松林飯山

 

大村には同じ松林姓の人に松林飯山先生がいる。

我が松林家(鍋島藩)とは直接関係はないが、

元をたどれば菅原道真公と共に太宰府に下向した松林一族、

勉強のために、まとめています。

ただこの松林家も父、松林杏鉄が長崎で学んでいる。



飯山先生は護国神社に神として祀られています。

1−1 飯山先生の生涯

明治維新の夜明け前、大村藩勤王派の首領として、藩塀の任を尽くした松林飯山は

天保10年(1839)2月、筑前早良郡金武村羽根戸村(現在福岡市西区)に生まれた。

幼名は駒次郎、いみなは漸之進、字は伯鴻、のちに廉之助と改めた。

号は飯山、飯盛山の麓に誕生したからである。

飯山は3歳で文を書き、唐詩選の百詩を暗誦し、4歳で千字文、孝経、大学を、

5歳で論語を、6歳で孟子を、7歳で詩経を詠み終わり、5歳で既に松、菊、梅の

詩も詠んでいる。

父、松林杏鉄(きょうてつ)は医師で、若い頃長崎に出て、医業修業に励んでいたが

南画が上手で、大村の山紫水明を愛して時々来遊していた。

そのうち五教館教授であった片山歓治氏の計らいで、御典医に迎えられ、藩医となった。

さらに片山杏鉄は80余歳で病死した。

神童駒次郎の噂が広まると、秋月藩の家老から是非、養子にと懇望してきた。

これを嫌った杏鉄は、ナカ夫人にも告げず、9歳になる飯山を連れて夜逃げし、陸路を

避けて伊万里から便船をを求め、夫人の郷里七釜の沖にある小島の蛎浦の中村家に

隠れ住んだ。

のちに奉行が蛎浦巡視のとき飯山を見出し、12歳のとき大村藩主に呼び出され、

唐詩選の朗読を命じられた。飯山は卷を終えるまで一字も誤らず、堂々と進講し終えた

ので一同は驚いた。

14歳のとき、参勤交替に従って江戸に上がり、学を安積艮斉(あさかこんさい)の塾で

磨いたが、3年も経たないうちに数10人の弟子を抜いて主席となったので、大学者の

艮斉もこれ以上教えるものはなにもない、と彼の学才をたたえた。

1−2 昌平黄から五教館校長へ

飯山は安政4年(1857)19歳で幕府直轄の昌平黄に入り、天下の秀才と席を同じくして

勉学にいそしんだが、飯山の右に出るものはなく、昌平黄の詩文係に抜擢された。

21歳のとき大村に帰り御教館の教頭(校長)に任命された。

飯山の学風を慕って、北海道松前藩、奥州仙台藩、関東、越前、近畿、中国、九州諸藩

から96名の藩士たちが大村に来て学んだ。

土佐の岩崎弥太郎もその一人であった。明治以降成功した諸藩の名士のおおくは、この

五教館で学んだ人が多い。

文久3年(1863)10月に五教館の祭主(校長)に昇進した。

1−3 飯山の最後

慶応3年(1867)1月、大村城中で謡初めの式があり、夜になり諸士は退城した。

飯山がかみしもの正装で夜9時頃、帰途についたところを長井兵庫ら佐幕派の浪士に

よって肩先深く切りつけられ、倒れた。27歳、

このことを契機に大村藩は勤王に傾き、幕府軍に戦いを挑むことになる。

のちに大村藩が戊辰の役で軍功をとげ、藩主が薩摩、長州、土佐の大藩に伍して、宮中で

陛下に感状まで戴いたうらには、松林飯山の永年にわたる五教館での勤王精神の薫陶が

あったことを忘れてはならない。