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平成14年度                   長崎県立長崎北高等学校

この思い出は私達のもの

 〜第37回生31組『学級日誌』から〜

毎日毎日、君たちに綴った言葉がある。

一人一人の生命に対して、語りかけた言葉である。

この言葉を君たちの生命に贈る。(担任:田中光一)

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ー

《三つのイメージ》

谷川俊太郎

あなたに
燃えさかる火のイメージを贈る
火は太陽に生まれ
原始の暗闇を照らし
火は長い冬を暖め
祭の夏に燃え
火はあらゆる国々で城を焼き
聖者と泥棒を火あぶりにし
火は平和へのたいまつとなり
戦いへののろしとなり
火は罪をきよめ
罪そのものとなり
火は恐怖であり
希望であり
火は燃えさかり
火は輝く
─あなたに
そのような火のイメージを贈る

 

あなたに
流れやまぬ水のイメージを贈る
水は葉末の一粒の露に生まれ
きらりと太陽をとらえ
水は死にかけたけものののどをうるおし
魚の卵を抱き
水はせせらぎの歌を歌い
たゆまずに岩をけずり
水は子どもの笹舟を浮かべ
次の瞬間その子を溺れさせ
水は水車をまわしタービンをまわし
あらゆる汚れたものを呑み空を映し
水はみなぎりあふれ
水は岸を破り家々を押し流し
水はのろいであり
めぐみであり
水は流れ
水は深く地に滲みとおる
─あなたに
そのような水のイメージを贈る

 

あなたに
生きつづける人間のイメージを贈る
人間は宇宙の虚無のただなかに生まれ
限りない謎にとりまかれ
人間は岩に自らの姿を刻み
遠い地平に憧れ
人間は互いに傷つけあい殺しあい
泣きながら美しいものを求め
人間はどんな小さなことにも驚き
すぐに退屈し
人間はつつましい絵を画き
雷のように歌い叫び
人間は一瞬であり
永遠であり
人間は生き
人間は心の奥底で愛しつづける
──あなたに
そのような人間のイメージを贈る

 

あなたに
火と水と人間の
矛盾にみちた未来のイメージを贈る
あなたに答えは贈らない
あなたに ひとつの問いかけを贈る


■鐘ケ江 祐美へ■(2002.4.8.月)

 「できるだけやります」という言葉がある。自分がどこまでやれるかは、やってみないとわからない。「本気」でがんばっている人は、見ている人にも勇気を与えてくれる。本当に真面目に頑張るのは、自分だけのためではないことが、これでも分かる。頑張っている人の周囲には頑張っている人がいる。

 

■青木 健史へ■(2002.4.9.火)

 「ひとつのことに集中しなさい」と言われる。しかし現実は集中力がないからひとつのことに集中できないのではなく、いくつものことを並行してやらなくてはならないから集中できないのである。むしろ「ひとつのことに集中したい」という方が本当なのだろう。何か方法がないのか・・・・・・。自分で探すしかない。ただ人間は一度に複数のことができるわけではないので、やっている時は、そのことに本気になる。

 

■網代 和幸へ■(2002.4.10.水)

 「目標はできるだけ具体的に立てる」スローガンを掲げることは意気を高めるためには大事だろうが、自分が今何をなすべきかがはっきりしない。具体的に何をしていけば目標に達するかを考えるべきであろう。部活をやっている人間はなおさら細かい具体策を考えるべきである。『理論ある実践!』

 

■大渡 雄三へ■(2002.4.11.木)

 「覚えられなくてもやれ」というのは、とても良い表現であると思う。人間の頭はどのようになっているのか不明だが、一度本気でやったことは、次の回には大きな力として返ってくる。不思議だが本当だからしょうがない。どうせやってもしょうがないと思わなければ、何か残るものらしい。良い先輩を持つと財産になる。

 

■古賀 雄大へ■(2002.4.12.金)

 「くやしい涙は次のバネになる」という話は人を納得させる力がある。くやしく思うほど、自分の全力を出した結果出る涙だからであろう。自分を最後の最後まで追い詰めると何か感動が出てくるというのであろう。感動するには感動するための一生懸命が必要。努力もなしに出す涙の何と見苦しいことか。

 

■清水 恭佑へ■(2002.4.15.月)

 後になって振り返ってみると、あの時はあんなこともできたのにと思うことがある。たぶんその時に想像力が足りなかったからだろうと後悔する。もっとよく考えて動いていれば、というのである。イマジネーションは私達に現在を見せてくれる。未来のためではなく、現在の自分を知るためにイマジネーションを働かせよう。

 

■高尾 弘太へ■(2002.4.16.火)

 たぶん生きていくなかで思いどおりにならないことの方が多いのだろう。思いどおりにならない時にどうするか。そこに人間の生き方があらわれるといったら言い過ぎか。今日は遠足がダメならレクレーションにしようと前もって計画していた。そう計画を立てておくのも手である。うまくいかない時の。

 

■田川 英佑へ■(2002.4.17.水)

 全てが0になってしまえば、万事最初から始まる。確かにそんな気もするが、そう考えるのは、ある経験をしてきた自分であるので、最初に戻った自分はまた同じ道をたどるかもしれない。現在の自分が考え、気づいているものが、「生の最先端」なのである。とすれば、私達は前に進むしかない。

 

■立花 哲洋へ■(2002.4.18.木)

 19世紀の末ごろから始まったスポーツだというから、ずいぶん新しいスポーツがハンドボールである。近代競技はとてつもなく厳しいルールになるが、それともレクレーションになるかであるが、ハンドボールは前者。テレビで観戦していても、スピードに目がついていかない。やりはじめてみて、とんでもないものを始めてしまったと言うそうだ。ただ面白いという点から考えれば、ハンドボールは合理的で、とても興味深いと思う。

 

■龍石 直人へ■(2002.4.19.金)

 人間を大人と子供に分けるようになったのは、どの時代からなのだろう。そんなことを言うと、その問い自体を不思議に思うかもしれないが、子供に対して「子供らしい」様子を要求するのではなく、「小さな大人」であることを要求するのは、大人と子供を分化させていないことになるのだろう。ならば、大人とは()という定義が次に出てくる。もちろん、大人の反対が子供ではないはず。

 

■中島 雅也へ■(2002.4.22.月)

 現時点では、あきらかに負けると分かっているモノと勝負をしなければならない時がある。人はどうするのだろうか。答えがひとつでないものに対して立ち向かうのが、私達の人生のようだ。どう生きていくのが自分に納得できるのか。自分で決めるしかない。次のチャンスは、もしかするとないのかもしれないのだから。高校3年生の春が始まっている。そして夏がやってくる。

 

■深町 優太へ■(2002.4.23.火)

 人生の目標は何だろうと考えるときがある。あまりに宗教的すぎて、答えがあるような、ないような話なのであるが、実はそこに私達の存在する意味があるのだろうと思う。なりたい職業があって、そこに向かっての大学がある。大学に行けば何かが自動的に見つかるのかというわけではないだろう。自分で決定していくしかない。自分の現在があるだけなのである。

 

■松尾 慎太郎へ■(2002.4.24.水)

 死が必ずしも深刻ではないと思えるようになってきた。若い時よりも死が近づいてきたからかもしれない。死に意味を求めるのは、自分が生きているからであろう。死は死として完結しているので、それ自体には意味があるわけではない。ただ、死んだ人を覚えている間は、その人は生き続けている。

 

■松尾  亮へ■(2002.4.25.木)

 例えば、スターになれない者達がいる。当然スターの数よりも、スターになれない者達の数の方が多い。スターになることだけが人生の目標ならば、人生とはなんとむなしいものだろうと思う。スターになることではなく、スターになろうとする気持ちが、私達を前進させるのだろう。つらい時にもう一歩前に出す力は、実に大変な力である。だから、その力をすごいと拍手をおくる。

 

■松島 拓己へ■(2002.4.26.金)

 「やれることをやるのではなく、やらなければならないからやる」のだろうと思う。人はずいぶん弱い生き物なので(というより、生き物だから弱いのだろうが)、やれることをやると考えたのでは、ほとんど何もやれないようだ。合格するためには、これだけのことをやらなければならないと考えるしかないようだ。そう考えると、弱い生き物が強くなるのかもしれない。

 

■峰  裕之へ■(2002.4.30.火)

 自分にどの程度のことができるのか。実は自分でもよく分かっていない。少し疲れてくると、自分の能力はこの程度であろうと考えるのも人間であろう。無理をしないというが、無理とはどの程度のことを言うのか、それもはっきりしない。自分が無理だと思うから無理ということなのかもしれない。限界が自分の内部にあるのならば、やり抜く心も自分の内にある。

 

■浅井 秀美へ■(2002.5.1.水)

 「やりたいだけ、やればよい」と思います。この言葉を聞いて、よーしやってやると闘志を燃やす人であって欲しいと思います。「やりたいだけ」というのは、自分が納得できるまでという意味だからです。自分の可能性を試そうとすることは、自分にだけできることでしょう。親や友人にも助けられないことがあるのです。

 

■阿野 はるかへ■(2002.5.2.木)

 他人を幸せにできる人は、素晴らしいと思う。自分のことばかりではなくても、まず優先するのは自分のことである。そうではありながら、他人を幸福にしようと考える人は、やはり素晴らしい人間であろうと確信する。仕事は全て社会の役立つことであるが、それがどのように役立つかを理解しているかどうかに、生きがいの有無がある。

 

■伊豆永 彩へ■(2002.5.6.月)

 何をやりたいかという命題は、とんでもない難問である。たぶん私達にとっては「一生懸命」ということしかなくて、何かをやれるという自信などはないのだろうと思う。自分に一番合ったものを探すという人もいるが、探している間に人生は終わってしまう。目の前にある、自分ができそうなことを「一生懸命」やるしかないのかもしれない。何かやれそうな、人の役にたちそうなことを。

 

■井手内美詠子へ■(2002.5.7.火)

 あの重い「キカンシャ」がすごいスピードで走っているのを見ると、人間の知恵と努力し続ける力に驚いてしまう。しかし、最も大変なのは動き始めなのだそうだ。最も大きな力が動き始めには必要だという話を聞いて、人間の習慣のことを思い浮かべるのは私だけではないだろう。加速はできる。しかし、動き始めに全力を出し切ることが前提条件か。

 

■入浜 瑠璃子へ■(2002.5.8.水)

 本当の自分とは一体なんだろうと考えることってあるよね。今の自分が本当の自分なのか、なりたい自分が本当の自分なのか、どっちだろうってね。もちろん、私は「なりたい自分」が本当の自分だって考える立場なんだけど、それってあまりに楽観的すぎるって気もするのかな。まだなってもいない自分を信用していないような人が多い。勉強したければ、勉強すること。

 

■岩永 尚子へ■(2002.5.9.木)

 苦しかったことが思い出を作っていく。頑張ったことが心に残っていく。自分自身が動かなかったことは、思い出に残りようがない。自分の手や足や頭を動かしたことだけが、よい思い出になる。毎日がものすごいスピードで過ぎていくのは確かなんだと思う。スピードをコントロールする者だけが、時間を支配できる。スピードを感じることが大事。

 

■大井 由布子へ■(2002.5.11.土)

 授業の思い出はそんなに多くないのに、部活動の思い出は多い。授業はしょうがなく()受けていたからかもしれない。第一、集中の仕方が違う。確かにキツイのだが、そんなことはどうでもいいってカンジ()になるにはびっくりしてしまう。キツイことだけが思い出になる。思い出作りに励んで欲しいと熱望する。

 

■大宅 智子へ■(2002.5.13.月)

 「将来を設計しなさい」「進路はどうするの」と、将来のことを考えさせられる毎日ですね。今日も過去の未来だったわけだから、今日のことから過去を振り返っても面白い。なぜ現在の自分がいるのか。過去にどういうことがあったから、今の状態なのか。なかなか全てを説明するのは難しいですね。でも意識的に実行したことの結果はあるでしょう()

 

■荻原 久美へ■(2002.5.14.火)

 現実が非現実を超えることは多い。むしろこの世に現実に起こっていることだけが「現実」だと考える方が変なのではないか。「アル」は真実を言ったのだ。私達は、いつでも、どんな状況でも会いたいモノに会えるし、現実だと信じることができる。現実が本当ではない。本当だと思いたいことが真実を作っていく。様々な宇宙や夢が私達のすみかであるのは、そういう理由からであろう。

 

■片岡 美雪へ■(2002.5.15.水)

 自分と一緒に生きていける人がいるのは幸福である。必ずしも、それは「友」と呼べる人でなくともよいのではないかと思う。「友」などと言うと、ライバルは「友」かとか、目標としている人は「友」か、などと難しいことになってしまう。そんなよけいなことを考えないで、一緒に生きていっている人を「友」と呼んでもいいのではないか。ある時は恋人であったり、夫婦であったり、ライバルであったり。

 

■鐘ケ江 祐美へ■(2002.5.16.木)

 全てのことが個人の問題だと考える風潮がある。部活をやろうが退部しようが、個人の勝手だ。勉強しようがしまいが、個人の問題であって、あなたには関係ない()というのである。しかし、本当にそうなのか。イヤイヤながら続けてきた部活に助けられたり、勉強のおかげで自己実現のための進学ができたり。集団のおかげになっていることが、いかに多いことか()

 

■川本 順子へ■(2002.5.17.金)

 自分の運命を決めるというのは大変なことなんです。大学に行くなんてあたりまえの時代になっているが、実は自分の運命を決めていることになるわけだ。自分の運命のために、本気に真剣に必死になるのは当たり前のことである。一生懸命に心の汗を出して、自分の運命を作っていって欲しいと期待している。自分が自分であるために。

 

■城戸 由佳へ■(2002.5.20.月)

 人生は思いのほかに長くて、想像もつかないことが起こりそうで、不安が一杯である。もう人生の半分ほどを生きてきたであろう私がそういうのだから、君達は、その不安にどうしようもないほどであろう。そして父は、母は、その不安を知っているがために、なおさら子供の未来に不安なのだと思う。しかし未来は予測不能という点では、親も子も同じである。何が自分の未来を決定するのかは、私達には分からない。

 

■古賀 萌美へ■(2002.5.21.火)

 「自己責任」という言葉。「自助力」という言葉。人が生きていくためにはたくさんの言葉のお世話になるが、必ずしも自分を心安らかにする言葉ばかりではない。もちろん汚い言葉だとか、無意味なけなし言葉のことを言っているのではなく、自分が負わなければならない現実を突きつけてくるような言葉を言っているのである。人が人でいるためには、自分を引き受けるしかないという現実を。

 

■坂井 美智子へ■(2002.5.22.水)

 楽観主義者と悲観主義者がいるという。未知のものに対するとき、その差は大きくなるようだ。知らない人と初めて会う時、今までやったことがないことをやる時、未来を本気で考える時・・・・・・・。深海を研究する人は楽観主義者なんだろう。悲観主義者は「深海なんか研究して何の役に立つんだ」なんて言いながら、海面さえ見ないかもしれない。「よくない漢字」も悲観主義者の言い草かな。

 

■坂本  葵へ■(2002.5.23.木)

 一般社会にも納期というものがある。いわゆる締切りの日である。何年の何月何日何時までに、この仕事を仕上げるという約束である。もちろん他の企業との勝負であるから、できるだけ早い納期を言った方に仕事はやってくる。ずいぶんのプレッシャーがかかるであろう事は予想できる。そのプレッシャーがまた良い仕事を残していくのも事実。プレッシャーは「壁」とも言う。

 

■筒井 あづさへ■(2002.5.24.金)

