海外旅行記 欧州三カ国 

Chapter 3 「ロンドンの再開発」



空港での出来事

1月16日。私達は最終訪問地「ロンドン」を目指してパリのシャルル・ド・ゴール空港に向かう。ターミナル内に入ると何かしら異様な雰囲気である。数多くの警備員や肩から銃をさげている警察官がいるのだ。

我々は出国手続きを済ませた後ロビーで休憩していたのだか、すぐ近くに「黒いバック」があるのを発見した。フランスは置き引きが多いと聞くのに不用心だと思っていたその時、「ピー」というホイッスルの音と同時に警察官・警備員がそのバックめがけて走ってきた。と同時に、周囲にいた人達をそのバックから遠ざけようとしている。その日は「湾岸危機」の緊張が高まっている時期で、そのバックに「爆弾」が入っていないか調べに来たのである。

2〜3分後、50歳前後の外国人が現われ「それは自分のバックだ」と説明しながら恐縮しているもようである。

この光景を目の当たりにして、湾岸戦争が始まったら果して日本に帰ることができるのだろうかと不安になりながら、ロンドンへ向かった。


●ドックランズ再開発

午前11時30分、ロンドンのヒースロー空港に到着。昼食後バスは、再開発が進む「ドックランズ」へ向う。

ロンドン・ドックランズは、19世紀の初頭まで、広大な埠頭とロイヤルドッグをはじめとする多数のドッグを有し、そこにはテームズ川より多くの富が運び込まれ、商工業の全盛を誇った
大英帝国時代の栄光を象徴する中心地であった。

しかし、ドッグを必要とした貿易方式が一変し、1960年半ばから次第に荒廃していく。その有り様は、昼間に警察官でさえ一人歩きをするのが危険と言われるほどの無法地帯だったらしい。

そうした中、1981年に英国政府はヨーロッパ最大の首都、世界屈指の国際金融センターであるロンドンシティに隣接するこの地に「ロンドン・ドグランズ公団」を設置し、基盤施設、環境整備、住宅整備など各種大型プロジェクトを計画したのである。

当時(平成3年)までの開発状況は、完成又は進捗中の商工業関係のプロジェクトを含めると、広さにして約103万平方メートル。1981年以来の新雇用者数は25,000人を超えるものと予想され、21世紀までには20万人を見込んでいるそうだ。

進出企業を見ると、ブリティッシュ・テレコム、KDDなどの通信関連、シティーコープ、ミッドランド、 野村などの金融関連、ガーディアン、デーリメールなどのマスコミ関連やコンピュータ・ソフトウェア各社をはじめ、世界の一流企業が目白押しである。特に商業地区の中心となるカナリー・ウォーフでは、244mの超高層ビルが建設中であった。

住宅建設については、これまで17,000戸、1990年代までにはその2倍に達すると聞く。億ションクラスの分譲住宅から公営住宅に至るまで、あらゆる価格、あらゆるタイプの住宅を確保するなど充分な配慮がなされている。

また、開発に伴い増大する交通量に対応するため、新たに高速道路や地下鉄も建設されている。将来、このドッグランズはドーバー海底トンネルを利用したヨーロッパ大陸鉄道とのイギリス側の窓口として機能するとのことである。

注目すべきは、単に物理的な再開発を目指すだけでなく、そこに住む人々との調和が図られ、コミュニティーセンター、学校、ショッピングセンターの建設はもとより、それらを支えるソフト事業、ボランティア組織への援助まで快適な生活を行うための広範囲なプログラムが編成されていることである。

生活面で、潤いの部分であるレジャー施設などは、屋内スポーツ施設とエンターテイメント施設が一つになった「ロンドンアリーナ」やショッピングとレジャーが楽しめる「タバコドッグ」「サリー・キッズ」などの施設が建設され、世界のエンターテーナーがここで公演するという。

このように、ロンドン・ドッグランズは、投資地、ビジネスの地、住まいと働く地として、英国内だけでなく世界的にも注目されている重要な場所として再生されつつあった。現在、どのような変貌を遂げているのだろうか。


湾岸戦争勃発!


