南有馬・原城大学

平成17年3月2日、今日は南有馬町まで走った。
いつもなら歌子と伺うところであったが、体調を崩し、
今回は中国21弦筝の第一人者である江舟さんに特別に出演を依頼した。
諌早総合公園駐車場で10時に江舟さんと待ち合わせ、
一台に乗り移って南有馬町「オアシス会館」まで、11時半には到着、
食事を取ってから原城見学、受講者は100名あまり、

島原の乱の板倉重昌の話、尺八の名手であったこと、
重昌は家康、家光の近侍衆で家忠、忠房の後の最後の深溝藩主であったこと、
兄重宗の話、父勝重の話、もともと家康と同じ清和源氏の出であること、
勝重は関が原の後、京都所司代になり20年、長男重宗が後を継ぎ40年、
親子で60年もの長い間所司代を務め、
長崎、島原の行政にかかわり、また長崎松寿軒、京都明暗寺の建立にともに関わったこと。
板倉家本家は島原藩の家老職を務めており、その意味で島原藩と幕府との関係を保持したこと。

原城を落とした松平信綱の話、信綱が島原城主忠房の祖父・家忠の後を次いで忍城城主となったこと、
忍城こそが北条小田原連歌文化の中心であり、一節切尺八のメッカであったこと、
この忍城が家康によって開城され、その武人によって青梅にのちの虚無僧の総本山「鈴法寺」が建立されたこと。
長崎松壽軒(前身は玖崎寺)は島原の乱の直後に信綱や板倉重宗の計らいで「鈴法寺の末寺」として創建されたこと。

末次平蔵の話、信綱と謀り、スペインを追放し、平戸のオランダ領事館を出島に移し、鎖国を進めたこと、
唐人屋敷の敷地は末次平蔵所有の薬園であったこと、娘を初代唐通事の陳氏に嫁がせていること。
松平忠房、牧覚右衛門共、5代前が徳川家康の先祖と兄弟であること。

島原城の一節切尺八が天下一の笛造りの名手「法橋宜竹の作」であることがわかり、
全国の愛好家が島原に集結したこと。
実は板倉重昌の子もまたのちに京都所司代に任命されたこと、などなど
話は尽きなかった。南有馬・原城で板倉重昌が死んだことが、のちの日本の歴史を大きく変えたのである。

中国古筝の第一人者・江舟さんの名演奏とあわせてみなさんには歴史の話、喜んでいただけたものと思う。

 

江舟さんと共演する私、  歴史談義に興じる私、足元には隠元禅師の洞簫や瓢箪笛が、