 「努力したんだ」と言えることは、自分の一生にとって、とてつもなく大きな宝物となると思います。私達が何かをやる時に自分でできるのだろうかと、大きな不安に襲われます。それは、本当は当たり前のことなんだが、その時はいかにも自分だけがその不安を感じているように思いますね。人間はなんと傲慢なのでしょう。ただ努力したことがあると、どうにかなると思えますね、本当に。

 

■中村 友紀へ■(2002.5.28.火)

 「心づくしの・・・・・」贈り物の時に何気なく使う言葉である。相手がどう感じるかとワクワクしながら、贈り物を用意する。用意する時が一番楽しいのも事実で、渡してしまったらそれだけなのかもしれない。いや違った、渡してしまったら贈られた相手に気持ちの高揚が移っていく。そう考えると、プレゼントは心を相手に渡しているということがよく分かる。マネージャーもガンバレ。

 

■橋口 麻衣子へ■(2002.5.29.水)

 チームをまとめる力が一体どこから出てくるのか不思議に思うことがある。リーダーやキャプテンになると、特にそんなことを考える時が多いのでないかと思う。同じ仲間だし、同じように一生懸命に練習しているのだが、キャプテンという名が付くと、何か違うことを考えなくてはならないというプレッシャーがある。そのプレッシャーが仲間をまとめる原動力かもしれない。

 

■濱本 信乃へ■(2002.5.30.木)

 自分の人生にとって大切なことが並行して進行することはよくある。どちらも気が抜けないので、大変なことであるが、どちらも本気でやらなくてはならない。君達にとっては、高総体と進路達成がそうなのだろうと思う。高総体でも、自分が選手でなくても、友人が、級友が、そして学年の私達の代表が出場しているのだから他人事ではないはず。物事は同時進行している。

 

■広末 繁吹へ■(2002.5.31.金)

 コンテストも、試合も、試験もその当日がやってくる。どんなにがんばっても、何も準備をしなくても、その当日は当然のようにやってくる。しかし逆に考えると、その日が決まっているから助かっているともいえる。いつまでも当日の前では、発狂してしまうかもしれない。メロンに実が成るように祈りたいと思う。みんなの当日が吉日であるように。

 

■本多 早紀へ■(2002.6.5.水)

 「気持ちを切り替える」と言葉で言うのは簡単である。しかし実行となるとこれは難しい。難しいならば実行できるように工夫するしかない。逆に言うならば、「私は根気がなくて」とか「私はヤル気がおこらないのです」と言ったって、それが何だと言うのだろう。だれも手助けしてやるわけにはいかない。自分が自分の努力と工夫によって、どうにかするしかない。天は自ら助ける者を助ける。

 

■宮地 千春へ■(2002.6.6.木)

 自分()でやったことだけが残っていく。楽しいことも、苦しかったことも、そんなことは問題ではなく、自分の頭で考え、自分の力を信じて実行したことだけが、自分の歴史になっていく。たぶん、何かを目指してやってきたという気持ちだけが、自分の生きていくエネルギーに変化するのだろうと思う。例えば、それを夢のエネルギーと呼んでもよい。

 

■山口 優子へ■(2002.6.7.金)

 「自分」と「みんな」というのはちょっと奇妙な間柄である。人間が、社会生活という、生き延びていく方法を選択することによって、個人と集団の関係が生じたのであろうが、個人の関心事が集団の関心事に一致するとはかぎらないし、また集団の行動方向が個人の方向と同じであるとは限らない。1、2年の部活の声が聞こえる。3年の〈みんな〉は特別授業を受けている。

 

■青木 健史へ■(2002.6.11.火)

 自分に課せられたものは、それぞれ異なる。天というか、運命というか、そのようなものから要求されていることが違うからなのだろう。そして、それが個性を作っていく。個性があるというのは、そのようなことなのだろう。ラグビーをやり続けた結果として青木があるということなのだと思う。人間はたぶん個性あるものとして生まれてくるのではなく、個性を作り上げるのだ。

 

■網代 和幸へ■(2002.6.12.水)

 熱中できるという性質は、そういう性格であるので、熱中できない奴は、何にでも熱中できないのであろう。何でも同じで、熱中して遊べない奴は、熱中して勉強できない。他の気になることを、あえて(ここが大事)無視するふりをして、熱中するには、それだけの努力が必要なのである。何かを手に入れるためには、外の何かを捨てざるを得ない。それが本当に分かるものだけが吉。

 

■大渡 雄三へ■(2002.6.13.木)

 やろうと思うことと、やったことは明白に違うことである。それがどうもうまく自分の心に納得できないのか、「やろうとは思ったのです」などと言い訳を言う人がいる。ヤル気を認めて欲しいということなのだろう。しかしヤル気があるかないかなど他人にとって何の意味もない。自己満足にすぎない言葉は自分だけに言えばよい。押しつぶされないようにガンバルのはタイヘンなんです。実は。

 

■古賀 雄大へ■(2002.6.14.金)

 サッカーの試合を見ていると、本命と言われるチームが決勝トーナメントに出場できなかったり、どうも難しいスポーツだということがよく分かる。もちろん、それなりの理論はあるのだろうが、全て結果論のようで、本当のところバクチみたいなスポーツなのではないかと思えてくる。もっとも、だからサッカークジなどというものが存在するのだろう。運と出会うスポーツ。

 

■清水 恭佑へ■(2002.6.17.月)

 毎日、何気なくやっていることが、実はなかなか大変なことだったんだと気付くことがある。もちろん、その反対もあって、学生さんが教育実習で教師のマネ()などをしていると、授業の準備だけで精一杯になって、夜も眠れないほどであると聞いたことがある。現場の教師はその仕事を当たり前のようにこなしている。一体何が違うのか。習慣にしたことによる勝利だろう。

 

■高尾 弘太へ■(2002.6.18.火)

 発見は、自分の思い込みや、もっと考えると、人類の思い込みによることが多い。頭がカタイということが、いかに自分の視野を狭めているかがよく分かる。ということは、今までの自分と違う視点で考えてみると、何かを発見できるということでもある訳だ。自分自身を固定的にとらえない方がよいというのは、ここでも分かる。意外と・・・・・は横山先生だけではない。

 

■田川 英佑へ■(2002.6.19.水)

 「182日」という話を読んで、まだずいぶん長い時間があるのだなあと思った。時間がないから・・・・・という言葉ばかり聞かされていると、手に付かないような気になるが、5教科で割っても36.4日。1教科に36.4日かけることができるわけだ。まだ本気でやれば、苦手だからなどと、負けてしまったようなことなど思わなくてもいいのだろう。どうかならないかなと、実行してみることだろう。わかろうと努力してみることだろう。

 

■立花 哲洋へ■(2002.6.20.木)

 自分が動かなければ何もおこらないという事実に気付くには、一人になって生活してみるしかない。一体自分の生活の中でどれだけのものが、親や友人や先生方によって支えられているのか、実は一人で生活するようにならないと理解できないのかもしれない。大学に行って、大学の先生は何もしてくれないという学生がいるそうだ。世の中には、当たり前のことを嘆く人がいる。

 

■龍石 直人へ■(2002.6.21.金)

 泣けるけど、題名との関係がよく分からないね。長池先生がどうだというのだろうか。それにしても絶対に越えられない人とかモノがあって、とうてい自分にはその人を越えることなどできそうもないと思える人がいる。しかし、いつかその人を超えてしまう。生きているということは、そういうことなのだろう。マッカーサーが言うように、老兵は死なず、去り行くのみ。ただ、去り行く人にどう対するかが問題。

 

■中島 圭一へ■(2002.6.24.月)

 肉体はこの世に縛られているので、この宇宙の動きに応じて変化していく。人間の肉体がこの世に順じているならば、暑くなればそれに適応し、寒くなればまたそれに順応していけばよさそうなのに、少しずつ肉体のほうが遅れていくために(あたりまえだけど)、人間はいつも最適の状態ではないともいえる。変化していくものの後を追いかけているから当然。つまり、眠いのが当たり前という話。

 

■中島 雅也へ■(2002.6.26.水)

 老後を考えると暗い気持ちになるのか、「老人力」という本が出版されたり、「熟年パワー」という言葉が流行する。「オバ捨て山」があったり、「間引き」があったりと、人間が生きていくのは大変なことである。生物的に生き続けていくにも、社会的に生きていくのも。福祉が充実している国がある。人々が長い努力の末に勝ち取ったものである。日本人が行って、イイ所だけ取るのはどうかと思うが。

 

■深町 優太へ■(2002.6.27.木)

 気負いというものがある。キンチョーしない方がよいとか、肩の力を抜いてやるべきだなんてことを言うが、人間本気になって、そんなリラックスなんかできるはずがない。力一杯、何が何でもとやるのが人間ってもんじゃないか。リラックスするのは休憩の時。そんな無理なこと考えないで、キンチョーした時に力が出るようにしておくこと。

 

■松尾 慎太郎へ■(2002.6.27.木)

 虚無的に考えるならば、人間が生まれてくることには何も意味などない。人知が最大のものであり、人間(いや、もっと正確に言うならば「自分」)以上の知性はないと考えるならば、「自分」が理解できないことは無意味だということになる。そう考えると、人生が無意味であるかどうかは、自分を絶対的なものと考えるかどうかに関わっているのがよく分かる。虚無は慢心という話。

 

■松尾  亮へ■(2002.7.1.月)

 何を求めるかによって人生はずいぶん違うものになる。これを自己意志だとするならば、どういう環境にいるかによって自己の生き方もずいぶん違うものに成ることもあるという話だな。自己意志は環境によって決定するという話にまで進展するわけだ。「私は誰」という問いは、「ここはどこ」という問いと同じレベルの自問なのかもしれないね。亮が言うように。

 

■松島 拓己へ■(2002.7.2.火)

 時間は棒のように流れているのではない。複雑な要素が絡み合って、人知では理解不可能な要素の中で流れて現在が存在している。結果から考えれば、あの時ああすればこんな風になったかもしれないなどと、つい思ってしまうが、その時にはそんなことには気付かない。2006年の自分は棒のような時間の向こうにあるような気がする。しかし時間は単純に流れていない。今の自分からは想像もできない未来もある。

 

■峰  裕之へ■(2002.7.3.水)

 人生は様々な姿である。だれ一人として同じ人生を送る者はいない。それにもかかわらず、私達は他人の人生を理解することができることがある。「ああ、そんな人生もあるかもしれない」というような消極的な意味でなく、「なるほど、分かる」というように感じることがある。人の弱さとか、強情さとか、逃げたいとか、がんばりたいとか、何か共通するものが、私達を結び付けているのだろう。きっと。

 

■浅井 秀美へ■(2002.7.4.木)

 自分の存在はいつも何かと対立しているようだ。例えば他者、例えば自然、例えば・・・・・。その中のひとつに社会も入る。社会の動きは自分と合わせてくれない。あと1週間あれば、テスト勉強ももっとよくできたのにと考えても、テストの日時は、1週間待ってくれない。まったく自然と同じである。自分に合わせてくれない以上、自分が社会や、暑い夏に合わせるしかない。計画はそのためにある。

 

■阿野 はるかへ■(2002.7.5.金)

 困ったことに、自分の未来は何色か分からない。もちろん誰の未来だって分からないのだが、ひとまず自分のことを考えるのが人間だろうから、自分の未来と言っておく。何故「困ったことに」なのかと言うと、実は何色か分からないために、焦りが生じるからである。少し灰色だと分かっていれば、それに応じた覚悟もしておこうと思うものの、人間は少しピンクだと思ってしまうために、準備ができない。

 

■阿野 はるかへ■(2002.7.6.土)

 チームプレーを観戦していると、犠牲ということを考える。自分が犠牲になってチームに勝利をもたらす場面に多く出会うからである。誰かが犠牲になるという行為がなければ、勝利は手に入らないのが勝負というものなのだろう。誰が犠牲になるのかは、その場面その場面に瞬時にめまぐるしく変化する。自分が今犠牲になるのがよいと判断できる人が、チームを勝利に導ける人なのだろう。

 

■伊豆永 彩へ■(2002.7.8.月)

 4月に学校の書類をダンボール箱5箱ほど持って帰った。今だにそのまま自分の部屋にある。最近ある全集の5巻を探そうと思って本棚を見つけた。1〜4巻は同じところにあるのに5巻は別のところで見つかった。「模様替え」をしようと考えているが、見つけたい本が見つかってしまう()ので、今だにそのままの状態になっている。時々、持っている本を再度買ってしまうことがある。ボケているわけでもないのに。

 

■井手内美詠子へ■(2002.7.9.火)

 「人生そんなすてたもんじゃない」なんて言葉があったり、人は生きていくためにいろいろな知恵を使っている。もしかすると生きていくのは楽なことではないのかもしれない、本当は・・・・・。ただちょっとした事で喜べる自分を感じるとき(この感じるが大事なんだけど。頭で理論的にではないというイミ)、そんな自分に、自分のゼイタクさを思うネ。

 

■入浜 瑠璃子へ■(2002.7.10.水)

 「人」という字はうまいこと作っているなあと感心するね。互いに支えあっている姿を一体誰が思いついたのか、人間の知恵には感服するね。2人のセットで英語の文法がうまく理解できると信じている。もちろん、2人のうちの一人がいやがったり、2人とも無関心ならば、物事はうまくいかないのだけれども、2人が協力して実行したら、2倍の力ではなく、3倍4倍の成果があるネ。

 

■岩永 尚子へ■(2002.7.11.木)

 昨日は遠い過去である。10年前や20年前(もっとも諸君は20年前にはまだ生物ではないだろうが)のことは、まさに昨日のことのように覚えている。それなのに昨日のことは、遠い昔のように思えるのは何故だろうか。私達の時間は一体どのように流れているのか。まるで懐かしい昨日があるようだ。10年前や20年前のことが懐かしいのでなく、懐かしい昨日がある。部活の日々は私の心にある。

 

■大井 由布子へ■(2002.7.12.金)

 新しい仲間は新しい風を運んでくれる。西坂百世さんがそろって、31組もフル出場ということで、いよいよ我が31組が本格的に動き出す日になった。あかるく元気なお姉さんなので、31組の大きな力になってくれるものと期待している。保護者面談も今日で終わる。老いた()50歳の身にはなかなか大変。いつものように親の愛を感じる。

 

■大宅 智子へ■(2002.7.15.月)

 青春やっているね。どんなチームプレーでも、チームというのは、一人一人が集まってできているので、個々の人間がとても大切である。もちろんチームとしての力は必要なのであるが、個々の人間がなければ、チームの力も出せないというわけである。一人一人の力は、まさに個々人が自分で高めていくしかない。チームにも一人一人が必要なのである。

 

■荻原 久美へ■(2002.7.16.火)

 本校vs佐世保工の野球を、人間ドックのテレビで応援していた。途中までしか観れなかったが、3年生のみんながいい表情をして映っていた。本気の見事さであろう。相手が強かろうが弱かろうが、自分の力を出し切ることは、自分の人生にとってとても大事な事なのだろうと思う。結果はそのときの運命である。運命の前でもう一歩歩き始めることが、私達であるのだから。

 

■片岡 美雪へ■(2002.7.18.木)

 楽しい時は充分に楽しみ、悲しい時は心から悲しむ。私達は生きていることを共有することができる。ゲームが上手いとか下手とか、生き方が上手いとか下手とか、どうでもいい事で、生きていることやゲームを存分に参加できたら、それが生きていることになるだと思う。一人であることと集団であることは、そこで結んでいる。

 

■鐘ケ江 祐美へ■(2002.7.19.金)

