーも・・・。センターは取り敢えずYAMAHAなのでこれで行こう!
えっ?フロントエフェクトもいるの・・・。金ない。取り敢えず現状リアにしているマランツを持ってこよう!
えっえっ?DVL-9はDVDのDTS出力できないの・・・。
ってことでフロントはYAMAHA製NS-10MT、リアはNS-1000MMに決定。DVL-9の後継機DVL-909がバージョンアップでDTS出力対応可能になることを知り、DVL-909に交換決定!
の居ぬまに(妻は高校時代の友人数人と旅行中)作戦決行!

    NS-10MT   NS-1000MM

妻、帰宅。なにこれ!私の知らないうちに色んな物が代わっている。どうしたのよ!これ!壁にもスピーカーが貼り付いてる。もーしらない。
DVL-9がDVL-909に代わっていることには気が付かなかったようだ・・・。
(無言・・・・無視・・・。)
でも、知らないうちに慣れたようだ・・・。(後にしてみるとそうじゃなかったのだが、本当は・・・。)
LD、DVDソフトも湯水の如く増えていって・・・。これにも気付いていたが、どういうわけか、この点はあまり突っ込んでこなかった。
輸入盤DVDの再生にはHTPC(HomeTeaterPC)を利用し、リージョン1に設定し、当初はそれを利用して鑑賞していたが、DVL-909のファーム・ウェアを確認したところ、ネットでリージョンフリーにできることを知り、半田鏝片手にパッチを当てリージョンフリー化した。(DVL-909は今も現役である。LDの再生画の弱さと、ノンプログレッシブであるのが不満だが、リージョンフリーには換えられない。)

                  DVL-909のリージョンフリー化
       1  2  

それでも傍から見ると夫婦円満。1ランク上のマンションにも引越し。引越しの際、ホームシアターが実現できそうな物件を私は勝手に選んで推していた(ホームシアターの件は微塵にも出さなかったが・・・)が、妻もマンションの機能性の充実に納得し、何とか思惑通りにいった。

翌年、同じく秋葉原でのこと。YAMAHAフラッグシップDSP-A1に代わるDSP-AX1お披露目&新スピーカーラインナップ試聴会。
DD-EX(ドルビーデジタル-EX)、DTS-ES対応。試聴会開始・・・。
何とファンダメタルな音、DSP-A1とは明らかに音色が違う!薄く懸かっていた霧のベールが取れたような晴れ晴れしい音!

          DSP-AX1

再び作戦決行!の居ぬまに(妻は高校時代の友人数人と再び旅行中)DSP-A1はDSP-AX1に変わり、フロントはNS-300、センターNS-C300、リアにNS-10MT、エフェクトに1000MMを!
妻はDSP-A1がDSP-AX1に変わっていることには気が付かなかったが、フロントとセンターがNS-300、NS-C300に代わっているのには当然気付く・・・。リアもNS-1000MMからNS-10MTに大きくなっているし、エフェクトNS-1000MMに代わって形が全然違っているし・・・。(ちなみにリアセンターはこの時点では設置しなかった。)
怒りを通り越していたのだろう、妻には無言で膝を抱えて後ろをむいて座られてしまった。
何日も口を利いてくれず、それでも何ヶ月かの月日は過ぎた・・・。

       NS-300  NS-C300

そして家庭崩壊の日は突然訪れた・・・。
そのころの私はとあるケーブルTV会社のインターネット関連セクションで働いていたが、実家のオフクロが病に冒され、帰省し、再出発をするか、このまま東京に留まるかで大いに悩んでいた。
しかし、私は意を決し退職し、故郷で再出発をすることを心に決めた。妻にそのことを告げたが、東京で生まれ育った妻には酷な相談であった。
そしてその退職日・・・。妻は自宅マンションに戻らずそのまま実家(といいても東京23区内だが・・・)に戻ってしまった。私は慌てて妻の実家を訪れたが、申し訳けないけどあなたとは価値感が大きく違う。もう一緒にやっていけないと言われた。
妻も、仕事も、住む家、東京の友人、その他殆どの物を失うことになってしまった・・・。

