近況報告 2012年8月12日
今年の1月に父さんは慢性硬膜下血腫で手術をしました。一週間の入院で,その後の経過は順調でした。一昨年は関節リウマチで苦労しましたが,現在は緩解しています。平成21年から技師長に就任したのですが,それまで経験したことがないような多忙な毎日を送ってきました。
これからは自分の将来の計画に向けて,少しずつ準備をしていこうと思います。ホームページもそのうちリニューアルしたいのですが,今は細々と更新するくらいでしょう。家族みんなが元気で,それぞれに活躍してくれているので父さんも励まされています。
公開講演会 2011年12月8日
長崎大学のリレー講座で,今回は内田樹(うちだたつる)先生の登場です。言わずと知れた「日本辺境論」の著者でいらっしゃいます。講座のテーマは「ポスト3/11の日本再生プログラム」となっており,内田先生の切り口で考えた日本再生を語ってくださいました。先生の著書はすでにいくつか拝読させて頂いておりまして,ぜひ一度ご本人を拝見したいという想いがありました。
私(父さん)は昭和30年代の初めに生まれましたが,私の実感では自分の身の周りは幼い時よりも今のほうが便利で豊かで幸せです。おそらく,いつの時代も人は現状に満足しない,できないという性(さが)を背負ってきたのでしょう。そしてそれは,私が子供の頃よりも今のほうがさらに強く,大人や社会が子供たちに要求していることでもあるように見えます。いや,大人や社会はその性(さが)に対する対価があやふやになっていることはとっくにわかっているけども,次の世代に何を提示したら良いのかわからないでいる,ということなのかもしれません。
今日こうして講座に集まった人たちも,何かしらの手がかりを求めに来られた方が多いと思います。内田先生から指摘のあった「グローバリズムをし過ぎることの危険性」は私も全く同感でした。また「人材の即戦力を掲げる企業に未来はない」という指摘も良かったです。現代の文明や社会が,じつは極めて脆弱なものの上に成り立っていたという事実を,私たちは次々と経験しています。そうした意味では,私が感じていた「便利で豊かで幸せな世界」というのはかなり狭義のものだったということなのでしょう。ただ,私は自分に対しても息子たちに対しても,生きることに肯定的でありたい,あって欲しいと思っています。
それにしても,時にはヘンに智恵をつけずに素朴に何かに向き合う,不細工に行動する,非効率的に仕事をするということもアリではないでしょうか。私は言われなくてもそうやってます,というか,そうしかできないタイプなので・・・。本日は内田先生から色々なことを示唆して頂きました。参加して良かったです。
公開講演会 2011年10月28日
「住まいを創る その意味を考える」というテーマで,プロフェッサーアーキテクトの竹原義二先生(建築家・大阪市立大学教授)の講演がありました。じつは,私は臨床検査技師になる前は建築設計と美術にかかわっていました。竹原先生から,ルイス・カーン,篠原一男,安藤忠雄,イサム・ノグチや鴨居玲の名前が出たときは懐かしさをおぼえました。
竹原先生は素材に対する眼差しが素晴らしいですね。建築は設計と施工で成り立つものですが,その両面に深い造詣をもった建築家の話は胸を打つものがあります。匠の技を持つ大工の棟梁のような建築家とでも言いましょうか。名も無きアルチザンに対する敬愛が感じられました。そして,あの青焼きの図面です。私のときもそうでしたが,やはり手仕事の跡があの図面にはあります。
バークガフニ先生は僧侶としての修行も積まれたかたですので,一般の日本人よりは日本の日本らしさを知っておられるのかもしれません。竹原先生やバークガフニ先生は「素材」のことを皮膚感覚で知っている,また知ろうとする日常を送っておられるということなのでしょう。
若い学生さんにとっては,未経験というのも財産だと思います。未経験はけっして負の要素ではなく,新しいことに遭遇して興奮し,感動できるということだろうと思います。私のすぐ後ろで山田先生からマイクを向けられた学生さんも,きっとそのような素質をお持ちなのでしょう。
公開講演会 2011年10月22日