 何かを始める時に、いつから始めるかということがある。例えば、○月○日○○時から開始するつもりだとか、明日からとか、いろいろ一番いい方法を考えるわけだ。しかし、それがなかなかうまくいかない。何かを始めるということは、それほど難しいことなのだろう。雲仙合宿から始めようなんて考えても、そう簡単ではないということだ。吉田兼好が『徒然草』の中で、考えたらすぐ始めるべきだと言っている。本当はそうなのだろう。

 

■川本 順子へ■(2002.7.21.日)

 「ブイブイ」で3行もとるとは思わなかった。その上、名前で1行も使っている。言葉を駆使する練習をしよう。もうこれ以上はムリだと思うことがある。そこが限界なんだろう。ところがもう一歩と考えて、もう一歩進んでみたりする。人間の限界は一体どこなんだろうと、不思議に思う。「ムリをするな」と言う。「無理」とは理屈に通らないことなのだろう。ところが人間は感情で動いている。

 

■城戸 由佳へ■(2002.7.22.月)

 中学校と高校の大きな違いは、「親まかせ」と「自分で」というくらいの開きがあると思う。中学校では全ての指導が先生からなされる。高校では、自分()で考えて、自分でやれというのが原則である。自由は大変なんだということがよく分かる。自分で考えてやるということは、自分の責任で全てを考えるということである。上手も下手も自分達に関わってくる。

 

■古賀 萌美へ■(2002.7.23.火)

 「月日は百代の過客にして・・・・・」と古人が言う。旅人なのは人間なのか、時間なのか。時間は直線的に進んでいるのかもしれないし(「光陰矢のごとし」と言うから)、また漂って、私達の周りにふらふらしているのかもしれない。どちらにしても、私達を取り巻いている何かなのだろう。のっぺらぼーは私達の知覚では捉えようがないので、時間と名づけた。名づけた以上、責任が生じてくるのは、親子も同じ。

 

■坂井 美智子へ■(2002.7.24.水)

 何かを育てるということは、とても面白いと思う。いや、たぶん面白いという言葉とは違うのかもしれないが、妻と話をしていて、面白いという言葉なんだろうねという結論に達したので、面白いと言っておく。もちろん子供を育ててみてということだよ。本当は大変で、夜中に娘を抱えて病院まで走ったこともあるし、おぼれている娘を助けるために足を切った母親でもあるのだが、面白いという言葉なんだね。

 

■坂本  葵へ■(2002.7.25.木)

 すごく楽しみな()雲仙合宿ですね。何かいいことありそうな、怖そうな合宿でワクワクしますね。でも考えてみれば、自分が何かをやるのであって、他人からいろいろ作ってもらうわけではないので、そういう意味で怖い合宿なんだと思いますね。勉強しているつもりなんて、どうでもできるわけで、フリをするかしないかは、自分にかかっている。

 

■筒井 あづさへ■(2002.8.4.日)

 「思い出の夏」が始まる。まず「思い出の前期特別授業」を終わらせ、「思い出の雲仙合宿」を終わらせ、次に「思い出の中期特別授業」に入り、盆を乗り越え、「思い出の後期特別授業」を迎え撃つ。過ぎて行くのでなく、〈終わらせていく〉という主体的な時間を生きていく。時間は流れていくのか、時間に生きるのか、「思い出の日々」。

 

■中村 友紀へ■(2002.8.5.月)

 「いくたびも友に驚く夏合宿」。いつもの顔であり、いつもの姿であるのに、真実は大変な人物であったと気付かされるのも夏合宿なのである。意外なほど友人が大きな存在であることに気付いていない毎日に、逆に驚いてしまうのである。福田屋旅館の詩(〈ふ〉と気がつくと〈く〉るしいばかり〈だ〉けどやるんだ〈や〉ってやるんだ〈りょ〉うどなりには友がいる〈かん〉ぜん制覇、今年の夏)も同じ。友紀の才能に気付いた人が、わがクラスにどれほどいたであろうか。見事()

 

■橋口 麻衣子へ■(2002.8.6.火)

 自分をどういう状態に置いておきたいのか、はっきりさせておかないと、自分が一体誰なのか分からなくなる。ただ何となく時間は過ぎていくものなので、気付いた時に時間は経過してしまっているということは、本当のことなのだろう。時間を止めることができないならば、時間と共に動いていくことが、意識的に生きているということなのかもしれない。

 

■濱本 信乃へ■(2002.8.7.水)

 世の中には引越しが好きな人もいるらしくて、1年に何回引越ししたなんて話を聞くことがある。どんな風に荷物をまとめるものやら。私はできればやりたくないタイプ。本を詰めると考えただけで、嫌になる。信乃の気持ちはよく分かる。ただ業者に頼んでも、業者はどこまでしてくれるのかな。前の家と今の家が同じ間取りならば、そのままだろうが・・・・・。なぞは深まるばかりである。

 

■広末 繁吹へ■(2002.8.8.木)

 奇跡のようなことに、自分が一生懸命にやったことが、次の人のためになっていることがある。自分は自分のことしか考えてなく、ただただ一生懸命に自分の人生を生きていると思っているのだが、誰かが、自分の延長上に生きているのを見る思いがする。一人の人生は何てことないように思っているが、実は、一人の人生は人類の役に立っているのかもしれない。

 

■本多 早紀へ■(2002.8.9.金)

 「脳に汗をかこう」というキャッチフレーズがある。なかなかシュールな言葉で面白いと思うがどうだろう。もっとも脳があせもになったら大変で、困ったことになるだろうが・・・・・。夏の汗が冬の力になるというのは本当だと確信している。脳の汗が冬の脳の力になって、君達を助けてくれる。努力は自分でするものだから、力は自分のものになる。

 

■宮地 千春へ■(2002.8.18.日)

 私達には未来しかない。過去はいつまでも存在しているが、それをどうすることもできないので、そのままにするしかない。未来は私達の前に、まだ何でもないものとして存在するので、何かにすることができる。問題はその未来をどうしたいかである。その未来がやがて過去になるのだから、過去は未来の道標なのかもしれない。どんな過去が欲しいのかを考えることが、未来の指標になる。

 

■森谷 知栄子へ■(2002.8.19.月)

 人間の本当の力は逆境の時こそ現れるとはよく言われることである。うまくいっている時にそのことを考えるのは酷な気もするが、全く事実かもしれない。うまくいかない時にどう考えて生きていくかということが、やがて状況が変わってうまくいくようになった時に、自分がどう強くなっているかにかかってくる。逆境は人間を強くする。

 

■山口 優子へ■(2002.8.20.火)

 私の母が着付けを教えている関係で、今年の夏は、久しぶりに帰ってきた私の娘達に浴衣の着付けを教えていた。祖母が孫娘たちに文化を継承しているのだなあなんて思いながら、その姿を見ていた。先に生まれた者達が次の世代に何かを残していく。残っていくのではなく、「残していく」という意思がなければ、文化は継承されないものであるから。

 

■西坂 百世へ■(2002.8.21.水)

 筋肉を鍛えて太くするためには、筋肉を壊さなくてはならないという話がある。壊された筋肉が作り直される時に、太い筋肉になるという話だ。「一粒の麦もし死なずんば」なんて話を思い出してしまう。多くの収穫を得るためには、一粒の麦が死ななければならないという話である。したくない勉強は、壊される筋肉や死ぬ麦に似ているね。得るものが多いからかな。

 

■青木 健史へ■(2002.8.22.木)

 一日は、一日ずつしか過ぎていかない。どんなに要領のいい暗記の方法を考えたとしても、暗記をするという作業から逃げることができないように、やるべきことを一日一日やっていくしか目標に達することはできないだろう。「僕は甘かった」という先輩達の言葉を聞くたびに、何を甘かったと思っているのかと思う。具体的にその甘さが理解できない限り、そこから脱出することはできない。

 

■網代 和幸へ■(2002.8.23.金)

 「○○○○の夏」が終わろうとしている。「○○○○」にはどんな言葉を入れてもよいのですが・・・・・。「勝負の夏」でも「五島の夏」でも・・・・・。ただ少なくとも「高校3年生の夏」は終わろうとしているのは確かである。「高校3年生」というのは特別な年だと思う(これは前のSHRで言った言葉)。特別な年の毎日をどういう意味で特別にするのかは、自分の課題であり、生き様だろうね。

 

■大渡 雄三へ■(2002.9.2.月)

 「読書に目覚める」というのは、面白い表現だなと思いながら、そう言えば「目覚める」という言葉があるとあらためて感じた。目が覚めるというのは、自分の能力に気付くことであるので、それまでの自分と別れを告げることでもあるわけだ。能力に気付くことが、常に良いとは限らないが、せっかく気付いた自分を磨くことには大きな意味があるあろう。

 

■大渡 雄三へ■(2002.9.3.火)

 何が自分の思い出に残っていくのか、その時には不明である。行事の中の出来事であったり、日常のことであったり、人間の頭の中は、一体どうなっているのであろうか。ただ、一生懸命にしたことだけが、私達の頭の中に残っていることは確かである。自分が動いたり、考えたりして努力したことだけは思い出に残っていく。その努力によって、たぶん人間が成長したから思い出に残るのであろう。

 

■古賀 雄大へ■(2002.9.4.水)

 つい不安になってしまうと出てくる言葉が「今からでも間に合うのか」という自問である。間に合うはどうかはやってみなければ分からないと理解しているのに、つい出てしまう。不安は人間を弱くしてしまうものである。いや、ある哲学者は「死に至る病」として「不安」を論じたこともある。不安を感じないようにすることは不可能であるが、不安を減らすのは実行だけであるのも事実。

 

■清水 恭佑へ■(2002.9.5.木)

 トラブルが起こった時に慌てないようにするには、ちょっと修行がいる。何度トラブルに会っても、慌ててしまって自分のやっていることが分からなくなる人がいるが、修行が足りないのであろう。8組との件もそういうトラブルのひとつだろう。これも修行なのかもしれない。ではどんな修行なのかということになる。考えてみること。一生の役に立つ。

 

■高尾 弘太へ■(2002.9.8.日)

 協力体勢(体制?)を作るためには、トラブルが必要だろうね。なるほど奇跡なのかもしれない。奇跡は人間が(自分が?)起こすことができるわけではない。トラブルも人間がおこすわけではない(自分がトラブルをおこそうと思ってトラブルを起こすわけではないという意味で)。そう考えると、トラブルでまとまった1組は、奇跡のクラスと言える。

 

■高尾 弘太へ■(2002.9.11.水)

 練習は本番でないので、「これは本番ではないのだ」という気持ちを持ってしまう。練習ではこれくらいだが、本番はうまく(もっと!)やるさと、つい考えてしまうわけだ。自分の慰めになるといえば、そうだが、本番が練習よりうまくいくとは限らないとも考えられる。そう毎回が本番なのだと考えるべきだということ。つまり、練習という本番。そうでなければ、悔いが残る。

 

■田川 英佑へ■(2002.9.12.木)

 「目標」というものが、一個人においても、集団においても大きなものであることは、誰の目にも明らかである。良きにつけ悪しきにつけ、「目標」を達成しようと進んでいくことが、人間の本性であるようなので、良い目標を立てる必要があるだろう。自分の中にある、分裂するものを良い方向へ向かわせることを意識して、集団の仲間を統一させることで、よい社会を作ることを目指したいですね。

 

■立花 哲洋へ■(2002.9.13.金)

 本当に疲れてしまうまでやってみることは大事なことのような気がする。いつも余力があるような動き方をしていると、中途半端な自分しか見えなくて、自分の実力が分からなくなってしまう。自分の実力が分からないというのは、自分がわからないということなので、これは大変なことである。自分が理解できるためにも、本当に疲れるということは大切なことなのだろう。

 

■龍石 直人へ■(2002.9.18.水)

 1組のみんなが思い残すことがないような体育大会だったと思う。もちろん、嶺先生と私も含めて。みんなで何かを作ったんだという事実は、私達の人生に大きな意味を残していくと思う。無から有を作るというのは、奇跡であるので、私達は奇跡を起こしたのであろう。誰でもない1組のみんなの奇跡である。奇跡の中の子供たちを誇りに思う。

 

■中島 圭一へ■(2002.9.19.木)

 じっくり自分になればいいじゃないかと思う。自分が一体何になるのかは、全く理解を超えたところにある。つまり、そんな解答なんかはないというのが本当の話なんだ、と思う。もっと言うならば、今の自分が自分であって、それ以外の自分は考えに過ぎないとも言えるわけだ。何かに向かっているのが現在の自分ならば、それが自分なんだろう。職業は型に過ぎない。

 

■中島 雅也へ■(2002.9.20.金)

 本気は緊張することだ。という話が今日の話であった。緊張の中で出せる力が実力なんだという話である。実力をつけたいならば、緊張することができなければならない。受験モードに切り替えるためには、緊張する訓練をすべきだという話である。志願票ひとつ書くにも緊張する。しなければならない書類である。一つ一つが受験モードと言える。

 

■深町 優太へ■(2002.9.24.火)

 今までの自分とは違う自分の姿が結果となって表れてくるのは嬉しいものである。努力は実を結ぶ。ただ今日の努力が、明日の成果として表面に出てこないだけである。なかなか成績が上がらないと悩む人もいるが、何も悩む必要はない。努力しているならば、実力はついているはずである。意外と(まさしく意外となのだが)本番のテストのとき、成果が表れる人も多い。

 

■松尾 慎太郎へ■(2002.9.25.水)

 現在の自分の延長上に未来の自分があるのは確かであるので、現在の自分の在り様で未来の自分は決まる。本来の自分がどのような姿であるかは、全く不明なのだが、自分が何になりたいとか、こういうことをしたいと思ってやらなければ、自分のなりたいものになったり、自分がやりたいことができないのは当然である。タカラクジもクジを買わなければ当たらないという話。

 

■松尾  亮へ■(2002.9.26.木)

 人にはそれぞれ事情があって、何か行事がある時とかテストの時でも、万全のコンディションであるというわけにはいかない。何か小さな、時には大きなトラブルに巻き込まれながら生きているのが本当である。ラグビーをトラブルとは思わないが、万全のコンディションでないという意味では同じかもしれない。その時自分がどう生きるかが、能力を絞って考えなければならないことである。

 

■松島 拓己へ■(2002.9.27.金)

 人権という問題を、私達はつい紙上で考えてしまう。模範解答というものがあって、それに合わせるような立派な答えを言うわけである。しかし現実はもっと複雑で、そうせざるをえないことということがある。そうすることが正しいとは言えないが、他の方法と比べるとまだましだろうという行動をせざるをえないということである。現実は、「正しい」と「間違い」だけとはいかないものなのか。

 

■峰  裕之へ■(2002.9.28.土)

 ある集団の中で、自分だけが少し違う道を歩むというのは、実は思っているよりもエネルギーが必要である。例えば、ファッションを考えても良い。今流行しているファッションならば、安く簡単に手に入れることができる。その上、着るにしても勇気()は必要でない。そうでない時には、高価なもので品薄な中で勇気を持って着用するしかない。本当は集団の中においても、それだけの覚悟がいるはず。

 

■浅井 秀美へ■(2002.9.30.月)

 伝統という言葉があって、学習院は制服が変わっていないとか、早稲田は相変わらず早稲田らしい言われる。その時代その時代に合うというだけのことを考えるならば、伝統は生まれず、制服も次々に変化していうだろうと思う。正しいことがそんなに変化するのかと疑問に思う。表面的な変化が、そんなに本質的なことなのかなという話。

 

■阿野 はるかへ■(2002.10.1.火)

 人間の好き嫌いの感情はどこから生じるのだろうかと考えると、ちょっと怖いね。何となく好きだなんて言っているが、江戸時代のお歯黒なんて、現代でやる人はいないわけだ。と考えると、誰かの策略で、私達の好き嫌いもコントロールされ、まさにマインドコントロールされているような気がするね。自分の好き嫌いという「感情」さえもコントロールされていると思ったら、自分は一体何だと思ってしまうね。

