長崎はどのようにしてできたか (長崎からみた日本史)

平成18年 社会科自由研究 中学2年 (参考資料の図は掲載していません)


(はじめに)
社会科で学習している日本史に興味があったので,長崎の歴史について取り上げることにしました。歴史博物館や近くの深堀貝塚資料館などに行くと,昔の長崎の様子を知ることができます。そこで感じたのは,長崎は日本史にわりと深くかかわっているのではないかということです。
たとえば古代では,壱岐や対馬が大陸との交流の中継場所になっていました。また出島は鎖国時代における重要な役割をもっていました。さらに幕末には歴史上の有名な人物が多く長崎を訪れています。今回は文献などをもとに長崎を中心にした年表を作り,長崎がどのようにしてできてきたか考えてみたいと思います。

(調査方法)
参考資料をもとに,各時代区分で長崎の歴史的な出来事をまとめた年表を作りました。その際に日本の主な出来事と比較できるようにしました。そして資料や年表をもとに,日本史と長崎の歴史の関係から発見できたことをまとめてみました。

(参考文献)

「長崎県の歴史」 山川出版社 1998年
「図説長崎歴史散歩」 河出書房新社 1999年
「新・長崎風土記」 長崎出島文庫 2000年
「新しい社会(歴史)」 東京書籍 2005年
「花と霜 グラバー家の人々」 ブライアン・バークガフニ著 長崎文献社 2003年


 

長 崎

日 本

旧石器

B.C.2万年

B.C.1万年

福井洞穴(吉井町)

百花台遺跡(国見町)

泉福寺洞穴(佐世保市)

洞穴に住み狩りをして暮す。

土器づくりが始まる。

縄文文化が始まる。

縄文

 

深堀遺跡(長崎市)

白浜貝塚(福江市)

魚や貝を採って暮す。

弥生

古墳

B.C.300年

深堀遺跡(長崎市)

稲作が行われる。 (吉野ケ里遺跡)

A.D.1〜3C

弥生後期

原の辻遺跡(壱岐市)

塔の首遺跡(上対馬町)

青銅器や鉄器が現れる。

239卑弥呼が魏に使いを送る。

古墳が各地につくられる。

飛鳥

664 天智3

対馬・壱岐などに防人を配置。

645 大化の改新

 

674 天武3

対馬でわが国初の銀産出。

 

奈良

701 大宝1

対馬が朝廷に金を貢いだことから,年号が「大宝」になる。

大宝律令の制定

古事記,日本書紀,風土記つくられる。

741 天平13

肥前国に国分寺・国分尼寺,壱岐・対馬に島分寺が建てられた。

728 聖武天皇が東大寺を建てる。

平安

804 延暦23

空海・最澄が乗った第16次遣唐使船が,五島の川原浦(岐宿町)を出航する。

遣唐使(630〜894)

894 遣唐使が廃止になり国風文化。

鎌倉

1255 建長7

深堀能仲(よしなか)が,承久の乱の功績として幕府から戸町浦を配分される。

1192 源頼朝が征夷大将軍となる。

 

1274 文永11

1281 弘安4

元軍,対馬・壱岐・平戸に侵入。

元軍,鷹島付近で暴風雨のため全滅。

文永の役

弘安の役

1289 正応2

深堀時仲,蒙古合戦の功績として肥前国神崎荘を配分される。

 

室町

1550 天文19

ポルトガル船が平戸に入港。フランシスコ・ザビエル平戸訪問。

1543 鉄砲伝来

1549 ザビエルがキリスト教伝える。

1562 永禄5

ポルトガル船が横瀬浦に入港。大村純忠がイエズス会に横瀬浦の一部を付与。

 

1570 元亀1

長崎開港

深堀能賢が長崎を攻撃。

 

1571 元亀2

ポルトガル船初めて入港。

町建て始まる(6か町)。

1573 室町幕府が滅びる。

安土桃山

1580 天正8

大村純忠が長崎・茂木をイエズス会に寄進。

深堀氏が龍造寺氏らとともに長崎を攻撃。

織田信長の政治

1582 天正10

天正遣欧少年使節長崎を出帆。

 

1588 天正16

秀吉が長崎を天領にし,鍋島直茂が代官になる。

豊臣秀吉の政治

1592 文禄1

秀吉が長崎奉行を置く。

 

1596 慶長1

秀吉により西坂で26聖人殉教。

 