妻には故郷長崎まで一緒に来てほしかったが、価値感の違いは妻の言う通りである。私は身勝手で姑息で小心者な男であった・・・。
私の東京での生活は突然の終わりを告げた。3日間掛けて、私は実家長崎に帰郷すべく準備した。
その際DSP-AX1とDVL-909、心癒してくれるような少しのCDとDVD、一部のLDをセレクトし、それらのみを持ち帰った。それを持ち帰る自分も情けなかった・・・。

しかし、それが後のダイ・ハード・シアターの誕生のきっかけとなるのだった。

帰郷後、就職が決まるまではボンヤリとした日々を過ごした・・・。
シアターのこともあまり考えなくなっていた。
人生ダイ・ハードというよりもダイの方に近い日々を過ごした。多くの反省もした。
DSP-AX1もDVL-909も数ヶ月ほったらかしのままだった・・・。

就職が決まり、少し心に余裕ができたころ映画好きな同僚に出会った。
映画の話をするうちに徐々にまた、シアターのことを考え始めた。
地元にできたシネコンにも通うようになり、映画への希望がまた徐々に湧き始めた。
だが・・・実家に居候の身、あまり大きな事も言えない。
それでもYAMAHAの5.1chスピーカーセットNS-P510を購入し、自宅リビングにDSP-AX1とDVL-909を持ち込んで三菱製28インチワイドTVを元に簡易なシアターを構築した。
暫くはそれで我慢していたが、余りにも貧弱な音に滅入ってしまい、懲りもせず(←多くの反省はなんだったのだ!)私はシアターのシステムアップを考え始めた・・・。
しかし、実家のリビングはその形状からシアターをシステムアップするには機器の設置上に様々な問題があった。
スピーカーをこれ以上大きくするとリアやエフェクトスピーカーをうまく設置するスペースがない・・・。
自分の部屋2F和室6畳間(私が東京在住中の大学2年の時まで、実家は長崎市の中心部に建ててあったのだが土地が手狭になったということで市の郊外に新たに土地を購入し、オヤジはもう一軒家を建ててしまった。オヤジは息子と違って大変、甲斐性がある偉い!サラリーマンの身でありながら家を2件を建ててしまった。恐るべし偉大なるオヤジ・・・。しかし、たまの休みに帰省して寝起きしていた新居の6畳間が自分の部屋だと勝手におもっていたのだが、本当にそうだったのかは今となっては定かではない・・・。当初から私より先にどこで手に入れたのか訳の判らないオブジェや、どうでもいいいような物。例えば北海道のいやげ物No.1熊の一刀彫などが鎮座していた。)長年の東京暮らしですでに物置と化しており、その部屋を利用することもできない。
シアター用のマンションを借りる事も考えたが、オフクロの体のこと、オヤジや妹に長年大きな負担を掛けていたことを考えると、それはできなかった。

          NS-P510

私は東京と決別してから帰郷後、ずっと1Fにある6畳間和室仏間)で寝起きしていた・・・。
ある日ふと仏間を見渡した。床の間があり、そこに掛け軸や大皿などが飾ってあったが、その他、置いてあるものと言えば、両開きのガラス戸棚と14インチのTVしかなかった。戸棚を物置と化している2階の部屋に置けば、仏間とはいえ6畳間がまるまる使える。それに壁にはうまい具合に鴨居も走っている・・・。リアやエフェクトスピーカーも設置し易い、鴨居をうまく使えば様々な機器のケーブル類をうまく隠すことができる!
窓に障子もあるが、外には全部シャッターが付いている。昼間でも暗幕にすることができる!クーラーも暖房も付いてる!
これだッ!(←だから、多くの反省はどこに行ったのだ!)
シアターができる!機器もうまくラックに納めれば、液晶プロジェクターで、80インチか90インチもいけるかもっ・・・!

仏間ということで多少心苦しかったが、早速、オヤジに相談した。
現在、自分の部屋がないこともあり、何とか許可を得ることができた!

死に掛かっていたシアターが息を吹き返すことができる!
ささやかな夢のシアターが構築できる!

そうだ!波乱万丈だった夢のシアターだ。それも何度も死に掛け、激戦を潜り抜けたシアターだ!
仏間ではあるが、「ダイ・ハード・シアター」と名付けよう!
スピーカーをどうするか?スクリーンは?液プロは?まあ、今できる予算と相談しながら取り敢えず構築しよう!
今、底にある機器も徐々にアップして行けばよいさ!

こうして・・・「ダイ・ハード・シアター(D.H.T.)」は完成した!



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