 

■伊豆永 彩へ■(2002.10.2.水)

 命は地球よりも重いかという話があって、重いという人もいれば、いやそうじゃないと言う人もいる。だいたい命と地球なんて比べる方がむちゃな話なんで、議論は尽きないものであろう。ということで、猫の命は地球よりも重いかと考えても、ちょっと答えは難しい。でも次の質問で、猫の命は人間の生活よりも重いかとしてみる。猫害に困っている人間も多いのだから、こんな質問も成立する。

 

■井手内美詠子へ■(2002.10.3.木)

 “バカ殿”とテスト勉強とどちらを取るか。なかなか難しい問題である。理性では分かっていても、本当にやれるかどうかという点で難しいという訳だ。必ずしも人間は理性どおりにはいかない。ただ問題は、どちらを取るかという個人の生き方になるわけだね。いったんどちらかに決めてしまえば、「集中できる」ということになる。それが〈本気〉の本質らしい。決断が〈本気〉の元だという話。

 

■入浜 瑠璃子へ■(2002.10.4.金)

 将来を決定していくには、自分の決断と運命みたいなものが微妙に入り混じった状態で、そうなっていくのだろうと思うね。自分の決断で全てが成り立っているならば、人生はわりと楽なのかもしれない。運命が私達の決定に大きく影響していくのは当然だから。ただ、大学について考えるならば、まず受験校に合格しなければ、迷う材料もないという現実があるね。

 

■岩永 尚子へ■(2002.10.7.月)

 人間は葦のように弱いなんて言うものだから、とんでもなく弱いと思い込んでしまった。もちろん、人間は弱い存在ではあるのだが、もしかすると、私達が思っているようには弱くないのかもしれない。どの程度のことに耐えられるのか、自分自身でも分からないが、受験勉強ぐらいには耐えられるはずである。無理ができるようにならなければ、身体も心も成長しない。

 

■大井 由布子へ■(2002.10.8.火)

 センターテストは、たぶん生まれて始めての真剣勝負なんだろうというのが今日の話。真剣というのは、どんな結果になっても、自分の問題であるということ。もっと考えるならば、自分を含む家族や地域までも、その結果によって影響を受けるということである。大人になるというのは、まさにそのことである。一人の人間が、大きな影響力を持つことである。

 

■大宅 智子へ■(2002.10.9.水)

「1組でよかった」とか、「北高生でよかった」とか、「日本人でよかった」とか、「人間でよかった」というのは、生きていてよかったにつながると思う。じゃ、何故よかったかというと、これはなかなか難しくて、他人がガンバッテいる姿なんかは別に関係なくて、自分がガンバッタ時に始めて、その良さが見えてくる。不思議なもので、自分がガンバッテみて始めて、自分の属している集団の良さが見えてくる。“ALL for one”てことかな。

 

■荻原 久美へ■(2002.10.10.木)

 自分の仕事が世の中に認められるということは、非常に嬉しいことに違いない。しかもそれが、功利的な金持ちになるような仕事でなく、基礎科学のように世の中の人が、あまり知らない分野ならば、なおさらのことであろう。ノーベル賞という賞を作ってくれたクーベルタンに感謝したいものだね。どのようになるか、アイディアだけで仕事をしている人もいるのはうれしい。

 

■片岡 美雪へ■(2002.10.11.金)

 残された時間は平等にあるように見えるが、実は残された時間は人によって様々なのである。自覚によって残された時間は多くも少なくもなる。「すきまの時間」をどれだけ持っているかが勝負だろうと思う。「生活の記録」の時間は、もちろん大事な大事な時間なのであるが、この「すきまの時間」を自分で見つけていく努力なしには、時間は生み出せないだろう。

 

■鐘ケ江 祐美へ■(2002.10.15.火)

 不安なことがある。それも何かと言えないような不安がある。それはたぶん運命に対する不安なのだと思う。不安は人にとって不必要なものかと言えば、必ずしもそうでないかもしれない。不安によって、より良いものは何であろうかと人は『何か』を探すであろう。不安は人を必ずしも不幸にするわけではないことが分かる。不安は不安のままにしておくしかないものである。見つけるものは、他にある。

 

■川本 順子へ■(2002.10.16.水)

 進路を決定するのは大変です。しかも、その、自分が決定した進路が何かの障害、例えば入学試験などによってうまくいかなかったりする。人生は思い通りにならないと嘆くことだってある。しかし考えてみると、それが当たり前のことで、思い通りになると考える方が間違っているのだろう。ならば、少し広い自分の可能性を考えておく必要があるだろう。思いのほか、人間は何にでもなれる生き物だから。

 

■城戸 由佳へ■(2002.10.17.木)

 飛行機が離陸するには、長い距離が必要である。大きくて重い飛行機であればあるほど、早いスピードで進むことができなければ、飛び上がることができない。早いスピードで「陸上」を動くことができ、自分の重量を支える翼がなければ、飛び上がることはできない。ずいぶん苦労を重ね、失敗を重ねて、飛行機は飛ぶことができる。人生に似ている。

 

■古賀 萌美へ■(2002.10.18.金)

 一人の生き方は、他の人に影響を及ぼす。ある大きな流れ(流行と言ってもよいが)があって、全てのことは、その流れの中で動いているように見えるので、小さな一人の生き方など全く無視されているように見えるが、そんなことはない。看護婦になりたいという生き方は、クラスの他の人や、もちろん友人や親や、そして未来の患者に大きな影響を及ぼす決心なのである。

 

■坂井 美智子へ■(2002.10.21.月)

 君たちがすてきな人生を送れたらいいと思うし、願っている。すてきな人生には、美学が必要である。汗にまみれ、油に汚れながらの人生にも「美」はあるだろうし、厳しい疲労の日々にも「美」は存在する。人は自分の人生を生きていく。傍にいて、君たちの人生を見守っているのが、私の役目なのかもしれない。肉体がなくなっても。

 

■坂本  葵へ■(2002.10.22.火)

 八十八日前ですね。末広がりの「八」の字が2つも重なっている日の日直とは、羨ましい限りです。「怖い」という気持ちが出てくると、本物の受験生になった証拠です。どうかなるさと思っている間は、まだまだ。神さま、仏さま、どうかしてくださいと思うようになって始めて、自分が本当に頑張っているということが分かる。神仏から本気が始まる。

 

■筒井 あづさへ■(2002.10.23.水)

 おめでとう() ちゃんと1位(1週間の学習時間)になっていました。みんなの励みになると思います。自分のために頑張っていることが、みんなのためにもなるということだと思います。自由主義というのは、こういうことなのかもしれない。競争は全て悪いと思っている人もいるが、競争によって、勝とうと努力することによって、全体のレベルがあがることは確かであるので、自分のためが“みんなのため”でもあるわけだ。

 

■中村 友紀へ■(2002.10.24.木)

 人間は、トータルに人間なのだと思う。良い所も悪い所も、強い所も弱い所も全てがその人なんだろうと思う。そう考えると、ガムシャラにやっている自分も、フッと気を抜いている自分も自分であるので、そのひとつひとつに、全て自分らしさが出ていることに気付く。個性だ個性だと大きな声を上げて叫ばなくとも、人は十分に個性的であるのだから、あとはシャボン玉を人に見せてあげれるように工夫することだ。

 

■橋口 麻衣子へ■(2002.10.25.金)

 よく考えてみると、合格するまで〈しか〉受験勉強ができないということに気付く。合格してしまうと、受験勉強は何か別の努力になる。目標が大切だとか言うけれども、合格という目標のための努力は、なんと短い期間なのだろうと心細くなってしまう。何が自分の力なのか、じっくりと自分を観察することができる期間なのである。自分が何者であるのか、見つめてみよ!

 

■濱本 信乃へ■(2002.10.28.月)

 「授業→復習→予習→授業・・・・・」というパターンが一体どういうことだったのか、本当に理解できる時期になってきたと思います。センターまでの日数に緊張することはとても大事なことです。しかし、毎日はかならず24時間あるということも忘れてはいけない。1日の時間が変化しない以上、24時間が自分にはついていると思って手を抜かないで、ひとつひとつやっていくこと。職人のように。

 

■広末 繁吹へ■(2002.10.29.火)

 人間の可能性を考える。いつまでもあれこれ迷ってしまって、結局自分の人生を見つけられないのも困るが、自分にはこれしかないと頑固に守り続けるのも、どんなもんだろう。意外に人間はゆったりとした能力を持っていて、少々の変化には対応できるように作られている。そうでなければ、変化してきた地球には生存できない。もしかすると進路もそうかもしれないと思う。青山はいろいろな所にある。

 

■本多 早紀へ■(2002.10.30.水)

 風邪とインフルエンザは見分けるのが難しい。もっとも風邪も万病の元というのだから、バカにはできない。自己判断で長い間セキや熱に悩む人もいる。休養すれば治るという人もいるが、その自己回復力を助けるのが医学なのであるから、医学にhelpをすれば、より早く治るというものである。熱が出て2日目以内に治療すれば、ウィルスの活動を抑えることもできるという。早ければ早いほど・・・・・何事も。

 

■宮地 千春へ■(2002.10.31.木)

 気付くというのは、今まで見ていた方法と違う見方に気付くということである。新しい何かが突然出て来て、その出現したことに驚くようなことではない。自分の変化によって、今まで見ていたものが、別の何かに見えることである。学習もどうもそんなようなもので、単に知識を増すだけでは、真の勉強ではないのだろう。自己変革こそが、勉強の第1歩ということか。

 

■森谷 知栄子へ■(2002.11.1.金)

 自分の運命は自分の責任において引き受けるしかないので、自分が選択権を持つ。主権者には大きな義務が生じる。生きていく権利と義務はいつも同時に存在するので、自分の進路を選ぶことは、自分の人生を選択することと同じである。センターテストで何点取るかは、その時の運命に任されたにすぎない。しかし何点とろうと、人生を止めるわけにはいかない現実は、依然として残っている。

 

■山口 優子へ■(2002.11.5.火)

 自己選択だけが自分が自分であることの証明です。何を選んでもいいのかもしれない。何をどう選ぶかなど、常に自分が何者であるかと試されている。現実は選択することを強要している場であると思います。楽のように見える選択が本当に楽なのかどうかさえ、分かりはしない。困難な選択も同じ。ただ、選択しなければならないという現実があるだけである。

 

■西坂 百世へ■(2002.11.6.水)

 冷静に()とか、もっと客観的に()なんてアドバイスはあるけど、熱気でカッカッしている当事者には全く関係ないような気がする。慌てている時には慌てるのが当たり前であると思えるのだ。焦って、慌てて、それで自分を見失ってしまうようなら、そんな「自分」なんて見失うくらいのモノにすぎない。もっとドッシリとした自分があるなら、それを見つけることです。

 

■青木 健史へ■(2002.11.7.木)

 本当に最後というものが存在する。試合が負けてしまえば終わりという現実は、選手にとって大変なプレッシャーに違いない。それによって人生が変わるかもしれない。花園に行くか行かないかによって人生が変わる人もいるだろう。全て一瞬一瞬によって私達の人生が変わっていくような気持ちになる。大切なのは、当たり前かもしれない。それにしても、今日の『スメタナ』(弦楽)は素晴らしかった。

 

■網代 和幸へ■(2002.11.8.金)

 何でも区切りにいるということは、面白いと思う。20世紀から21世紀の区切りに生きているということも、日誌の最後のページを飾ることも、とても面白い経験だと思う。自分がそうしたのではなく、運命のようなものが、自分をそのような状態に置いたのだと思うと、なおさら面白いと思う。3年1組の1員であるとか、ある大学の1員であることも、どうも意味があるのではないだろうか。

 

■大渡 雄三へ■(2002.11.11.月)

 自分のがんばりは自分だけに留まらず、次に続く者にとって大きな力になるという考え方は素晴らしいと思います。どうも私達は横の関係(時間的に同時代に生きている者だけの関係)だけでなく、先輩から後輩へと続く、親から子へと続く、タテの関係の中で生きていると思えるからです。自分というものが、自分だけで完結しないと気付く時、人はどう生きるべきかが見える。

 

■古賀 雄大へ■(2002.11.12.火)

 来年の4月どうなっているのか分かっているのならば、本当はずいぶん楽なのかもしれない。なんて考えていないかい。未来の自分の運命は、自分の現在とつながっているので、未来の自分が個別に存在しているのではない。ここに時間のパラドックスが生じる。楽な気持ちになれるような、そんな人生は、ないのかもしれない。本気であればあるほど、人生は内容の濃いものなんだろう。

 

■清水 恭佑へ■(2002.11.13.水)

 人間の可能性を考える時、私には想像もつかない。私の想像を越えたものが、人間には確かにある。良い方面でも、悪い方面でも、人間は想像を越えている存在である。その人間という時に、実は自分も入っていることに気付く。一体自分という人間はどのような存在であるのか。自分の可能性とは、一体何であるのか。自分に一体何ができるのか。やってみなければ分からないとは、そういうこと。

 

■高尾 弘太へ■(2002.11.14.木)

 人は自分の等身で怒り、喜び、人を疑う。故に、その人がどんなことを怒り、喜び、疑うかによって、その人のことがよく分かる。@バス停無視、A定期券を見せた時自分だけ運転手から応答がない、B車内放送と場所が全然違う、C車内放送のCMが変だ、の順によってその人の質が理解できるとすれば、こんな愉快なことはないと思うが、どうだろうか。@のバス停無視が、1番怒りの対象になるということは、公共道徳に対する意識が高いのだと思う。ただ、Cが怒りの対象であるということは、一体何なのか不明。

 

■田川 英佑へ■(2002.11.15.金)

 〈過去〉は、もはや評価の対象でしかなく、〈未来〉こそが、私達の手中にあるものに違いない。人生には、あまりに多くの分岐点があるので、何が人生の分岐点なのか、今ではもう分からなくなってしまっているが、確かに大学受験は、人生の分岐点の一つである。それぞれに成功と失敗があるのも確かなのだろう。しかし、多くの分岐点の通過点と考えると、一つの失敗が、果たして人生の失敗なのかどうか、不明。

 

■立花 哲洋へ■(2002.11.18.月)

 何かに対して責任があるということは、一体どういうことなのか、それがペットであれ、家族や国家や地球であれ、責任を持つということは、どういうことなんだろうね。ペットのためには命さえも、落としてかまわないということなのかな。家族のためには・・・・・、国家の、地球の・・・・・、と考えると、責任を持つということは、実は大変な事なんだと気付く。その重さを十分に理解した時に、「自分」に責任が持てるのだろう。

 

■龍石 直人へ■(2002.11.19.火)

 「リスクを背負っての対処」という言葉には、社会人の重さを感じるね。ミスは当たり前、リスクも当たり前、しかも、他人のミスも自分のリスクに入れざるを得ないことがある。人道の問題ではなく、システムや立場の関係で。そんな会社とか社会で生きていくわけだから、自分の職業というもの、人生における働くとは何かと、一度考えてみると良い。人は、パンのみで生きているのではないから。

 

■中島 圭一へ■(2002.11.20.水)

 大人と子供の違いは何であろうか。一つは保護する側にいるのと、保護される側に立つことのような気がする。自分のことだけでなく、何か別のものを保護しているとしたら、その人がどんなに小さくとも、大人のような気がする。それは、ペットであっても何でもよいのだが。では、保護とは何かという点が問題になるが、それはまた別の時に。法律と個人は微妙に違うもののようだ。

 

