(見失った……っ!)
見慣れた光景、いつもの町。
少年が育った町は、ただ一人の人間を捜し出すにはあまりにも広すぎた。
騎士王国サシェル。
北西大陸にその支配を持つ国家は、建国当初より騎士として生きることを最も良き生き方として歩む、武門の国家でもある。
世界に覇権を唱えることも可能な戦闘力を持ちながらも、常に「世界の剣」たることを目指し、魔性のものたちの脅威に怯える無辜の民を守ることを使命として生きる……それこそがサシェルの民の誇り。
世界の影に潜む《魔物》……そして、それらを支配する《魔族》の存在を知る弱き人間は、自然とサシェルの庇護を求めて集まる。
己の腕に自信があるものは、より強くあらんとしてサシェルの心を求める。
穏やかな気候と凛然とした国柄に牽かれてやってくる旅人も多い。
ゆえにサシェルの……特に王家直轄領は大規模な都市であり、城下町は世界有数の城塞都市でもあった。
サシェルに生きるものたちは心のどこかに建国の王が抱いた志を抱いたままで、一日一日をごく普通に過ごしている。
その日も、普通の人間にとっては普通の一日。
少年は肩を大きく落とすと、改めて回りを見やった。
年の頃は十二、三。
薄く青みのかかった緑の髪と瞳が印象深い。色彩に詳しいものであれば、ただの緑髪と呼ばず、古来より魔除けの意味が込められているという《魔除緑色》だと言い当てるだろう。
整った顔立ちは、これから伸び行くであう無限の可能性を秘めていて今にもはちきれそうなまでに輝いている。起こってしまった事態に困惑している表情は世の女性が黄色い悲鳴を上げるであろうほど愛らしい。……本人は不本意であれ、だ。
年齢は若い。青年というには遠く及ばず、少年……子どもと言っても差し支えはない。
しかしふとした瞬間に垣間見える落ち着きは、老成、達観といった年齢を越えた……神性な重厚さと雰囲気に包まれている。
ほんの一瞬のことなのに、心の許容量があっと言う間に満たされて、そして耐え切れずに壊れてしまう……触れ得ざる神の領分を侵したかの如く、恐れを抱いてしまう。
少年らしい瑞々しさとともにある、そのほんの刹那に見える神聖さに密かに好意を抱く少女も多い。
当の本人は……どんな雰囲気の少年であろうと少年は少年。
色恋沙汰にはまったく興味を示さず、まだまだ先輩騎士たちと剣の稽古をしているほうが楽しくて仕方のないお年頃。
「やがて父を越える騎士となるだろう」
と、称賛されるほどの腕前を持ち、騎士としての資質にも恵まれた少年が、たった今、一人の人間に《撒かれた》のだ……。
「まいったな……」
キョロキョロと当たりを見回しても気配はない。
彼ほどの男を撒く人間……少年を知る人間であればそんな芸当をやってのける人間が存在することに誰もが驚嘆の声を上げるだろう。
それほどに将来を有望された少年は、呼吸を整えて冷静さを呼び戻すと再び駆け出した。
足取りは獲物を狙う獣のように俊敏さとしなやかさに備え、また見えない翼が背中にあるのではないかというほど軽やかだ。
通りすがりの人々が思わず足を止め、その姿に目を奪われるほど、少年の存在は際立っている。早春の若芽のごとく、あふれ出るエネルギーが、光となって零れ落ちているようだ。立ち止まってしまった人間を……何故立ち止まっているのか、原因が自分にあるとも思わず……風のようにすり抜けていく。その些細な動きの全てが「ありのまま」の自然の流れ……だからこそヒトの心の奥にある何かに触れ、捕らえ、そして離さない。
「ラドル!」
不意に自分の名前を呼ばれて、少年……ラドルは足を止めた。キョロキョロと声の主を探すと、露店の先で手招きをしている初老の女性が目に入った。
「……あ、えと……こんにちわ、ウィゼットさん」
