北条玄庵と一節切

 

北条早雲の3男、宗哲北条玄庵は歴代北条当主後見として重きをなし

小田原城の北、久野山に住して98歳の長寿を保って没した。

早雲は幼い3男の俊才をみて後事を恐れてたのか、はじめ僧にしようと

思ったらしい。

園城寺に学び、箱根権現の別当を務めたが、早雲の没後一族の切なる

要請ににより環俗したという。

文武両道に通じ、文人としては、連歌、茶の湯、一節切の名手であった。

各種工芸にも妙を得、玄庵作の鞍、弓矢は世に珍重された。

特に一節切は「玄庵切」と称して天下に知られ、宮中よりもご所望が

あったという。

玄庵はまた一節切の名手、連歌師の宗長にも学び、宗牧とも親交があった

ようである。

 

早雲と一休

ここで玄庵の父、早雲についてもう少し検証しよう。

北条早雲は伊勢新九郎長氏、氏茂、また盛時とも名乗り、入道して

早雲庵宗瑞と号した。父は伊勢氏の一族で伊勢備中守盛貞といい、

備中国荏原荘(現岡山県井原市)の地頭であった。

36歳のとき、応仁の乱がおきる。翌応仁2年、妹が上洛していた

今川義忠に見初められて、駿河に輿入れすることになり、随行して

駿河に下る。

45歳のとき、妹婿の今川義忠が横死する。妹北川殿と義忠との間に

生まれた龍王丸はまだ6歳、新九郎は自分が政務を代行することで

その場を収め、器量を認められた。

その後文明11年(1479)京都に残り、建仁寺と大徳寺で禅修業を

している。一休が文明13年88歳で亡くなっているので、ひょっと

したら、新九郎と一休は最晩年に会っているかもしれない。

文明9年(1477)に宇治の朗庵が尺八と釣具をもって、京都から

鎌倉の建長寺まで旅をしたとの記述あり興味深い。

北条玄庵も若いころ一休の弟子、連歌師紫屋軒宗長や、宗牧と交流している。

 

宗長のこと

柴屋軒宗長は文安5年(1448)駿河島田で生まれ、飯尾宗祇に師事して

連歌を学び,上京して一休に参禅、連歌界の重鎮として各地を遍歴し、晩年は

駿河の宇津山麓の丸子に住んだ。その庵を柴屋軒(さいおくけん)といい、

ここには幕末まで頓阿の一節切尺八が伝えられていた。後に柴屋寺となる。

その高弟が宗牧である。

 

早雲と興国寺

龍王丸は17歳のとき、元服し、今川氏親となり家督を継ぐ。

その功により、新九郎は愛鷹山麓の興国寺城(現沼津市根古屋)に入る。

早雲には正室小笠原氏の間に2人の子があり、玄庵の母は後室

葛山備中守の娘である。

ほかにもう一人南陽院という後室がいた。南陽院は伊豆韮山の

北条某の娘で、名門北条氏の再興を託されて縁組したと伝えられる。

早雲は明応4年(1495)小田原の大森氏を攻め滅ぼした後、小田原には

長男の氏綱を入れ、自らは韮山に住み、韮山で没している。

 

紀州興国寺は玄庵の母の実家、葛山氏の祖、葛山五郎景倫によって

創建された寺である。実朝の忠臣であった景倫は実朝の命を受けて

宋に渡るため博多に行き、まさに船出せんとするときに実朝の悲報に接し

高野山に入り、出家して願性と名乗り、実朝の菩提を弔う。

実朝の母である北条政子は景倫の忠心を賞して、紀州由良の地頭職を与える。

政子の死後、景倫は由良に西方寺を建立、心地覚心を迎えた。

覚心は信濃の人で高野山で景倫と知り合い、景倫の援助で中国に留学したのである。

建長元年(1249)覚心が渡宋するに際して、願性は実朝の遺骨を中国の雁蕩山に

埋骨するように託した。渡宋を夢見ていた実朝の願いを成就させたのである。

そして興国元年(1340)後村上天皇によって興国寺の寺号を戴いている。

 

紀州の興国寺も駿河の興国寺も共に葛山氏によって建てられている。

もう一つ葛山氏の支配する地は阿野の庄と呼ばれていた。

阿野といえば「虚鐸伝記」を伝えていたいたという阿野中納言公縄である。

後醍醐天皇の妃で後村上天皇の母は阿野廉子である。

この奇妙な偶然はどのように解釈すればいいのだろうか。

 

玄庵の一節切

玄庵の作で小田原城に展示してある一節切は全く現代の尺八と同じ太さである。

このことから玄庵は一節切から現代尺八への革新をもたらした人であると

考えられる。

すなわち一節切は竹の根の方を歌口に作るのに対して、玄庵切は根の方を下にした。

上下を逆にすることで歌口より管尻のほうが内径が狭くなり、よく鳴ったのであろう。

 

虚無僧の出現

天正18年(1590)3月、小田原城は豊臣秀吉により攻め落とされ

関八州に覇をとなえた北条家は滅亡した。

城主北条氏直は高野山に落ちて行くが、氏直は徳川家康の女婿でもあり、

家康自らが城の大手門にたち一行を並々ならぬ同情をもって見送ったという。

無血開城であったので支城も含めて膨大な家臣団が放たれた。

北条家だけでなく北条と共に西軍と戦った関東諸豪族も滅亡した。

新たな大名に召し抱えられるものあり、新地を開墾して帰農するものあり、

虚無僧の群れに投ずる者もあった。当時の時宗念仏聖集団とは似て非なる

虚無僧と称する武浪の集団が出現してきた。

 

また高野山に落ちた氏直は翌年30歳で没し、随行した武士たちは

秀吉によって焼き討ちにあっていた由良の興国寺に入り、境内に庵を結んだ。

 

小田原武士のほとんどが一節切を吹いたと相模原風土記は伝えているが

一節切が太平とともにだんだんと忘れ去られていくなかで、北条遺臣に

とっては尺八こそが昔を偲ぶよすがとなっていたのであろう。

そしてそのよりところを一休の狂雲集に求めた。

後に山本守秀という人が阿野中納言公縄に頼み、興国寺の法燈国師を

日本開祖とする「虚鐸伝記」を世に出すことになる。

玄庵の配下に浦賀水軍を率いる山本信濃守家次がおり、その子孫だろうか?

                  (「一音成仏」より、抜粋)