■中島 雅也へ■(2002.11.21.木)

 誕生日はおめでたい日なのです。生を受けるということが当然のように思われるようになったのは、一体いつからなのでしょうか。精子と卵子が・・・・・、などと話し始めなくても、生命の発生は奇跡なのですから、その生命が、ある年齢まで生き延びたとこを祝うのは当然なことです。生きているだけで、生きている証はあるのでしょうが、人は自分の生きてきた(生きている)証を求めるもの。誕生の奇跡に思いを巡らすのも当然。

 

■深町 優太へ■(2002.11.22.金)

 集中して勉強しているので、日数がどんどん経過していくように思えるだろうが、一日は一日として徐々に過ぎて行っているに過ぎない。人の体内時計は、思いの外心の動きと同期しているのであろう。すぐに慌ててしまったり、ゆったりしてしまったりする。人の動きとは無関係に、時は流れているのかもしれない。ということは、人は一人相撲を取っているに過ぎないということか・・・・・。

 

■松尾 慎太郎へ■(2002.11.25.月)

 ピンク・フロイドに『ゲンシシンボ』というLPがあって、若い私が大きな「意味」を感じた。何に対して「意味」を感じるかは、自分の〈時〉にとって、とても大切なことで、『意味の意味』という論文を書いた人もいることで分かる。時代がどうであれ、私の〈時〉というものは確かに存在しているので、時代の中の私を大切にすべきなのは言うまでもない。私の〈時〉は時代と並行している。

 

■松尾  亮へ■(2002.11.26.火)

 生き続けるということを考える。先に生まれた者が、遅く生まれた者よりも明らかに多くの体験をしている。体験は知識の集積になるので、早く生まれてきた者の方が、多くの知識を所有していることになる。知識は多ければ、生きているのに少ない障害ですむことになる。それならば、障害が少ない者が生きる力は強いのか。必ずしもそうはいかない。時間や知識の量だけで、生きる力は量れない。

 

■松島 拓己へ■(2002.11.27.水)

 生きていく中で、様々の時期がある。遊ぶ時期とか、学ぶ時期とか、働く時期とか。その時期にそのことだけをやっているわけではないのだが、それを集中的に極めている時期ではあるようだ。その時期がうまく集中できないと、人生が少しイビツになるのかもしれない。ちょうど、反抗期がなかった子供達に不安定なものがあるように。今のこの時期が、学びの時期ならば、学びに集中するのがよい。人生のために。

 

■峰  裕之へ■(2002.11.28.木)

 毎日が同じように過ぎていく。毎日は確かに違う日なので、それぞれが個性的な日であるように思うのだが、同じように過ぎているように感じる。同じような日があるからではなく、自分が同じように生きているからに違いない。今までの自分とは違う自分になろうとするには、大きなエネルギーが必要である。毎日同じように過ぎていく自分を選ぶかどうかは、自分が決めなければならない。毎日は、そのように過ぎていく。

 

■浅井 秀美へ■(2002.11.29.金)

 思い出作りという言葉があって、何か思い出に残るように行事をしましょうなんて言うわけだ。しかし考えてみると、思い出は必ずしも楽しいことである必要もなく、また他人から与えられるものでなくとも良い。自分が考え、自分で企画した苦い努力の跡も、良い()思い出として私達の心に残っていく。大事なのは、何を思い出に残していくかであって、残念ながら(幸福にもかな?)結果は私達の手に届かない所にある。

 

■阿野 はるかへ■(2002.12.2.月)

 「本を読みなさい」という言葉が本当で、「これこれの本を読みなさい」という言葉は間違っているのではないかと思う。今の自分に読めない(もちろん難しすぎてって話じゃないよ)本は、途中にして、次の本にいくのが本当の読書だと思うからだ。全ての本から逃げ出すことは不可能だ、その人が本を読もうという気持ちがある限りは。何から逃げるのかを考えてみると良い。逃げるものなど、ありはしない。

 

■伊豆永 彩へ■(2002.12.3.火)

 ロベルト・ベニーニの『LIFE IS BEAUTIFUL』を観ていると、人生はとてつもなく素晴らしいと思えてくるね。どんな厳しい状況に置かれても、この映画ではナチの収容所なんだが、人は人のために何かができる。何か助けようと考えるならば、どんな状況でも助けることができる。人生は厳しいかもしれない。しかし、「生きる」という厳しさと、「生き方」とは異なる次元であるのだろう。意思的意志。

 

■井手内美詠子へ■(2002.12.4.水)

 先日、車のエンジンオイルを交換した。交換した直後はエンジンの回転がちょっとカタメで(感じが分かるかなあ)、アクセルを踏んでもスムーズに回転数が上がらない。それで、ちょっと鍛えようと思って高速道路を走らせた。時間が経過するにつれて、エンジンも軽くなったような気がしたが、まだ高速に乗っている時は、そうまで感じなかった。ところが、普通の道路を走ってみると、とても調子が良い。何の話()。もちろん、頭を鍛える話。

 

■入浜 瑠璃子へ■(2002.12.5.木)

 「椅子が仕事をする」という言葉がある。あるポジションに就くと、それまではそのポジションに見合うような人でないように見えても、その仕事ができるようになるということだろうか。自分のポジションが意識できれば、それに見合う仕事は、意外にできるものだとも読める。人間の能力というものは不思議な力(パワー)を持っているものなんだなあって感心する言葉である。

 

■岩永 尚子へ■(2002.12.6.金)

 「お百度参り」とか「お茶断ち」とか、昔の人は自分の願を成就させる方法を考えた。変な話で、自分の願いのためなら、そのことを努力すればよさそうだが、何故か、そうしない。自分の願いの強さを、自分に何かを強制したり、自分の好きなものを食しないことによって示した。その是非はともかく、自分が如何に本気であるかを示したわけだ。本気であることを何に対して示すのか。私達の心の中に神はいる。

 

■大井 由布子へ■(2002.12.9.月)

 「初雪の良きことの起こるとき」。何でも、始めてというのは心が引き締まる思いがある。ある環境が終って、次の環境に移る時の節目は、身体も心もキンチョーするからだろう。思春期も一種の節分であるので、反抗期なんてアンバランスが起こって、自分の中でカットウしたりする。そして多分、今、受験を前にした君たちも節分の中にいる。バランスが悪いのは、当たり前ということか。

 

■大宅 智子へ■(2002.12.10.火)

 「働く意味」とか「何のために働くのか」という言葉に出会う。「生きるため」という言葉を思いつく。しかし「生きるため」という時のニュアンスが人によってずいぶん違うことに気付く。人が「生きる」というのは、一体どういうことなんだろうね。食べ物を手に入れることを「生きる」ことだと言ってしまっては、なんだか寂しすぎる感じがする。自分のために働くと言えば、人でなくなるような気がする。

 

■荻原 久美へ■(2002.12.11.水)

 一人一人の人生があるように、ひとりひとりの成人式があるようだ。私の娘は着物はいらないと言う。彼女の夢見る成人式には着物はいらないのだろう。自分の人生を自分で選んでいくことは全ての現象に反映するので、成人式一つをとっても様々な成人式がある。何を自分に求めるかが、一日一日のスタイルを作っていく。自分のスタイルが一日を作り、人生を作っていく。

 

■鐘ケ江 祐美へ■(2002.12.12.木)

 熱中するものがあることは、幸せなことです。それが、自分の一生に関することであればあるほど、幸せは大きなものとなるだろう。熱中するということは、他のものを犠牲にしている行為なので、たぶん何か不都合がある。例えば、眠いとか・・・・・、健康とか・・・・・。その不都合によって、自分の達成したいものに向かって進むことが出来る。自分が選ぶ。何かを選ぶというのは、そういうことなのであろう。

 

■川本 順子へ■(2002.12.13.金)

 いろいろなアイディアを出してみる。自分の人生を豊かにするために。試験を問題にすぎないと思うか、おもしろい知識と見るかで、人生における試験はずいぶん違ったものになる。同じように、試験を解答するという事実だけでもこれだけ違うのだから、他は推して知るべし。私達の人生は、豊かな実りに満ちていることに気付く。バスの運転手さんの話も同じ。

 

■城戸 由佳へ■(2002.12.16.月)

 大人になっていくと夢が小さくなっていくと言う人がいる。現実と夢の間で、自分がだんだん小さくなっていくと言うのであろうか。現実は現実として存在し、夢は夢として存在しているとでも言うのであろうか。しかし、現実の中に夢があり、夢の中に現実があるというのが本当だろう。互いが互いに影響し合って、それぞれが存在している。夢を大事にすることが、現実を大事にすることになる。

 

■古賀 萌美へ■(2002.12.17.火)

 苦しい時の友達は一生の友達になる。苦しみは私達の絆を強めてくれるのだろう。一生が楽しければよいと考えている人には信じられないことに違いない。同じように苦しいときを過ごすと、自分と友達が同一化するのかもしれない。それでもなお、私は私、あの人はあの人と考えるようになって、本当の、一生続く友情が作られていくと考える。同じ苦しみの中に、友人の大きさを感じるからだろう。

 

■坂井 美智子へ■(2002.12.18.水)

 希望と失望の両極の間で私達の心は揺れている。もちろん希望するから失望がある。人によっては希望を持たなければ、失望もなくてよいと考える。生きているという意味をどのように考えているかによって、人の心は変化する。努力も同じ。結果は結果に過ぎない。たぶん私達人間の支配できないところに、努力に対する結果がある。努力は私達の手にあるが、結果は神の手にある。

 

■坂本  葵へ■(2002.12.19.木)

 メリットとデメリットは同時に存在する。「苦しいは楽しい。楽しいは苦しい。」何か聞いたことのあるフレーズですね。『不思議の国のアリス』かな? 事実は常に二面性を備えているので、良い面ばかり見れば、そのことは全て良いように見えるし、悪い面ばかり見れば、それは全く悪いだらけ(?)のものに見えるわけだ。朝型がよいか、夜型がよいか悩むのもよいが、それが定着するのに2週間かかるけど・・・・・。

 

■筒井 あづさへ■(2002.12.20.金)

 誕生日は親に対しての感謝の日なので、親にありがとうという日ではないかと思います。半世紀も生きてきたのだなあという過去への詠嘆と、まだ半世紀生きる(?)のだなという不安が心にあります。未来はいつも不安に満ちている。不安だからこそ、今の時間をがんばれるのかもしれない。不安が私達の活力であるとしたら、人間は不安さえも生きる力にしていると言える。全ては自分の内にある。

 

■中村 友紀へ■(2002.12.21.土)

 男の子たちの右手はひとり残らず力強いものだった。力強い握手をしながら、この右手が世界を作っていくのだと確信していた。世界とか人生とか、言葉が大きすぎるような気がするかもしれないが、そんなことはない。人間の全てが一人一人の人生を生きているし、大きな世界を作っている。一人一人のベクトルで動いている右手の力強さが、1組のベクトルで動いて欲しい男集会。

 

■橋口 麻衣子へ■(2002.12.23.月)

 大切な日という日がある。自分にとって何かを考えたり、心の支えとなったりする日が大切な日なのであろう。クリスマスもそんな日の一日である。キリストという存在が、2000年という時間を通して多くの人間の運命を支えてきた。運命を支えるほど大切な日というものがあるのが分かる。正月もそうであろうし、センター試験の日もそうなのであろう。それらの日が毎日積み重なって一年が出来上がっている。

 

■濱本 信乃へ■(2002.12.24.火)

 終業式。2002年が終ろうとしている。確かに1231日と1月1日の間には、何かとんでもない魔王が潜んでいるわけでもないし、歴史の崖のようなものがそびえているのでもない。ところが1月1日はやはり1月1日で、一年の最初の日なのである。人間の発明(発見じゃないよ)の中で、時間の最初を思いついた人は、天才か悪魔だろうね。クリスマスの日に正月の話もなんだが、今日という一日が、どこから始まるのかを発明するのも面白いという話。

 

■広末 繁吹へ■(2002.12.25.水)

 24日の夜にクリスマスのミサに行ってきた。神父様から素晴らしい話をしていただいた。贈物の話である。贈物は『自分』を贈るのが本来の意味だったのではないかという話。『自分』があなたと一緒にいるのだという言葉(プレゼンス)が、プレゼントになったのだという。あなたと一緒にいたいが出来ないので、その代わりに品物を贈る。この品物は私の心の代わりです。あなたと共にいる私の心です、と。言葉も同じ贈物。

 

■本多 早紀へ■(2002.12.26.木)

 嫌いな自分がいて、好きになりたいのだが、行動に移せない。人は気持ちだけで動けるものではないのだろう。状況をそのように持っていかなくては動けないこともあるのだろうと思う。本気になれば、と言う。言うが本気がどんなものか想像したこともない。たとえば、命が惜しいと思う人は、目の前にギラギラした刃を突きつけられたら、助かりたいと思い、一生懸命になるだろう。一生懸命でないのは、本当には怖くないからに違いない。

 

■宮地 千春へ■(2002.12.27.金)

 何を当たり前と考えるかによって、人生はずいぶん違ったものになるだろう。人は当たり前であろうとするから、今の生活が当たり前でないと考えたら、当たり前にしようとガンバル。このクラスの生活が当たり前になったら、他の生活は考えられない。本当は自分の今の生活が当たり前であるのに。自分に都合の良いことばかりが起こるわけはない。それに気付けば、都合がよいように作っていくのは自分の方だと分かる。

 

■森谷 知栄子へ■(2002.12.28.土)

 等身大の自分というものがある。自分を越えることは不可能だが、自分の最高を出すことは可能である。人はよく、自分のことが理解できないと言う。それは当たり前のことで、自分のことをそんなに真剣に考えた人はいない。真剣に考えるためには、それこそ自分の最高を記録するくらいのことをしないといけないからだ。自分の最高を出すなど、そんなに何時でもできるわけがない。しかし、それが等身大なのである。

 

■山口 優子へ■(2003.1.6.月)

 バランス感覚というものがあるらしい。バランスがとれていると急激な変化にも対応できるというものらしい。ところで右と左の重さが違ってもバランスはとれるのかという問題がある。もちろん真ん中にいてはバランスはとれない。重い方に近づくとバランスがとれる。左と右の重さが違っても、支点を動かすことによってバランスがとれるというのは、何か感じるね。しかも重い方に支点をずらすというのが面白い。“まず、センター試験をやっつけちゃいましょ”ということカナ(?)