長男の大学で「感性とデザイン」というキーワードで講演会があり聴いてきました。パネリストの先生方は外部からは,筑波大学,東京工科大学,公立はこだて未来大学から来られ,感性認知脳科学やデザインの分野からそれぞれの研究を紹介されました。聴講するだけでも,たいへん刺激的でまた日常生活の参考になる話題が多くありました。「感性」や「デザイン」に定義を与えるのは壮大になりますが,私が思う「感性」とはあらゆるモチベーションの原点になるものです。筑波大の山中教授は「感性=感受性+α」と表現されていました。東京工科大の若林教授は,水族館をフィールドにしたワークショップの一つとして「プロセス>目的」型の取り組みを紹介されました。
デザインをとらえる場合に,芸術系と工学系という場合がありますが,私はすべての人にとって「デザイン感覚」を持つという意識は大切だと思います。たとえば,医療の現場では様々な機器類や薬品が扱われています。患者さんに投与する薬の中には,薬本体と溶解液を直前に混合して投与するものがあります。投与前の薬の保存期間を長くもたせるためです。他県の医療機関で起こった事例で,混合して投与すべきものを溶解液のみ投与したというのがあったそうです。こうした事例は,ただ単に人の注意だけでは解決できないと思います。人が間違いを起こしにくいような,薬のパッケージデザインが求められるという事例です。つまり,デザインは便利さや快適さだけではなく,フェールセーフシステムにも大きく関与するものなのです。
0から1を生み出すこと。1を10に飛躍させること。そしてマイナス10を0に戻すこと。そうしたことに「感性とデザイン」は深く関与しているのだと感じています。
次男のテスト対策? 2009年2月8日
父: 何ば勉強しよっと〜? 次: 化学反応式 父: へぇ〜,じゃ「質量保存の法則」って聞いたことある? 次: 化学反応の前とあとで,物質全体の質量は変わらんとやろォ? 原子は場所を変えて存在するってことたいね。 父: 人間の体も,形はなくなっても宇宙のどこかに存在し続けるって思わん? 次: あ!それで,前に父さんが「COSMOS」の歌詞の意味を話したわけね。 ”百億年の歴史が今も体になが〜れてる〜〜” (注: 古典的な「質量保存の法則」は,核反応を伴わない化学反応において,近似的に成立していると言える。) 父: 柔道は「カノー・ジゴロー(嘉納治五郎)」を覚えとったほうがいいよ。 小説に出てくる柔道の達人は「スガタ・サンシロー(姿三四郎)」。 次: へぇ〜・・・。 ねぇ,そのサンシローってのはジゴローが2・5・6だから,その間の3・4をとったのかなぁ。 父: う・う・う・・・ (とても勉強になる対話だった・・・) |
夢十夜 2009年2月3日
長男(高一)の国語の教科書に,漱石の「夢十夜」(第一夜と第六夜)があったので読んでみました。夢十夜は電子図書館「青空文庫」で読むことができます。 |
「第一夜」
死際に女が男に,逢いに来るから「百年待っていて下さい」,「あなた,待っていられますか」と言います。女の墓のそばで落ちてくる星の破片を墓標にして,男は女を待ちます。赤い日が東から昇り西に沈むのを数え切れないほど勘定しながら,騙されたのではないかと思ったころ,墓石の下から青い茎がのびてふっくらと花びらが開きます。真っ白な百合でした。男は「百年はもう来ていたんだな」とこのとき初めて気がつきます。男は女に仕掛けられたんだなぁ・・・というのが父さんの感想です。父さんが中年だからでしょうか,この物語には耽美な雰囲気が漂っているのを感じます。また,死を描くことは生を描くことなのだということも分かりました。出だしからして,死をマイナーなこととして扱っていないのが端正な文体から伝わってきます。星の破片を登場させているのもみごとです。第一夜の四字熟語は「輪廻転生」。
ところで父さんの(屈折した?)感想ですが,その発端になったのは最近読んだ「できそこないの男たち」(福岡伸一著,光文社新書)なのかもしれません。これはアダムからイブができたのではなくその逆で,オスは遺伝情報の運び屋だというたいへん興味深い話です。
「第六夜」