江戸

1601 慶長6

長崎大火で11町が焼ける。

1603 徳川家康征夷大将軍となり江戸幕府を開く。

1609 慶長14

平戸オランダ商館設立

 

1613 慶長18

平戸イギリス商館設立

徳川家康が禁教令を発布。

 

1634 寛永11

眼鏡橋完成。

幕府からの命令で長崎町人が出島を作る。(1636年に完成し,ポルトガル人を収容)

長崎くんち始まる。

 

1635 寛永12

海外渡航,帰国禁止。外国船の入港を長崎のみに限定。

 

1637 寛永14

島原・天草一揆

 

1639 寛永16

オランダ,中国のみに貿易を許可。

 

1641 寛永18

長崎港の警備を福岡藩と佐賀藩で隔年交代で行う。

徳川家光による鎖国体制の完成。

1663 寛文3

長崎大火(寛文の大火)。66町中全焼が57町

 

1667 寛文7

倉田次郎右衛門が給水工事に着手。(倉田水樋7年後に完成)

 

1672 寛文12

寛文の大火の再建にあたり都市計画を行い,長崎の町を80か町にする。

 

1689 元禄2

唐人屋敷完成。(1784年全焼)

元禄文化が栄える。

1792 寛政4

雲仙普賢岳噴火

 

1803 享和3

アメリカ船が通商を求めるが許可されず。

 

1804 文化1

ロシア使節レザノフ来航,通商を求める。

 

1808 文化5

イギリス艦フェートン号,長崎入港を強行。

 

1812 文化9

伊能忠敬が長崎県下を実測。

 

1823 文政6

ドイツ人シーボルト出島商館医として着任。翌年鳴滝に塾を開く。

1825 外国船打ち払い令

1844 弘化1

オランダ軍艦来航し開港を勧められるが,翌年に幕府は長崎奉行を通じて開港拒絶を伝える。

 

1853 嘉永6

ロシア使節プチャーチン来航。

1853 ペリー,浦賀に来る。

1854 安政1

日米和親条約を長崎で調印。

日米和親条約

1855 安政2

海軍伝習所を置く。

日蘭和親条約を長崎で調印。

 

1857 安政4

オランダ軍医ポンペ来崎。長崎医学伝習所で講義開始。

 

1859 安政6

長崎開港

グラバー来崎。

1858 日米修好通商条約

長崎・神奈川・函館の3港で英米仏蘭露に貿易を許可。

1859 安政の大獄

1860 桜田門外の変

1861 文久1

長崎製鉄所工場完成。

 

1862 文久2

上野彦馬が写真館を開く。

 

1863 文久3

外国人居留地の埋立工事完成。グラバー邸

 

1865 慶応1

大浦天主堂献堂式(国宝)

グラバーが大浦海岸で蒸気機関車を試運転。

坂本龍馬が亀山社中をつくる。

 

1866 薩長同盟

1867 大政奉還 王政復古の大号令

明治

1868 明治1

 

長崎奉行所に代って長崎裁判所,長崎府が置かれる。

明治維新

1868〜1869 戊辰戦争

1871 明治4

厳原県が伊万里県に合併される。平戸・大村・島原・福江県が長崎県に合併される。

廃藩置県

1877 西南戦争

1887 明治20

三菱会社,長崎造船所の払い下げを受ける。

1889 大日本国憲法発布



旧石器から古墳時代
深堀町では,縄文から弥生時代の遺跡がみつかっています。周辺では石器に使う黒曜石は採れないので,この時代すでに遠方の人々との交流があったことが分かります。吉野ヶ里のような大規模な集落は発見されていないので,山が多い長崎県は海岸沿いに小さな集落があったのではないでしょうか。

飛鳥から奈良時代
年号の「大宝」に対馬が関係しているのに驚きました。大陸から文明や政治の仕組みを積極的に取り入れていた時代です。中国と日本の間で往来する人々にとって,壱岐や対馬が重要な場所であったことが分かります。

鎌倉時代
承久の乱で,上総国の御家人である深堀能仲(よしなか)が,幕府から受け取った場所が現在の戸町から南一帯の長崎半島でした。鎌倉時代の「御恩と奉公」の話しが身近なところにもありました。