 

■西坂 百世へ■(2002.1.7.火)

 神頼みするくらい本気にならなければならない。などと言ったらちょっと不思議な気がするだろうか。何もしなくて、神頼みするだけじゃないかななどと思うからかな。しかし、現在の君たちが自分で何もしなくてもなどと言えるとは思っていない。これだけやった1組のみんなに、誰も努力が足りないとは言わないだろう。とすれば、後は神頼みしかない。神頼みするくらい努力したのならば、もうそれだけで十分な成果である。

 

■青木 健史へ■(2002.1.8.水)

 センター試験の日が試練の時ではなく、今のこの時が試練の時なのだろう。今この時に、一体自分のなすべきことは何であるのかを考え行動するのが、試練を意識することであるに違いない。センター試験まで10日になった日に、ストレスで一杯になった自分が何をなすべきであるかを考え、最良だと思うことをやる。そのこと自体が試練なのだと思う。逃げている人は、今日という日から逃げている。

 

■網代 和幸へ■(2002.1.9.木)

 自分のこととして本気になったことは、全てプレッシャーとの戦いである。自分に直接関係ないことにプレッシャーを感じるはずもない。自分の運命は自分が存在するから自分の前に在る。そう考えるとプレッシャーという存在が見えてくる。自分の運命が自分によって背負われていると気付くこと。それを重いと見るかどうかにプレッシャーが関係している。自分の運命は自分にとって最大のものであるので、プレッシャーは当然最大になる。

 

■大渡 雄三へ■(2002.1.10.金)

 自分の過去は消せない。悪いことばかりでなく、自慢できることでも、消せないという点では同じである。1週間に50時間以上も学習した者は、一生の間、その事実を守っていける。それは大変なことで、エベレストに登ったことのある人間が、自分はエベレストに登ったことがあると言えるのと同じである。この事実は、誰が何と言おうと、誰からも消されることはない。こういう事実の積み重ねの中で、私達の毎日が出来上がっている。

 

■古賀 雄大へ■(2002.1.11.土)

 北朝鮮がNPT脱退宣言をした。条約というものの性格上、強者の論理で作られた条約であることは間違いないが、脱退宣言は対立になる可能性がある。大きな対立の間に仲介を取ることができる多くの国が存在する。全ての国や人が対立しているわけではない。しかし戦争となると、その間にある仲介を取るべき国や人が、どちらかの陣営で戦うことになってしまいます。外交は戦争だとも言うが、決定的に異なるものです。

 

■清水 恭佑へ■(2002.1.12.日)

 風邪やインフルエンザの人が増えてきているので、どういうことになるやらと心配している人も多いだろう。ただ、感染しても発症しない人もいるわけだから、病を押さえ込む(?)ことはできるのかもしれない。仕事となったら、少々の病気で休むわけにはいかないというのは本当で、それが責任という形で、自分にかかってくる。そういう社会が良い悪いは別にして、そういう社会の中で生活していることは確かである。

 

■高尾 弘太へ■(2002.1.14.火)

 いつもどおりの高尾節ですな。「アラブ人は金持ちだ」という題名で1ページつぶせるとはイイ度胸である。ところで、人間は全て金持ちになりたいのかという質問をしてみることにする。金持ちでは基準が見えないので、「大金持ち」ということにする。大金持ちになりたいのかどうか。そりゃ、なりたいに決まっている。それじゃ、大金持ちになって何をするか、という問いではどうだ。どうも人間の価値は何をするかであって、金持ちとか貧乏は、そうたいしたことではないかもしれない。

 

■田川 英佑へ■(2002.1.15.水)

 自分の限界を知ることが大事である。などと言うことがあるが、実際に勉強をやってみると、少々やっても限界が見えてこない。自分の限界が見えてこないということは大変なことで、どれだけでも勉強できるということである。どこまでやってもやれるような気がするほど、自分が強いことに気付く。この「気付く」ために限界を試しているとも言える。自分は強い。弱いと思っていることが、実は間違いだったことに「気付く」。

 

■中島 圭一へ■(2002.1.16.木)

 センター試験は大きな節目には違いないが、そこで全てが終るわけではない。センターまであと何日というポスターは、計画することを鼓舞するために作ったポスターであって、地球滅亡まであと何日だとか、○○大会まであと何日というスローガンとは少し趣を異にする。大学入試は最終目標ではなく、むしろスタートだからに違いない。スタートの位置取りのためのウォーミングアップの時間が、今なのだろう。

 

■立花 哲洋へ■(2002.1.17.金)

 いよいよ待ちに待ったセンター試験です。今日の1組集会で、全員が全員と握手をしました。自分にない力は出せないというが、本当にそうなんだろうか。自分にないと思える力を出せるから、人間は進歩してきたのだろうと思う。1組のみんなが自分を支えてくれるのだと信じて欲しい。人間はひとりで生まれて、ひとりで死んで行くが、生きている間は、互いに支えあっている。

 

■龍石 直人へ■(2002.1.20.月)

 仲間たちと団結して作り上げる緊張感と、個人として持続していかなくてはならない緊張感は、ずいぶん違う。量の問題ではなく、質の問題なのだろうと思う。集団の中では、仲間が互いに助け合って緊張感を持続するようなオーラを断続的に出してくれる。ひとりでやる、まさに個別試験までは、その断続的な刺激がないのである。自己責任がそこに生まれる。

 

■龍石 直人へ■(2002.1.21.火)

 「われわれは結果として、ひとつの道を歩いていくわけです」という言葉は、真実なのだと思うね。現状を夢想するのではなく、未来に向かって自分を進めていくしかないのが、私達の生き方なのだと思いますね。自分にできることは、何かを考えることだと思います。自分が何のために生まれてきたのかは、他人の問題ではなく、自分で作っていく問題だからでしょう。既存の答えがあるのではなく、答えを作っていくこともある。

 

■中島 雅也へ■(2002.1.22.水)

 34日後に前期試験がある。ひとりひとりが、今までの自分を試すテストである。センター試験とは全く違う雰囲気の中で、自分が試される。「日々、新しい」とは、日常に対して使われる言葉かもしれないが、まさに新しい運命との出会いを感じる体験だろうと思う。新しい体験は、新しい自分を作っていく。日々新しく、毎日同じ日はないと実感する体験である。

 

■深町 優太へ■(2002.1.23.木)

 センター試験と個別試験のことを考えると、ひとつの山は次の山の道標に過ぎないということがよく分かる。センター試験という山をどのように克服してきたによって、2次試験の山の登り方が決定していくというわけである。深町の言うように、センター試験と2次試験は分けて考えるべきではないのだろうと思う。分けずに考えることによって、センター試験のために勉強してきた学力も、さらに輝きを増すことになるわけだ。

 

■松尾  亮へ■(2002.1.24.金)

 毎日は決断によって進んでいく。誰もその決断を否定することはできない。自分の生の最先端で、ギリギリのところで選んだ決断に誰が異議をとなえることができるだろうか。私達は、毎日の中でそれほど意識せずに決断しながら生きている。大学入試となると非常に、必要以上に意識してしまう。これだけが決断の最たるものではない。まだ人生は続いている。

 

■松島 拓己へ■(2002.1.27.月)

 目標は自分で決定しなければならない。自分で決めた目標は自分の宝物のようなもので、自分の内部からフツフツと湧き出してくる生命によって、創り出されたものである。そのような目標を大切にするのは当たり前である。大切に大切に自分の生活の中で育み成長させていくものである。では、大切にするとはどうすることか。目標は達成するために創り出されたものである。大切な目標には、自ずと扱い方も決まってくる。

 

■浅井 秀美へ■(2002.1.28.火)

 進路という人生の大きな悩みの中で、何をどう決定するかは、確かに秀美の言うように「大人への第一歩」なのだと思う。そこに「大人」という言葉に対する私達の定義ができる。悩むのは大いに良いことであるが、それを決定しなければ「大人」とは言えないという定義が。自分の責任において決定することこそ「大人」なのであるという定義が。そうしなければならないと自覚した自分がいる以上は大丈夫。

 

■阿野 はるかへ■(2002.1.29.水)

 「自分が言った言葉が自分をはげましていておかしくなった」という言葉、「はるか」らしくて、とてもよい話です。妹君の未来も祝福したいと思います。言葉にはいつも相手がある。独白も、もうひとりの自分に対する言葉である。相手があるものだから、それはパワーになる。実体はないように見える言葉なのだけれど、実に大きな力が秘められている。相手があるから、必ず自分に返ってくる。

 

■井手内美詠子へ■(2002.1.30.木)

 比較の中で生きるのに慣れていないと、自分の姿を見失ってしまうような気がする。比べるということが社会的動物としての人間の姿であるために、自分がどんなに努力しても、その努力が他と比べてどの程度であるのか分からないからである。2次試験のために「あれだけ勉強したのだから」と言えるほど勉強しても、怖いのは当たり前のこと。その怖さに耐えるしかない。

 

■入浜 瑠璃子へ■(2002.1.31.金)

 願書を書くのに2時間ぐらいかかったと言う。たった数枚の紙切れにすぎないのに、ずいぶん緊張する。その緊張こそが本気の証である。ひとつひとつが確実に積み上げられて、自分の未来が作られていく。今、この大学入試という試練の中で、本気がどういうものであるのかを学んでいる。その学びが君たちの人生に役立っていくものと信じる。大きな宝を磨いている。

 

■坂井 美智子へ■(2002.2.1.土)

 2次特編になり、1組のみんなと会えるのが、朝と帰りのSHRだけになってしまった。みんなそれぞれが、それぞれの講座で、それぞれの力を尽くして勉強しているのだろうと想像する。想像するだけで、それを目にすることはできないのだが、ガンバッテいる姿が目に見えるような気がする。今までの姿が、現在にそして未来に向かって連続して見えるのだろう。私達は時間の中で連続的に生きているので、急激には変化しないからである。

 

■岩永 尚子へ■(2002.2.2.日)

 道はまっすぐではないので、自分が考えた未来に向かって真っ直ぐに直線的に進むものではないのだろう。センター試験が終わって、自分の考えたとおりの点数が取れた人は、意外と少ないのではないだろうか。いや、表現が違った。自分が行きたかった大学に十分であると「思える」点数を取れた人が少なかったというべきだろう。点数は取っているのだが、それが十分なのかどうかは、本当は不安なのである。評価は相対であるので、不安は結果が出るまで不安である。

 

■伊豆永 彩へ■(2002.2.3.火)

 2次試験のための勉強は孤独だろうと思う。それまでのクラスが仲が良かっただけに、その独りぼっちの感じは、大変なものがあるだろうと想像できる。しかし、何かをやろうとする時、人はいつも孤独の中で始めるというのも真実ではないかと思う。仲間と協力することはできるのだが、自分の力で、自分の責任において、自分を試すのは、自分しかいないのだから。

 

■川本 順子へ■(2002.2.5.水)

 災害の時に現地に集まる人々がいる。テレビなどのマスコミ関係の人々はNewsを手に入れるためにやってくるし、救助の人々の動きも激しい。その中にボランティアの人々がいる。ひとつの組織としてボランティア活動のために現地に入る人もいれば、止むに止まれぬ救助をしたいという気持ちから現地に入る人もいる。ところが、そういう人が必ずしも役に立っているかは、別問題。順子の言葉。「福祉がしたい。人を手助けしたいと思うだけではダメなんだなあ。」

 

■大井 由布子へ■(2002.2.6.木)

 立春も過ぎ、私大の入学試験の真っ最中です。試験の結果も出てきています。国公立大学が本命とはいえ、自分の受験した結果はとても気になるはず。心慌しい時期になりました。この2月という月が、自分の次のステップを作っていく月だと実感していることでしょう。孤独な自分の運命と、「大好きな学年・クラス」が共存しているのが、私達の存在なのでしょうね。孤独だから、手を差し伸べる友がすぐ傍にいるのでしょう。

 

■大宅 智子へ■(2002.2.7.金)

 「同じ羽毛の鳥は・・・・」とか、「類は類を呼ぶ」とか、似たもの同士が仲間になる諺がたくさん残っている。少しでも似ている者(物)でなければ理解し、共存するのは大変難しいという証拠であろう。自分の今の状態・状況を考えてみて、満足するものがあるのならば、自分の中にそういう素質があったということだ。他から与えられるものは意外に少ない。成長は、自己発見の過程なのかもしれない。

 

■荻原 久美へ■(2002.2.8.土)

 間近かに卒業式が迫っているにもかかわらず、感傷的な気分になる「ヨユウ」がない。自分がやるべきことがあって、一心不乱に実行している時とは、そんな状態なのであろう。卒業式はたしかにひとつの大きな節目には違いないが、別の角度からみれば、日程としての節目に過ぎず、日付にすぎないと思えるからだろう。しかし、その日付によって私達の人生は節目を作っている。

 

■片岡 美雪へ■(2002.2.10.月)

 同じ大学入試だというのに、センター試験と私大の問題はずいぶん異なる印象を持つ。センター試験の統一的な問題に比べて、私大の問題は個性あふれる問題になる。個性は、理解しにくいのがその性質であるので、私達は各々の大学の個性に対して備えなければならない。国公立大の2次試験も同じ。「規定」と「フリー」の演技みたいなものか。

 

■鐘ケ江 祐美へ■(2002.2.12.水)

 自律という言葉があって、自分を律することだと言う。しかし「律する」とはどういうことかと言うと、なかなか具体的には理解できない。自分の今の状態で、自分を律することなど不可能だからに違いない。「律」には、法律というように「おきて。さだめ」という意味がある。「おきて。さだめ」は「自分より高次のもの」が作っているのでなければ守れない。「自分の大切なもの」がその高次なものなのだと思う。時にそれを「神」とも言う。

 

■城戸 由佳へ■(2002.2.13.木)

 大学受験に熱中していると、4月からの自分の生活がどうなるのか、ふっと考えてしまいますね。今まで当たり前のように生活していたこの家族と、必ずしも今までと同じように生活できないかもしれないなど。いや、そういう人が多いわけで、人生が大きく変わる変わり目に、今の君たちがいることに、改めて気付いたりします。変化を変化として実感するには、もう少し時間が必要。

 

■古賀 萌美へ■(2002.2.14.金)

 「人の出会いは全て必然なのだと思っています」という萌美の言葉には、人間に対する愛が感じられる。人が人でいることは必然ではないと思う。哲学者が言うように、人は「人」として作られていくのだろう。もちろん「人」とかぎ括弧を付けたのは、単なる人という意味ではなく、自分がこれこそ人間の行為を行う「人」という意味。そういう「人」に出会うということは、全ての人に「人」を発見するということだから。

 

■坂本  葵へ■(2002.2.15.土)

 試練の場所にも様々なものがあって、寒々とした、がらんとした教室での受験もあれば、シャンデリアの部屋での快適な空調の中での試練もある。ただ試練の場所はどんな状況であろうと、結果は同じであって、試練の場所は「場所に過ぎない」と気付く。何が本質かという問題であろう。何故、今の自分がここにいるのかを考えていかなくては、自分が一体何者かも考えられなくなる。

 

■筒井 あづさへ■(2002.2.17.月)

 個性の時代と言うが、多分人間は自分が思っている程違っていないのだろう。欧米では、他と異なることをしなさいと教育するそうである。逆に言うならば、それほど人間は同じ反応をしたり、他人と同じような考えを持ちやすいとも言えるわけだ。同じような人生の進路を考えると、異なる受験場で同じ人に何回も出会うのは、当然ということ。それにしても、日本人が他人と同じようにするのは、あまりにも個性が強いため(?)