明治時代に運慶が現れて仁王を刻むという話しです。群集に混じって自分(私)が運慶の仕事ぶりに感心していると,見物している一人の若い男がこう言います。「なに,あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを,鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない。」彫刻とはそんなものかと自分(私)は思い,帰って身近にあった木を掘ってみるのですが,いくらやっても仁王は見つかりません。明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないのだと悟り,運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった,という結末です。ところで,一人の若い男は相応の眼力の持ち主で,巨匠運慶だからそうなのだと評価したのでしょうか。一見,気の効いたセリフのようで周囲は納得してしまいそうですが,こういう話には眉にツバをつけたほうが良さそうです。第六夜の四字熟語は「温故知新」。
漱石の時代(明治)は富国強兵で,何でも西欧に学べという時代背景がありました。しかし,忘れてはならないものもあるのではないかという漱石の想いがあったのでしょう。現代はどうでしょうか?気の効いた評論はいくらでも聞くことができます。たとえば流行の「グローバル化」です。しかし,その対極にあるローカル化に意識を向けておくのも忘れてはならないのでしょう。
小林健二展に寄せて 2008年7月13日
ギャラリーエムのオープニング展に行ってきました。正直言って,まさか長崎で小林健二さんの作品群に出会えるとは夢にも思いませんでした。まずはギャラリーエム代表の西村さんに敬意を表します。小林健二さんは以前からとても気になる作家でした。職人の手を持ったアーティストであり,科学的な手法を背景に詩を奏でる作品を発表されています。美しいオブジェに仕組まれた巧妙なからくりには,じつは作家本人にも予期しなかった効果が現れることもあるそうです。会場では小林さんの良き理解者である
curator の方からも様々なお話を聞くことができました。写真は中央に長男が中二のときに作った鉱石ラジオ,周囲は小林さんの著作です。 ギャラリーエム
http://www.gallery-em.com/ 小林健二氏 http://www.kenji-kobayashi.com/
用心棒日月抄 2008年2月25日
「蝉時雨」に続いて藤沢周平作品を読みました。用心棒シリーズは全四部作,人気が高いという評判どおりで一気に読み通してしまいました。小説を読んだのは久しぶりで,普段は自然科学関連の新書などを見ています。歳とともに視野が狭くなってきたせいか,私にとって小説は当り外れがはっきりするようになりました。ここ数年で良かったのは,浅田次郎さんの「蒼穹の昴」と小川洋子さんの「博士の愛した数式」でした。話題作もずいぶんあとになって読んでいるので,周囲からは「今ごろ読んでいるの?」と怪訝な顔をされます。読書家ではないので,せっかく読むのだったら外れたくないと思っているのです。昨今の映画やテレビドラマがつまらなくなったので,娯楽を小説に求めているのかもしれません。
藤沢作品の好きなところは,テンポのよい短めの文体でありながら情景描写がじつに細やかで,空気の香りまでも感じられるところです。ですから,おそらく映画化されたものを観ても同じ感動は出てこないでしょう。用心棒シリーズは,主人公が藩という管理社会に務める世界と,わけあって脱藩し用心棒稼業で生きるという二つの世界が舞台です。主人公がその周囲の人々と交わす人情がたまらない作品です。現代社会は「何でもあり」という風潮がかえって美的なものを失わせるということを,逆説的に気づかせてくれる時代なのだと思いました。
その後,山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」を見ましたが,これは素晴らしかったです。映像がみごとでした。とくに夜の屋内の場面などは,明かりと陰のバランスが芸術でした。
自画像 2008年1月26日