1月17日午前8時15分、メージャー首相が首相官邸前で、英国軍が多国籍軍の一員としてイラク攻撃に参加したことを発表。

遂に湾岸戦争が勃発した。

この日は、ヨーロッパ視察団の公式行事「ロンドン商工会議所」表敬訪問の予定日である。私達団員は、当日そのテレビ中継を見たこともあり、「開戦当日の参戦国」の緊張を感じながら、午前9時40分、ロンドン商工会議所に到着した。

私達を出迎えてくれたのは、国際部部長、主席経済専門家など3名である。ロンドン商工会議所は、日本では東京商工会議所に匹敵する組織であり、イギリスでは最大の商工会議所である。

まず、国際部極東太平洋地区担当のMr.Macdnaldより、同商工会議所の役割や概要について説明があった。同商工会議所の特徴では、ロンドンが国際金融の中心的地位であり、また歴史的に海外との関わり合いが多かったことから、活動が非常に国際的であることだ。

その後、Ms.Ginnaneより英国経済の現状について説明があったが、当時の英国経済は、大変不調であり、高金利(15%)とインフレ(11%)に悩まされているとのことである。今後の湾岸戦争の成り行き次第では原油の値上げ等が予想され、さらに状態が悪化するのではないかと懸念していた。1時間余りの表敬訪問であったが、有意義な研修であった。

表敬後は自由行動となったが、私は午後からのOPツアー参加のため、集合場所のロンドン三越支店に向った。三越の玄関にイラク空爆開始の新聞のコピー(写真)が用意されており、改めて大変なことが起こったのだと認識するのである。


●オックスフォード大学

午後1時、バスは大学都市・オックスフォードを目指して出発する。到着まで約1時間30分かかるそうだ。しばらく走ると高速道路に入った。日本と違い高速道路は無料らしい。料金所が要らないので、大掛かりなインターチェンジを造る必要が無く、随所に出入り口がある。

  日本では永久に無料にならないだろうなど考えていたら、車内が賑やかになった。カメラを取り出している人もいる。窓から外を眺めると、あたり一面が緑のじゅうたんを敷き詰めているような美しい光景である。所々に小さな集落があり、決まって家の前には小さな庭、そして、色とりどりの花が咲いている。長かった旅も残りわずかとなり、なんとなく心の安らぎをおぼえるた。

現地到着後、日本人ガイドより、クライストチャーチ、マートン・カレッジ、オリエル・カレッジへ案内される。カレッジとは学寮を指し、それぞれが独立した自治体で伝統的な特色(特に宗教的な)を持っており、それらが集まってオックスフォード大学を形成しているそうだ。13世紀、14世紀に建てられた石造りの建物が続くが、現在もそのまま使われている。一般人(学生)が使いながら、その保存状態の良さには驚かされた。

その後、大学周辺の店を散策し、バスはホテルへと向った。


●帰路の出来事

月18日9時20分、私達はホテルを出発しロンドンのヒースロー空港へ向った。空港では航空テロ警戒のため、手荷物検査が厳重に行われたが、飛行機に乗りさえすれば大丈夫だと思っていると、団体チケットを取りに行っているはずの添乗員がいつまでも帰ってこない。しばらくすると、少し青ざめた顔で戻ってきた。

飛行機のチケットがダブルブッキングしており、現在調整中という。実は、湾岸戦争の影響でイギリスから出国しようとする人達が多かったのである。皆、呆然と立ちすくんだ。まさかと思っていたことが現実になろうとしている。

添乗員の交渉に期待しながらも半ば諦めかけていたら、朗報を受けた。それもビジネスクラスの航空券である。エコノミーは満席だったがビジネスクラスに余裕があったため、私達は追加料金を支払うこと無く、全員が搭乗できたのである。エコノミーで経験した狭い座席、食事、サービスとは雲泥の差であった。我々は湾岸戦争のおかげでビジネスクラスで帰路に着くことができたのである。

後は、長い時間をゆとりある座席で過ごせば良い。最後の想い出にアンカレッジ空港の屋上で写真を撮れば終わりである。ところが、そうはいかなかった。アンカレッジ空港に到着したまでは良かったが、空港内への乗降がアメリカ側から拒否されたのだ。不審人物の侵入を防ぐためである。

機内で2時間20分もの間足止めされた後、ようやく、飛行機はアンカレッジ空港を飛び立った。日本までは残り約8時間である。皆、もう大丈夫だろうと思ったのか、旅の疲れと安堵感で良く眠っていた。

成田空港に到着したのは15時30分。ロンドンの空港で大幅に出発が遅れたこともあり、長崎への最終便に間に合わず、羽田空港から福岡空港へ向った。その後バスで長崎に到着したのは午前0時30分という真夜中であった。こうして、10日間にわたる欧州三カ国の旅が幕を閉じた。



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