 

■中村 友紀へ■(2002.2.18.火)

 自分が支えられているというのを認めるのは難しい。できれば、自分の力で自分の運命を切り開いたのだと思いたいからだろうか。20世紀は実存主義の時代であった。本当に実存主義が私達に幸福をもたらしたのか、非常に疑問に思っている。例えば、運命的な出会いや、自分が気付かずにいた他人の心遣いの中で、私達の幸せが育まれているのかもしれない。そう気付くことができた時の幸せを何に交換することができようか。

 

■橋口 麻衣子へ■(2002.2.19.水)

 多分、人生は様々な苦しいこととか、辛いことがあるのだろう。楽しいことや嬉しいことばかりではないのだろう。映画や本では、そういうふうな話ばかりあるので、つい私達は自分のことを悲劇的な生き物のように断言してしまう。ところが、人生はそんなに悲劇的でも、もちろん喜劇的でもなく、小さな波間に上下する浮子のようにフラフラしているだけのようだ。フラフラしながら、出会いの中で楽しさを発見したいネ。

 

■濱本 信乃へ■(2002.2.20.木)

 今まで努力してきたことを試す日が近づいてくるにつれて、人はいろいろな姿を示す。開きなおっている様子がある。まだし残していることがあるようで、落ち着かない様子がある。その様子に様々な感想を述べる人がいる。無用なことである。その人間が真剣であるということが大切なのであって、どう見えるかはそれほど問題ではない。いや、誰にその姿を見せたいのか、どう見せたいのかが問題だという意味。

 

■広末 繁吹へ■(2002.2.21.金)

 「会うは別れの始め」などという言葉があって、やがて人と人は別れていくものだと言う。物理的なことだけを考えるならば、人間には必ず別れがあるのだろう。それを否定しない。しかし(こういう時のために「しかし」という言葉があるのだろう)、私達の出会いは決して別れのない出会いなのだと思う。いつでも心の中で会える相手に別れはない。私達は、忘れないという出会いをすることができる。

 

■本多 早紀へ■(2002.3.21.金)

 言葉は力であるので、私達は言葉を信じることができる。力は実体ではないが、感じることができるので、言葉の存在を信じることができる。早紀の言葉という力に私達の心は揺さぶられるだろう。「その言葉に共感できないと心には残りません」「きっと、自分が弱くならなかったら、これらの言葉たちに気付かなかったでしょう」。言葉には実体がないが、感じることができる。言葉は力であることを忘れてはいけない。

 

■宮地 千春へ■(2002.2.21.金)

 今生きている存在である自分に驚くことがあるにちがいない。自分が自分であることを疑うことは不幸であるので、それはしない方が良い。疑うとは全てを対比的に考えることである。その対比の相手を自分自身にしてしまったら、自分が二重に否定されてしまう。一人でいることとは、そういう意味では正しいことなのだと思う。一人でバスに乗って

「自分の死を考える千春」を思う。その千春の外見は全く違っていない。見える人には見えるものなのである。

 

■山口 優子へ■(2002.2.22.土)

 最後に「ヤマユウ」がこの日誌を〆てくれた。1組が如何に素晴らしいクラスであったかは、自分のことだけでなく、級友の幸運を祈る皆の言葉から伝わってくる。自分を越えたところに人間を考えることのできる人間は、一人の人間を越えることができる。そこで、自分のために「大事を取る」ということを考えてみたい。用心をすることは大事なことに違いない。将来の自分を予測して自分を温存することは、自己保存の方法であるから、「大事を取る」という行動は意味がある。そうではあるのだが、そうしてしまう自分に何か物足りなさを覚えるのは、私だけなのだろうか。有限の命しか与えられていない「私」という存在に、「大事を取る」余裕があるのかと考える。余裕のためにしかない明日なのかと自問する。明日には明日の糧がある。自分を未来に合わせるのではなく、未来が自分を創っていくのだと信じたい。私は私のためだけにあるのではないと思うのは、私ひとりだけであろうか。





42名ひとりひとりの言葉に誘発されて、私の言葉が紡ぎ出されていった。言葉は人間の生き様に干渉するものであるので、今年の私は、1組のみんなに支配されてしまうことになった。

愛されるとはどういうことかを知っている者だけが、他人を愛することができる。

いつまでもいつまでも、君たちが私の中にいるように、私は君たちの中にいる。

君たちに会えてよかった。今たしかにそう感じる。これは誰のものでもない、私のものである。

(たなかこういち)


不安が胸の中を覆っている
信じたこともない神や仏に
縋りつきたくなるような不安が
これまでに経験したことのない本当の不安が

結果が全てならば
人は死んでいくという運命があるに過ぎない
それでも生き続ける私達がいる
勇気ある私達がいる

勇気がいつも自分の中にあるのならば
自分に何が出来るのか
自分は何をなすべきなのかを
はっきりさせておくだけでよい

一日が一日の結果として
新しい年の新しい運命を創っていく
輝かしい運命が輝かしい一日を創造する
今、春のつぼみが膨らみはじめている

2003年元旦
3年1組(担任)田中光一


「青志」原稿
   三年一組 担任 田中光一

「遠いもの」が好きである。希望や理想や真理や絶対や、そんな「遠いもの」が好きである。
私にも露悪趣味の時代が確かにあった、ちょうど君たちのような思春期に。ちょっとの努力ですぐ手に入るものや、目に見えるものだけが本物であると考えるような、そんな時代が。しかし、そんな時代を経ても、やはり自分の存在の彼方に残っていくものがあるのだろうと感じるようになってきた。それが、どうも「遠いもの」のようだ。今が嫌いなわけじゃない、いや今を認めようとしている自分はきっと好きな奴なのだろう。しかし、今は近すぎる。
卒業おめでとう。君たちの卒業という今になって、いい仲間に出会えたという感謝でいっぱいだ。
遠い過去からやって来て、遠い未来に向かって歩いていく君たちに、「遠いもの」を求めて欲しいと期待する。それだけが私たちの生きている証なのだから。

平成十四年十一月一日記

永遠に向かって
歩き続ける君たちへ

どんな困難に出会っても、どんな悲しい現実に陥っても、自分らしさを失わない人は、真の勇者である。自分らしさは、自分で作っていくしかないので、自分が属している集団は非常に大切である。偶然が、私たちの長崎北高校37回生3年1組を集めてくれた。かけがいのない、私たちの集団である。自分が属しているこの集団が、こんなにすばらしい集団であることを誇りに思わないかい。
(担任:田中光一)


『私たちは 夏を征服する』

〜平成14年度 校外合宿 37回生3年1組総合反省から〜

平成14年7月26日(金)〜8月2日(金)に、長崎北高恒例の7泊8日雲仙学習合宿が実施された。以下は、長かった合宿最終日、終了間際の総合反省から抜粋したものである。大きく成長した姿に、自分自身が驚いている様子がよく分かる。今後の糧になればと思い、ここに集約した。    (担任 田中光一)

1.        総合的にみると、この合宿はよく集中できたと思う。帰ってからも、この生活を続けていきたい。

2.        こんなに勉強づけになったのは、生まれて初めてかもしれない。長い時間に集中し続けることに少しは慣れることができた。

3.        この合宿では、特に英語をがんばったと思う。私は今までの2年間と違う自分になろうと決意し、がんばってきた。

4.        すごく集中できた。英語の楽しさや、先生方へ質問に行く大切さを学べた。

5.        質問をすることはとてもいいことだ。思った以上に理解することができた。

6.        克服のために、質問をしまくった。結果、なんか見えてきた。教科書をじっくり読めば、結構わかることに気づいた。

7.        今回の合宿で、質問に行ったおかげで、考えが変わった。先生方は本当に親身になって教えてくれたし、なんだかうれしかった。

8.        最終目的のための途中経過であり、あくまで今後のために合宿がある。このことを忘れてはいけないだろう。

9.        勉強に集中している友達の姿を見ているうちに刺激され、集中していくようになった。

10.    どんなに勉強に適した環境が整っていても、やるかやらないかは自分次第ということ。

11.    途中で眠りそうになった場面もあったが、そのときは自分に鞭打って、無理やり勉強した。かなり疲れた。しかし頑張った。

12.    自分の思っていた以上の勉強ができた。今まで流していたり、避けていたことも勉強することができたし、何より8日間も集中して勉強できたことが我ながらすばらしく思う。

13.    今まではただ漠然としか苦手な所は分かっていなかった。しかし、この雲仙合宿で、それがはっきりとなった。

14.    この78日の雲仙合宿はとても長かったけれど、多くの良いものを見つけることができる合宿だった。@時間を大切に使うこと。A緊張感を持って生活すること。B質問は自分から積極的に行くこと。

15.    だんだん本当に勉強していると思えてきました。分からないところが、質問することで解けるようになったので、とてもうれしかったです。

16.    隣の友が机に必死に向かっている姿を見て、はげみになった。いい意味で焦ることができた。

17.    質問に行った時とかも、もうクタクタになりながらも、熱心に分かりやすく説明してくれたので、弱点が少し減った気がして、合宿に来て良かったなあと思った。そのまま、家に帰っても、この集中力が続けられるようにがんばりたい。この夏を自分のものにしたいと思った。

18.    自分が理解できていなかったことを克服できたからよかったかなと思いました。雲仙でしたように、分からないところがあったら、質問に行く!!!!

19.    ここで養った集中力を大事に、家でも自分なりに勉強の仕方を考えて、頑張りたいと思う!! 今回の合宿で思ったことは、少しくらいきつかったりしても「やろう!!」という気持ちがあれば、絶対やれるんだということです!!

20.    今回私が1番自分に自信を持てたことは、勉強中に1回も寝なかったことです。次のステップに移れる手がかりができました。

21.    私は今まで「自分にとって1番大切なものは友達」だと思っていたが、そのことを心から本当に感じることができた、いい機会だと思う。

22.    勉強するのって大変だなとしみじみ感じさせられました。時間をもっと大切に、また有効に使うべきだということを、この合宿で学べた気がします。

23.    今までそのままにしてきたところが、質問に行って分かるようになるとうれしいし、次もやろうという気になった。合宿でこれだけ頑張れたのだから、家でも勉強できるはずだと思った。

24.    勉強から逃げて家に帰りたいと思いました。しかし、やはり心のどこかではやるしかないと分かっていた。確実に勉強する姿勢をつけることはできたと思います。

25.    3つのことを学びました。積極的に先生に質問にいくこと、友達と励まし合うこと、集中することです。2時間の間ずっと自分でも集中しているなと感じることがありました。

26.    8月1日は本気で頑張った。質問も4回もして、すごく成長したなあと自分で自分をほめてみた。

27.    この「7泊8日」の合宿で学んだことがいくつかありました。@自分が思っている以上に自分の力はある!! A要領のよい勉強報を!! B何もしなくても時間は過ぎる!!

28.    1番勉強面で良かったと思ったことは、アリソンに質問に行ったことだ。すごく緊張した。しかし実際に行ってみると、アリソンに質問に行ってすごく良かったと思った。きつい時やつらい時は「自分だけじゃない、みんなもそうなんだ」と思って頑張ることができた。私はこの合宿で、勉強に取り組もうとすることに、自信が出てきた。

29.    今まで気づかないふりをしていた自分の弱さに面と向かって向き合い、これからどうしていくか考え、そしてこの合宿で、乗り越えてみせるという自信をつけたように思う。

30.    慣れないうちは本当にきつかったです。でも3日目あたりから、このままでは雲仙まで来た意味がないと思ったので、自分が意識して集中すように心がけました。夏休み、どのくらい頑張らなければいけないかがわかりました。夏休み頑張ります!!

31.    雲仙に来てすぐ分かったことは、自分の計画の立て方がいかに甘かったかということでした。合宿を終えて「やる気になれば、1日にこの位は勉強できるんだ!!」と少し自信がつきました。

32.    分からない所が多いため、教科書を見て、理解してから解くのに時間がかかり、なかなかうまく進みませんでした。でも、それを一つずつ理解していくことで今よりもっとつくようになると信じて、今は分からない所をちゃんと1つでもなくすように頑張らないと、と思いました。

33.    自分の弱点をきちんと克服できたかというと、すべてできたとは全然言えない、けれど、今まで知らなかったことや忘れていたことなどが分かって、その部分はきちんと理解できたと思います。

34.    自分が思っていたよりも集中すると沢山のことができて、意外と早く進めることができました。友達とともに乗り切れたように思います。家にいると、沢山のものがあって、気になって勉強できないけど、ここでの1週間の生活と友達の顔を思い出しながら、残りの受験生活の力にしたいです。

35.    分からない所を一人でうじうじ考えるよりも、積極的に質問へ行った方が理解が深まるし、より効率のよい勉強ができると思った。

36.    先生のところに質問しに行ったりした。その中でもアリソン先生のところに添削してもらいに行ったことがためになった。長崎に帰って普通の生活に戻っても、このペースをなるべく崩さずに残りの夏休みを過ごしていきたい。

37.    理解できていない部分の発見がかなりあったので、それを理解することに努めた結果、よい結果になったと思う。意外にも時間がかかるのは長文でなく、語法の問題だということに気づき、驚いた。

38.    今まであまり質問をしない方でした。だからこの合宿では、どんどん質問をしようと、密かに目標を立てていました。今度は学校でもこの合宿以上に質問に行こうと、今から思っています。この夏を完全制覇したいです。


国語科の田中光一です。縁があって、一緒の学級で1年間をともに生活することになりました。どうぞよろしく。

人生の中で1度しかない高校3年生を、大事に大事に扱って欲しい希望します。自分の人生だけを大事にするのではなく、仲間の人生も大事にできる人間になって欲しいと期待します。

どうせやるなら、『本気』の高校3年生をやってみようじゃないですか。(田中)


作品集 選評
37回生 2年 3学期

『文脈の理』
二年国語科 田中光一

 名作に感動する。
 言葉は感情を支配する道具であるので、私たち人間の感情が大きな変化をもたらさない限り、私たちの古典はつねに私たちの感情を支配することになる。そう考えると、古典に感動するのは当然のことであることが分かる。
『こころ』を読んだ以上は、『こころ』の感想文を書くことになってしまう。夏目漱石が文豪であるということと、『こころ』が名作であるということは一致する。作者の精神が流れていく人生の中に作品があるからである。作品は作者の精神の証なのである。
 さて、『こころ』の主題を以下のように考えてみたときの感想はどうだ、というのが今回の現代文の感想文テーマ。
「人間は他者との関係によって生きる存在である。我々が何かをするのは他者との関係によってであり、『心』はその後を追いかけるしかない。『私』の告白を通して、そのような人間の存在の不思議が描かれている。」
 作家は実験する。「私」を三角関係の中に置いたらどうだろうか。友人の一人を「求道者」にしてみようか。純粋無垢で、世慣れない人物が恋に悩むことにしてみよう。その相手が「私」の思っている女性と同じだとする。さあ、これで「関係」はできたわけだ。この「関係」はどのような展開になるのか。実験室の中で話は進んでいく。作家は冷徹に登場人物の動きを記述していく。「K」の自殺まで、いやそれから後も。
 1組の小隈友貴が書く。
「二人とも悪くない、しかし譲ることのできない気持ちがぶつかりあって、最後には互いに残酷な終わりかたになってしまった。それが不可避なものだから、しようがない、などと諦めきれるはずがない。<中略>答えなんて出ないとわかっているのに、それでも自分自身に問いかけ続け、自分のしたことを思い出しては悔やみ嘆く。そしてそれは、その人が死ぬまで続くのだ。それが人間というものなのだと言うなら、人間とは儚く悲しい存在だと思う。」
 手元にある小冊子に、ある高校生の言葉が紹介されている。
 「先生、中学までは国語の授業は道徳の授業みたいなものだと思っていました。『きみの言っていることはこの文脈からは絶対に出てこない』なんて理詰めで指摘を受けたのは今日が初めてです。」
 言葉は倫理を支配する道具であるので、私たち人間の倫理が変化しない限り、私たちの古典はつねに私たちの倫理観を支配することになる。
 『源氏物語』もまたしかり。もちろん、『源氏物語』の倫理観が、現代の私たちの倫理観と一致するとかしないとかという話ではない。そもそも文学は道徳の教科書ではない。『源氏物語』の倫理観が私たちを納得させてしまうという、人間の悲劇の話なのである。私たちの喜びが私たちの倫理観によって成立するように、悲劇も私たちの倫理観によって成立するという話である。倫理の中に、正確に言うならば、文脈の中に悲劇はあるということである。
 玉の男皇子として生まれた「光源氏」に悲劇性を感じる現代人は、『源氏物語』の文脈の中に自分自身を見出すであろう。文学はそのようにして、私たちの倫理観を支配してきた。
 そういう意味では、国語は道徳かもしれない。逆説はここにもある。
(2002/3/7)