室町時代
鉄砲とキリスト教の伝来をきっかけに,わが国が西洋の影響を受けた時代です。最終的にポルトガルが長崎港を寄港地に選んだきっかけは,長崎を支配していた大村純忠がキリスト教に理解を示したことです。純忠はポルトガルの力で武力を増すことを考えました。この頃の長崎港付近はわずかな農民や漁民が住むだけの,何もない土地でした。ポルトガルにとっては地形的に港に向いていること,そしてトラブルのもとになるような有力者がいなかったことが長崎を選んだ理由でした。諏訪公園には長崎甚左衛門純影の像があります。純影は長崎の領主でしたが,大村純忠の娘婿になっています。

安土・桃山時代
戦国時代は長崎周辺でも武将たちが戦いをくり返していました。長崎甚左衛門純影も大村純忠と組んで戦い領土を守りました。戦場になった場所は「勝山」と名づけられ,現在も地名が残っています。大村純忠は周囲の敵から領土の長崎を守るために,イエズス会に長崎を寄進することを考えつきました。しかし豊臣秀吉の全国統一とともに,長崎は秀吉の直轄地(天領)になりました。

江戸時代
徳川家光の時代には幕府が完全に海外貿易を独占するために鎖国を完成しました。また日本との貿易の権利をめぐってポルトガルと争っていたオランダが,幕府との取引に成功しています。しかしオランダと清国のみが出島を通じて交易していたのではありません。薩摩藩は琉球を通じて清国と,対馬藩は朝鮮と,蝦夷の松前藩は沿海州と交易していました。長崎では貿易商人が複雑な実務を行い富を築いていました。中には商人で名字帯刀を許される者も出てきました。

幕末
ペリーが浦賀に来航するより以前に,長崎にはたびたびアメリカやロシアやイギリスの船が来航して通商を求めていました。幕府はそれが何を意味するか,時代の流れを読むことができずに無視していました。日米修好通商条約の後は,イギリスの貿易商トーマス・グラバーが来崎し,貿易・漁業・石炭採掘など多方面に事業を展開しました。また討幕軍への武器の輸入も行い,坂本龍馬とグラバーとの関係は極めて強かったということも分かっています。

明治時代
土佐藩出身の岩崎弥太郎が三菱会社を起こし,グラバーから引き継いだ石炭採掘を継続させ,また造船業では今日につながる長崎の産業の核を作りました。

(まとめ)
1学期の社会科では長崎県について学習しました。本県の地理的な特徴は,日本の西端にあって大陸に近い,山が多く平地は少ない,島が多い,海岸線が入り組んで長いということです。こうした地理的条件が長崎と海を結びつけて発展していく土壌になったと考えられます。今日でも,漁業や造船業は市の基幹産業になっています。

長崎が日本の歴史で目立つようになったのは,室町時代(元亀元年)の開港からです。それまでは,むしろ大陸との中継点であった壱岐や対馬などの島々が注目されていました。開港後の長崎は,日本史そのものであると言ってよいほどに政治の中心と結びついています。ほとんど何もなかった長崎をポルトガルが寄港地にしました。幕府は長崎を直轄して貿易による経済力を獲得していきました。その効果は絶大で,多くの人々が長崎に集まりました。そして身分制度の厳しかった江戸時代でも,長崎では有力な商人が権力をふるっていました。長崎の商人と武士の関係は「長崎喧嘩騒動」というエピソードにもあらわれています。長崎市中心部の海岸線の変化を調べてみると,埋め立てによって長崎が人工的に作られて発展していったことが良く分かります。

(感想)長崎甚左衛門
長崎の歴史を調べたことで,あらためて日本史の流れをよく理解することができました。「長崎」という地名については,現在の県庁通りの丘が長崎港に突き出ていたことから,一般には「長き岬」が変化して「長崎」になったと言われています。しかし僕はこの意見には疑問を感じています。その理由は,長崎県内の地名は地域を治めていた有力者の名前がついているからです。長崎だけが地形から名前がついたと考えるのは不自然だと思います。つまり,もともとの領主だった長崎氏の名前が,初めから定着していたと考えるのが自然だと思います。(写真は諏訪公園に立つ長崎甚左衛門の銅像,高さ約3m)

家紋また,今回は自由研究をすすめていく中で意外な発見もできました。僕の母の祖先には,1695年(元禄8)に高島で初めて石炭を発見した「五平太」という人物がいるそうです。五平太が発見した石炭を本格的に採掘したのがグラバーでした。母方の家紋は,船に石炭を積んだ図柄になっています。


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