わが家の窓からは長崎市内で最も高い山,標高590mの八郎岳が見えます。八郎岳という名称は,鎮西八郎(ちんぜいはちろう)がこの山に登ったことから名づけられたと言われています。さらに,落矢ダムがある「落矢」は,鎮西八郎が放った矢が落ちた場所だということに由来しています。 鎮西八郎(源為朝)(1139〜1170) 源為朝の通称が鎮西八郎。平安末期の武将で,為義の八男です。八男だから八郎という名前ですね。豪勇で弓の名手でした。たいへんな暴れん坊だったらしく,13歳で父に勘当され九州(鎮西)に追放されました。九州では各地の豪族を討ち破って暴れまわりました。のちに京都にもどり,保元の乱では父とともに崇徳上皇方につきましたが敗れました。鎮西八郎の伝説は九州・沖繩に数々残っています。八郎の長兄は義朝で,その子が頼朝と義経です。つまり,八郎は頼朝や義経の叔父になります。 保元の乱(1156年) 後白河天皇と崇徳上皇のあいだに起こった戦いで,天皇方は源義朝・平清盛・源頼政・源義康(足利義康)らが,上皇方には源為義・源頼賢・源為朝・平忠正らが味方しました。宮廷の対立が戦闘によって解決したことで,この乱は武士が政治へ強く係わるきっかけになりました。鎌倉時代に慈円が書いた歴史書『愚管抄』では,この乱によって世の中が「武者の世」に移ったと述べています。 保元の乱ののち,源氏と平氏の対立は深まり3年後の1159年には平治の乱が起こりました。そして武士政権は平氏(平清盛),ついで源氏(源頼朝)という道筋をたどることになります。 |
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わが家から見た八郎岳 | |
頂上からの眺め | |
初めての登山 (平成16年) |
伝説の真偽の程はともかくとして,調べてみると私たちの身近には様々な歴史があって興味が尽きません。このようなエピソードをこれからも探してみたいと思います。これで歴史の勉強もバッチリ!