次男は美術の授業で自画像を描いているそうなので,父さんも久々に鉛筆デッサンをやってみました。父さんは普段,エスキースのときだけ鉛筆を使っているので,質感まで表現するような完成度の高いものはできません。手元に野田弘志さんの「湿原」という画集がありますが,鉛筆の描写力が素晴らしいです。デッサンの用具には木炭やコンテなどがありますが,それぞれの特性に合わせた使い方は知っておいたほうが良いでしょう。
鉛筆の場合だと,面を塗る感覚ではなくて,線を集めて面を作るという感覚でしょうか。ただこれも絶対的なものではなくて,作家によって様々なやり方ですぐれた作品が生み出されています。息子には画面が真っ黒になるくらい鉛筆を動かしてみたら?と言いましたが。
神は細部に宿る 2007年3月31日
さいきん海外のある人気作家による小説を期待して読んだのですが,物語の山場でどうしても気になる部分が出てきて読後感はすっきりしませんでした。小気味よい場面展開で,スリルある作品だっただけに惜しい気がします。物語の中に有名な油絵の贋作がでてくるのですが,それが重要な小道具になっています。
絵具というのは,かなりの年数を経ると退色や変色が起こります。また有名な油彩作品は例外なく,画面保護のために表面にワニスが塗られています。したがって,いま私たちが見ることのできる作品は,退色やひび割れなど描かれた後の時間の経過が表面に現れているのです。それに熱狂的な絵画ファンであれば,プロではなくともオリジナル作品の構図やマチエール(絵肌)はよく覚えています。まして,現代はいくら速乾性の絵具が登場したとはいえ,数日で贋作を完成させるという設定には無理があります。さらに,その絵が本物かどうかを確かめるのは,表からではなくキャンバスもしくは板の裏側を見るというのも常識になっています。
したがって贋作を物語に登場させるのであれば,かなり入念な書き込みがなされていないと読者はシラけてしまいます。現実では,贋作をつかまされるというのはオリジナル作品をよく知らない人ということになるのでしょう。ですから,騙された人物がじつはそのようなキャラクターだったのだというのを,物語の中に織り込んでおけばよかったと思います。ディテールにこだわり過ぎると面白くない時もありますが,小説も音楽も絵画も「ここだけは譲れない」という場面が受け手側にもあると思います。聞くところによると,世界の有名美術館には贋作が混じっているのだとか。同じ時期に工房制でやっていたところでは,有能な弟子が師匠の作風をまねると区別できないと思います。しかしそれならそれで,父さんは投機家ではないので,たとえ騙されても幸せです。
国語の教科書 2007年2月3日
文春文庫PLUSから「教科書で覚えた名詩」というのが出ています。父さんが中学時代に国語の教科書で出会った詩があって懐かしくなりました。高村光太郎を知ったのも国語の教科書からです。気に入った詩は自然と覚えていましたが,完全に覚えようと思って覚えたわけではないので,けっこういい加減でした。ただ,こうした詩の中には鋭く心に突き刺さるような表現があったことを今でも鮮明に覚えています。たとえば,
トパアズいろの香気が立つ 「レモン哀歌」 刃物のやうな冬が来た 「冬が来た」 この人はただ途方もなく 無限級数を追つてゐるのか 「刃物を研ぐ人」 |
普通では考えもつかないような言葉と言葉の出会いに,とにかくそれまで経験したこともないような衝撃を受けました。また,高村光太郎が彫刻家でもあることにも驚きました。それから数年たって,絵が好きな父さんはシュルレアリスムに出会いました。シュルレアリスムを先導したのは,アンドレ・ブルトンやポール・エリュアールなどの詩人たちで,絵画に大きな影響を与えました。中年になった父さんは,今でも時々本棚から西脇順三郎や吉岡実を取り出します。
世間では昔から,若い人たちはたくさんの本をよく読むように言われていました。でも父さんは,自分の考えで本をよく読むようになったのが19才からです。だから中・高時代は国語の成績がパッとしなかったのでしょうね。もっとも,友人の読書家も成績はイマイチでした。思うに,国語関連の能力は一般にはすぐに結果が出るものではないのでしょう。