一心不乱にまっすぐ走る少年を呼び止めた。城住まいの彼だが、城下に買い物に出かけることもある。城下の店主たちには顔なじみも多い。
「久しぶりに城下に下りてきたのに、挨拶もなしに通り過ぎるつもりだったのかい?」
「ごめんなさい。今日は一人じゃなかったから……後で寄るつもりだったんだ。本当だよ」
必死の抗弁にウィゼットは顔をほころばせた。決して保身のためではなく、相手を精一杯思いやっている。それが伝わってくるのも彼の人柄のなせる業だ。
「分かってるよ。意地悪言って悪かったね。で、どうしたんだい。一生懸命、矢みたいに飛んで回ってるって、町の人間が言ってるよ」
快活に笑われて……自分の行動がそれほど目立っているとも思わず、ラドルはただただ恥じ入っていた。
そう。恥。これは恥だ。
騎士としてあるまじき、失態。
少年は軽く唇を噛むと、意を決したように顔を上げた。
「あの……彼を、見ませんでしたか?」
自分が取り逃がした男。
しかるべき場所に連れて行かねばならない人間を、自分は逃してしまった。
ほんの少し目を離した隙に、相手は煙のように消えてしまったのだ。
勇猛果敢たるサシェルの騎士として、ひと一人の気配が消えたことに気づかなかった……油断は、戦場において命取りとなる。
亡き父の叱咤が聞こえてきそうで、少年の表情が少しだけ翳る。
しゅんとしおれてしまった少年の不安を吹き飛ばすように、ウィゼットは朗らかに笑って手近にあった果物を一つ手渡した。
「こいつを買っていったよ。結構たくさんもたせてやったからね、そうそう速くは動けないはずさ。この近くでまだうろうろしてんじゃないのかい?」
パチンとウインク。してやったりという悪戯心に溢れた仕種に釣られて、ラドルはにっこりと笑顔を返した。
「ありがとう、ウィゼットさん。今度、また買いに来るね」
「ああ。今度はもっと落ち着いて来てくれよ」
果物を一つ手渡され、ラドルは慌ててポケットからお金を取り出そうとしたがウィゼットから止められた。
「ありがとうございます」
さっと機敏な動きで一礼すると、再び軽く微笑んで踵を返す。
その様は、まさにサシェルの騎士。無駄な動きが一分もない整った作法で応えられ、ウィゼットはどこかの貴族にでもなったような心地を味わった。
ウィゼットの助言と、「彼」の行動パターンを重ね合わせて……ラドルは店から一番近い公園へと向かった。
公園の中心にある大樹の影にその姿を認めたラドルは足を止め、辺りを確認する。
人影はあるものの、少なくとも彼と自分との間には障害となるものはない。
すうっと大きく息を吸うと、手の中にある果物に目をやる。
心の中でウィゼットに詫び、次に店を訪ねるときには、たくさん買っていくことを誓って……大きく振りかぶった!
「いてぇっ!」
「痛い、じゃないだろぉぉぉぉぉっ! こんの馬鹿王子ぃぃぃぃっ!」
「お前、仮にも主君に手を上げるって、サシェルの騎士の名が泣くぞ」
「そういう台詞は、弟を鍛錬場から無理矢理引きずり出した挙句、置き去りにしてふらふらとどこかにいかない兄貴が言うセリフだっ」
時折サシェルの城下町では、騎士王国の世継ぎとその近衛となることが約束された少年たちによる、微笑ましい狂騒劇が繰り広げられる。
その光景が続く限り、サシェルは平和なのだと人々は幸せな気持ちに満たされていくのであった。
〜あとがき〜
これは数年前悪友の一人に暑中見舞いあたりの代わりに送りつけたショートストーリーです。
思いつきで書いて、さっさとプリントアウトして郵送し、保存すらしていなかったので原文は存在しません。(向こうにはあるかも)
続きを要求する悪友たちの矛先を回避するため、思い出し思い出し書いてみました。