松林源蔵
我が先祖が深堀の松林家であり、その昔、高島で石炭を掘っているとき、水が出て
苦境に陥った話は祖々父の松林米八がよく話していたという。
「あのとき水が出ていなければ、」が米八の口癖だったようだ。
そんなことで私はよく高島に出かけた。
その高島も閉山を迎え、最後の茂木所長のとき、たまらなくなり、何か糸口を探りたい、
と嘆願したら「昔、松林さんの名前を聞きましたよ」とはじめて松林源蔵の話を聞いた。
「ああ、神の思し召しか、と神様に手をあわせた。」
色々と資料も出てきた。何か糸口がないか、繋がらないか、と県立図書館に行ったり、
佐賀の松林さんに電話をかけてみたり、深堀の墓地を一日中回ったり、菩提寺や円城寺に
過去帳を見せてもらいに伺ったり、丸でとり憑かれたように、先祖探求の聞きこみを続けた。
結論は「わからない」の一言である。
何かある、はずなのに、わからないのである。
しかし松林源蔵を研究するうちに、4代源蔵でなくても松林一族は鍋島藩の重鎮であり、
数代前から採炭の為に、高島に来島していたことは、はっきりしてきた。
先祖かどうかは確定できないが、松林一族が我が家系と繋がっていることははっきりしてきた。
1−1 松林源蔵略伝
4代松林源蔵は鍋島藩の士族であり、文政9年8月(1826)佐賀県白山に生まれた。
父は大兵衛、母は糸山家の出である。
幼名を林太郎、のちに猪次郎と改名、15歳で源蔵を名乗った。
のちに高島炭坑開発の功により、藩主より公留(COAL=石炭)という称号を賜った。
漢学を草葉先生に学び、四書を研究、論語は生涯、手放すことはなかった。
武芸は直心影流を学び、藩中では並ぶものがなかった。
天保12年、父大兵衛が没し、翌13年佐賀代官所に手許役見習として勤めた。
嘉永2年8月、新たに郡方という役所ができ、郡方手許役となった。
嘉永5年9月に27歳で郡目付け役に昇格、安政4年に「長崎屋敷詰め」を命じられている。
文久2年37歳のとき「深堀詰め」を命じられ、出張
42歳、当時物産局機械御取入方勤務中、藩主より高島開発の話があり、長崎出張を
命じられ、万才町の鍋島藩邸に詰めた。
慶応4年、43歳のとき、トーマス・グラバーとの共同開発条約を締結、
源蔵は長崎大村町の後藤主馬(象二郎)の家に事務所を設け、来客を接待し、
その子、松林公次郎を高島にやり、事務を取らせていた。
万才町の藩邸から現在大波止に係留されているツーリスト号(観光丸)で高島と往来していた。
明治5年3月、47歳で辞職し、佐賀に帰った。
明治4年頃より病気にかかり、明治8年1月、佐賀の田代小路で没した。50歳
遺骨は佐賀唐人町鏡円寺に葬られている。
弘化4年(1847)12月、村岡一兵衛氏の長女、茂子と結婚、4男2女をもうけた。
長男公一と三男一十は上野彦馬の下で写真術を学び、次男公次郎は後藤象二郎の高島に
鉱山見習として入社し、功績が大きかった。公次郎の孫の松林太郎氏は現在唐津に在住
高島を開発した松林源蔵は4代目であるが、初代松林源蔵は元禄14年(1701)に
没した人である。
2代目松林源蔵の弟、弥左衛門が長崎御番の為深堀に来村、御番所で没している。(1730)
また3代目源蔵の弟、左次右衛門も深堀在住が確認され、安永7年(1780)没している。
いずれも円城寺に納骨されている。
1−2 松林源蔵の家系図
松林源蔵の祖先は藤原鎌足に始まり、藤原藤綱の時、松林姓を名乗った。
京都から大宰府に下向し、源頼朝の時代に筑前御笠郡を、足利尊氏の時代に肥前神崎郡を
賜り、佐賀に定住した。
大織冠内大臣 藤原鎌足 − 正一位 淡海公 − 贈大政大臣 房前 −
正ニ位左大臣 魚名 − 従三位宰相筑前守 藤成 − 従三位松林中将 藤綱
(松林氏の太祖)宇治の郡、松林郡に山城を築き、松林中将と号す。
昌泰2年、菅公が大宰府に御下向の時、父藤成が筑前国司となり
勅命により藤綱も、守護をた奉わり、大宰府に下向した。
延喜3年3月15日のことであった。
従三位松林中将 藤綱 − 従四位松林少将 藤重 ― 従五位筑前守 重国
従四位備前守 重家 − (途中略)
従五位左衛門太夫 政広 文治元年3月21日、頼朝公より筑前国御笠郡を賜る。
左衛門尉 政国 弘安5年、蒙古来襲のとき、博多警護番を勤め、功により
筑前国志摩、夜須の2郡を賜る。
同兵庫頭 政時 文化元年9月、足利尊氏より軍功により肥前国神埼郡の
長牟田村、大石村、大摩村、石動村などを賜る。
初代松林源蔵 元禄14年没(1701)法名 浄傑