本との出合いは中・高時代の国語の時間に確かにその原点がありました。詩のほかにも,梶井基次郎の「檸檬」や三木清の「読書と人生」などが心に残っています。中学時代は3年間おなじ国語の先生でしたが,教科書を丹念に読み解くような授業で,生徒にさかんに質問を浴びせていました。その先生には今でも深く深く感謝しています。生徒に国語の「種」をまいてくださいました。
平城京 2005年11月
東大寺大仏殿 日本臨床細胞学会に出席するために奈良に出張しました。奈良は初めてでしたが,息子と勉強した日本史で奈良時代にも興味をもっていました。飛鳥時代から奈良時代は,日本が中央集権国家として今日の国の原型が作られた時代です。様々な文化や文明を積極的に海外から取り入れ,海や陸のシルクロードの東の終着点が奈良の都でした。
平城京には多数の社寺建築があって,今日的に見てもその技術の巧みさには圧倒されます。仏教は当時のテクノロジーの最高峰であったことでしょう。私たちは産業革命以来,近代科学の恩恵を多数うけてきました。しかし今では,同時に地球規模の大きな不幸も一緒に背負うことになりました。奈良を訪れるときは,前もって時代背景を調べておくと10倍の収穫がありますよ。(^^)
平城京の広さ 奈良の街はかつての平城京あとを中心に作られていますが,実際に行ってみるとその広さに驚かされます。長崎の地図に平城京を重ねたのが左の図ですが,こうして見るとあらためてそれが実感できます。かつての平城京の住民は,5万人とも10万人ともいわれていますが,いずれにしても当時の超大都会でした。長崎の人口は戦国時代後半で1500人くらいだったそうです。
自由研究 2005年10月
わが家の子供たちは小学2年生のときから,毎年夏休みに理科の自由研究を行っています。実際には夏休みだけではなく,それよりもっと以前から取り組みを始めます。「勉強を遊びのように,遊びを勉強のように」とでも言いますか。子供たちが普段の遊びの中から,何かテーマになることを見つけてくれるといいなと思っています。
自由研究というと,予想(仮説)があって,それを実験や観察で検証するのが定石の一つです。しかし父さんは今の時点では,仮説についてはあまりこだわっていません。子供たちにはたくさんの自然を見て,触って,驚いて,感じてもらえればそれでいいと思います。しいて言えば,「見る」ということにはこだわってほしいです。たとえば,家族でいつも遊びに行っている湖でも,その気にならなければ生き物たちの姿は見えてきません。このことは,たとえば絵を描くことでいうと写生にあたります。写生は描くこと,すなわち表現することを通して,見ることをトレーニングさせられます。
自由研究をまとめるということは,自分たちが自然の中に何を見て,何を感じ考えたかということを鮮明にしていく作業にほかなりません。まあ,カタイ話しは置いといて,活字だけがベンキョーじゃぁないよと言いたいわけです。
分類について 2005年8月 長男(理科のレポートより)
1学期の理科の授業では,植物には裸子植物と被子植物があること,さらに被子植物には単子葉類と双子葉類があることを学んだ。そして,それらの植物の構造を覚えた。地球上には膨大な数の生物がいて,それらは色々な特徴によって分類され,それぞれに名前がつけられている。このような分類はなぜあるのだろうか。人間はなぜ様々な物を分類する必要があったのだろうか。僕は小学生の時から山や川,湖などに行って多くの生物を調べるのが好きだった。しかし今までは「分類」ということに何の疑問も感じていなかった。図鑑や事典に分類された生物がのっているのを当たり前に思ってきた。
もしかしたら人間は,何かを分類することで役に立つことを手に入れてきたのではないだろうか。たとえば,食べられる植物とそうでないもの,危険な動物,毒のある虫などを知ることは大昔から人々の生活に重要だったに違いない。このような情報はごく一部の人が知っていても役に立たない。できるかぎり多くの集団で同じ情報を共有しておく必要があったはずだ。そのために,それぞれの生物の特徴を表すのに名前がつけられ区別された。これが「分類」の始まりになったのではないだろうか。そして,そのうちに分類をするときに,どこが同じでどこが違うかなどの基準が必要になってきた。そうしたことがだんだん発展して,学問の世界が形作られてきたのかもしれない。