37回生 2年 2学期

『言葉は死なない』

二年国語科 田中光一

 ラテン語は普遍の言葉である。現在、ラテン語を使って生活している人はいない。ただ、西洋の知識人(あるいはキリスト教会の教義を極める人)のために、教養として存在しているだけであろう。生活のために使わない言葉は変化しない。変化しない言葉はもはや言葉としての役目を終わったように思える。変化こそが生きている言葉の持つ存在理由だからである。
 ところが、ことはそんなに簡単ではない。もはや死んでしまった人の言葉に私たちは感動し、笑い、涙する。
天才司馬遷が亡くなって二千年以上の時間が経過した。その間多くの言葉によって『史記』は注釈を加えられ、尊敬され貶(おとし)められてきた。多くの人の手によって、変化するはずもない文字が、「項王」を「劉邦」を「張良」を、そして「虞美人」を伝えてきた。もはや死んでしまった言葉によって、「項王」の「縦彼不言、籍独不愧於心乎」という言葉が、なぜ私たちの心に残るのか。私たちには教養としての「漢文」の中でしか使わない言葉が。
 『言葉は死なない。』
 私たちが記憶している限り、あるいは私たちの心に残っている限り、言葉が死ぬことはない。記憶は文化を形成している。人間が言葉に属しているのであって、言葉が人間に属しているのでない。おそらく、私たちにできる最上の理解は、古典の文脈解釈なのだろうか。古典とは心に残ってきたものを言う。

 竹西寛子著『蘭』。名品である。素晴らしい素材は、いつも豊かな作品を予想させる。もちろん作品とは、諸君の感想文のことである。『蘭』に感動した諸君から多くの豊かな感想文が寄せられた。『蘭』に出会えた幸運に感謝しよう。
 しかし(あえて「しかし」と続けるのだが)この作品で、親子の気遣いだけを感じるのではもったいない。では戦争の悲惨さか。人心までも怠惰にしていく、戦争の悲しい本質を垣間見せているのか。それもあるだろう。他にはどうだ。
 2組の村田友貴くんがこんな文章を書いてくれた。
「父親にとって蘭は、心の支えだった。亡くなった祖父の形見であり、父を癒してくれるものであった。でも父親は自身の心よりも息子の方を優先した。息子もまた、彼の心の支えであったから。心の半分を犠牲にして、もう半分を救おうとした。」
 愛は犠牲である。最も大切なものだけが、最も大切なものと交換できる。交換はいつも等価である。
 真理はいつも目の前にある。言葉がいつも目の前にあるように。
(2001-12-23)

37回生 2年 1学期

「普遍の方向へ」

二年国語科 田中光一

 よい文章には、よい表現がある。その表現を書くために、八百字という文字数が必要だったのである。その素晴らしい表現を支えるために八百字が存在する。
 今回選出した作品を例にあげる。
 三組、宇都宮佳苗。「粟田殿さえも、いつ誰から裏切られるか分からない。平安時代の貴族はそのような環境の中で生きてきた。」
 三組、長澤泰奈。「李徴は虎になったことによって、より人間に近づいたのではないかと思う。」
 三組、本村枝理子。「機械のよさだけ、手作りのよさだけしか残すことができないということは、文化を壊すことになる。」
 三組、森谷知栄子。「虎になり初めて気づいたこともあると思います。例えば、家族の大切さです。詩家をめざすあまり妻子のことを一番に考えてあげれていなかった。しかし虎となった今、詩業より妻子の方が大切だと気づいた。」
 四組、板倉加奈。「もし逆に作者が藤原家を賛美していたらどうなっていたのだろうか。そうすると粟田殿は注意深く、優れた策士だと書かれたに違いない。そして私は花山天皇を簡単に騙されてしまってまぬけな人だと思っただろう。」
 四組、今村麻美。「もしかしたら、弱い人間などいないのかもしれない。」
 四組、加地祐子。「芸術家の才能とは世界をつないでいる心の架け橋だと思います。」
 四組、小森裕子。「どちらも、周囲の泥水の泥をかき出し澄んだ水に、周囲が酔っていれば彼らに清らかな水を飲ませて酔いを醒ませてやれば良いとは言わなかった。」
 九組、相川真一。「またこの事を彼は気づいたのだが、あまりにも時すでに遅く、皮肉のように聞こえてしかたがないように思われる。」
 九組、岩辻幸史郎。「西アフリカでは機械化に求めるものがあり、日本では手作りに求めるものがある。」
 九組、岸川礼子。「心の内を見つめ直せた彼は、以前よりは穏やかな気持ちで本当に虎になる日を迎えられたんじゃないだろうか。」
 多くの人々の目に晒(さら)されてきた作品は、もはや作者から離れて普遍的な存在になってしまっている。「普遍」とは、人類に、そして読者である私自身に関係しているということである。感想文を書く「私自身」に関することを、他人である読者にどう伝えていくのか。個性豊かな自分の言葉を、他人の「自分ごと」として共有するには、どのような技術が必要なのか。
 難しい問題である。
 しかし結論はいつも単純であって、重要なのは言葉を紡(つむ)ぐ「意図」かもしれない。人類全般にわたる「関心」かもしれない。自分の言葉を普遍の方向に向かって投げ出した者の表現だけが読者の心を打つ。
(2001-08-02)

37回生 1年 3学期

「しかし」は逆接か
〜(『城の崎にて』〜

1年国語科 田中光一

 第3学期は、現代文では上野千鶴子『ステージとしての百貨店』、志賀直哉『城の崎にて』、古文では『木曾の最期』、漢文で『唐詩の世界』を学習した。作品集への応募作品には学習したのが近かったこともあってか、『城の崎にて』を取り上げたものが多かった。その中で、1組の城谷君が鋭い分析をしているので紹介する。
 「(略)最後に、『脊椎カリエスになるだけは助かった』とある。なるだけ?だけとはなんだ。だけっていうのはそれのみってことだ。つまり助かったすなわちまぬがれたのはそれだけで、他のことからはまぬがれることができなかったということだ。」
 いい分析。「だけ」に注目するだけで、小説はより深い意味を照らし出す。では「脊椎カリエス」からはみだした「自分」にとって助からなかったものは何か。――疑問の深まりが読解の深まりであることは当然なことである。――3年以上も前の体験が、今なお「自分」に大きな影を落としている。その「城の崎」での体験は一体何を「自分」にもたらしたのか。「三週間で」城の崎を離れたことを、現在の「自分」はどう考えているのか。
 折角だから『城の崎にて』で多用される「しかし」についても、次のような分析があるので紹介しておく。
 「(『城の崎にて』では)接続詞としての「しかし」は10か所にみえる。しかし、それは、心理的屈折を表現したものであって、読み手を説得するものではない。」(文体論者・桑原俊成)。
「しかし」は逆接を表す接続詞のような形をしているが、実はそれだけのために使われる言葉ではないというわけだ。
 複雑な人間の心理を表現するにも、単純な言葉を使用するしかない。その単純さゆえに、私たち読者は追体験の難しさを改めて感じるわけだが、そこが面白いと言えば面白いわけでもある。「文学」のあいまいさを面白いと感じるかどうかは、生きることに直接関係することでもあるので、ここではやめる。しかし、分かりやすい文章だけが私たちの人生を豊かにするわけではないことは覚えておいてもよい。
(February 10, 2002)

37回生 1年 2学期

「備三往乃得見亮、問策。」
〜(『水魚之交』十八史略〜

1年国語科 田中光一

 第2学期は、本川達雄『動物のサイズと時間』、阿部昭『いのち』、紀貫之『土佐日記』、黒井千次『子供のいる駅』、市川浩『身知らぬ顔』、『伊勢物語』、『臥薪嘗胆』、『水魚之交』を学習しました。それぞれに思いを新たにする作品だったのではないでしょうか。特に、漢文は白文での読みを実施しましたので、諸君の一生の宝物になると確信しています。
 また、今回は単なる感想文でなく小論文っぽい(?)課題で作品を書いてもらいました。なかなか難しいと感じた人も多かったようです。なぜ難しいと感じるのか。
 まず第1に、自分が他人の意見に賛成なのか、反対なのかを明言することが難しいのではないでしょうか。自分が賛成・反対を明言すると、責任が生じてきます。なぜ賛成なのか、また反対なのかを説明しなければならない。これは実はたいへんに煩(わずら)わしいことですね。しかし、この煩わしさを体験してほしいと思います。人に説明することの困難さを体験できなければ、受験の小論文はもちろんですが、人間としての社会生活が出来なくなってしまうからです。多種多様な人間が共に生活するには、能動的な働きかけが必要ということです。
 難しさの2番目は、自分以外の人間のことがよく理解できていないということがあるかもしれません。最初から私(自分)のことが、他人に分かるはずがないと考えてしまったら、私たちのコミュニケーションは成立できない。裏を返せば、他人のことを理解しようと努力しなければ、私たちは自分のことを他人に理解してもらえないということです。蜀の劉備は諸葛孔明との親交を求めるために、幾度となく孔明を訪問します。「理解」以前にこれほどの努力を行う。そうでなければ「理解」にも届かないということでしょう。
 私たち人間は、自分が「孤独な存在」であることを自分で理解することができる生き物だと思います。しかし、だからこそ相手を「理解」することを止めたとき、絶望的な孤独の闇に突き落とされてしまうのだと思います。他人をそして自分を「理解」する努力が私たちの生きる糧なのです。「理解」するにはたいへんな努力が必要です。思いつきの単なる感想ではなく、自分の意見を相手に伝えるための文章を書いてみると、自分のことがよく分かると思います。
(December 15, 2000)

37回生 1年 1学期

自分一人だけのものを持つことが
いかにぜいたくで、いかに難しいか
〜(『モア』筒井康隆)〜

1年国語科 田中光一

 37回生は最初の作品集を「長崎北高に入学して」というテーマで発行したので、今回の作品集は第2集になる。
 平成12年度の第1学期は、教科書から『奇を好む心』『水の東西』『ひばしら』『モア』『羅生門』『言葉の力』『児のそら寝』『かぐや姫のおいたち』『兵だつ者、わが影を見て恐れをなす語(今昔物語)』『猟師、仏を射る事(宇治拾遺物語)』を読んできた。それぞれの作品がとても個性的であったためか、感想文にも優れたものが多くあった。
 特に芥川龍之介の『羅生門』には、とても強い衝撃を受けたのがよく分かる感想文が多く集まった。しかもその多くが、話の不気味さという表面的な描写に対する感想でなく、言葉は熟さないかもしれないが、下人の人間開眼(!)に対する感想であったことに、私はひどく感心した。小説はまさにそう読むべきである。
 人の生き様に何を感じるか。人間はどのような「生」を生きているのか。小説家たちが言葉という媒体を駆使して、人間の心を表現したものが小説であるならば、私たち読者はそれを真摯に受け止めるのが礼儀というものだろう。神たる作家(筆者)は私たちを異次元に連れ出してくれる。読者である私たちは、漂うように身をゆだねてみよう。
 ただし、気になることがあった。話の枝葉に執着する人がかなりいたということだ。
 例えば『水の東西』。諸君が感想文中、「鹿おどし」のことについて言葉を尽くしても、それが何だというのか。山崎正和が「鹿おどし」の専門家で、「『鹿おどし』の構造と工夫」などという文章を書いているならば、それも一興だろうが。君たちが、「鹿おどしについてよく理解できた」というような文章を書いても、感想文にはなるまい。
 たった一度の出会いの中で、自分の存在を賭けて文章を読んでいく。読書は能動的な作業である。体力がなければ文章は読めない。「いかにぜいたくで、いかに難しいか」、それは君たちがよく知っている。
(2000-07-23)

37回生に

新しい人生の幕開けに身の引き締まる思いがしますか。

楽しい人生は、楽しくしようとする意志が作るものです。

「希望」と「期待」の間に、君たちの人生は広がっています。

自分の人生を一生懸命作っていって欲しいと、期待します。

2000年4月10日 1年7組担任 田中光一


★★★★★★★★★★★★★★★★

はじめに

入学おめでとう。

長崎北高は,難関を突破してきた君たちを心から歓迎します。

明るく,すがすがしい笑顔に輝く君たちを

前進しようとする心意気にあふれた君たちを

長崎北高は待っていたのです。

今,君たちは

長崎北高で過ごす3年間にどんな思いをはせているでしょうか。

学習への不安でしょうか。

部活動への期待でしょうか。

それとも,新しい友達との出会いのときめきでしょうか。

さまざまな気持ちが交錯していることでしょう。

高校3年間で,君たちはどのように変わっていこうと考えているのでしょうか。

つらいことや悩みから逃げるのではなく

正面から取り組んでほしいと思います。

自分自身をじっと見つめ,思いを深めていくことだけが

自分を成長させるのです。

自分を成長させるのは,自分自身しかいないのです。

ここまで育ててくださった両親や

小学校,中学校の恩師の教えのうえに

さらに豊かな経験と知恵を重ねて

君たちが自己変革してくれることを期待します。

君たちの二度とこない青春時代が

長崎北高をステージにして,今始まります。

いろいろな厳しさに直面したとき

君たちは思わぬ自分を発見するでしょう。

ともに悩み,ともに生きる友達を見出すでしょう。

こうして出会えた自分をいとおしみ

こうして出会えた友達を一生の友達にできたら

それは,なんとすばらしいことでしょう。

長崎北高は,君たちとともに成長します。

長崎北高の一員となる今日からは

長崎北高を成長させるのは,君たち自身なのです。

君たちの成長が,長崎北高の成長なのです。

長崎北高の校訓「六綱三領」は

君たちへの期待をあらわしています。

校是「両道顕揚」は

「文武」両道において,そのめざすものは一つであると

たゆまぬ日々の努力による成果を期待しています。

先輩たちがそうであったように

まさに正道を歩む青春であってほしいと思います。

かけがえのない君たちひとりひとりが

高校生活の充実をはかりつつ

誠実で,たくましい青年に成長してゆくことを願っています。

★★★★★★★★★★★★★★★★

上記の文章は、君たち37回生の「入学のしおり」の一番初めに載せている文章です。実は、君たちの先輩である31回生のために書いた文章です。読み返すと、この文章を書いたときのことをありありと思い出します。

ここに書かれている気持ちは、現在でもまったく同じです。

特に強調したかったのは、

「君たちの成長が、長崎北高の成長なのです。」

という所です。君たちはひとりでない。君たちには長崎北高生という仲間がいるのだ。ということも含んだつもりだったのです。

成長を期待しています。(担任)


『青志』原稿

タイトル

 「担任の先生の言葉」

執筆者(一)年(七)組担任(田中光一)

「時間」という概念は誰の発明なのだろうか。人は「時間」に束縛されることによって、初めて自分の存在が明確になる。もちろんそれは幻想に過ぎないのかもしれないが、少なくとも「時間」が私たちを形成しているということは、粛然とした事実であろう。

長崎北高に入学しての一年間で、七組のみんなが形成した「時間」とは一体どのようなものだったのだろうか。たとえそれがどのようなものであっても、過ぎていった自分の幻影に惑わされることなく、次の一瞬に踏み出す勇気を持って欲しいと思う。私たちが考える人生は、たぶんその一瞬間を踏み出す勇気の連続体なのだろうと確信しているから。昨日の自分を判定するのも、明日の自分を評価するのも「現在の自分」である。「現在の自分」を否定することなく、「勇気」を持って健やかに成長することを切に期待している。


予感がする

きっと素晴らしい21世紀であると

そんな瞬間を待っている

人生が自分の思いどおりになったら

そんな期待がある

人から始まって人に伝えられた

幸福の法則が

私たちを幸福にするのだから

私たちは幸福になる義務がある

今日が未来に続く掛け橋ならば

燦然と輝く今日は

きっと君たちのものであろう

何も恐れることはない

運命の扉を叩くのは

その手なのだから

2001年元旦
1年7組(担任)田中光一