虚竹禅師を偲ぶ杭州独り旅


尺八を愛好するものの独りとして、一度はその伝承の地、護国仁王寺跡を訪ねて みたい、
そして尺八の祖といわれている虚竹禅師が修行した洞居跡を偲んで見たい、と 私はかねがね思っていた。
その思いは水上 勉の「虚竹の笛」を読んでからますます私の心に強く燃え滾った。
そして遂にその念願を果たそうと、今回の杭州独り旅を敢行したのである。

1日目は何はさておき、杭州で工芸大師の称号を持つ「応明章先生の佳音楽庁」を訪問、
先生と親しく尺八談義に花を咲かせ、記念に特別に湘妃竹という斑竹で、簫と笛子を作っていただいた。
湘妃とは、舜帝の妃・娥皇と女英の二人のこと。
舜帝を慕って湘水に身を投じて、川の神(湘靈、湘神)となったといわれている。。
舜帝が蒼梧(現・江西省蒼梧)で崩じた時に、娥皇と女英の二人の妃がここに来て深く嘆き悲しみ、
流した涙が竹に滴り、その痕(あと)が竹に斑斑と残ったことから「斑竹」と謂われ
最高級の貴重品だそうだ。

「佳音楽庁」で応先生と

翌日は護国仁王寺跡を訪問、心地覚心(のちの法燈国師)が無門慧開に学んだ寺である。
護国仁王寺跡は最近まで杭州芸術大学であったが、最近老年大学として真新しく建て変えられたばかりであった。

現在はもう護国寺跡の面影はなく、真新しい大学校舎に変わっていた。

そのあと近くの黄龍洞民族園で地元越劇楽団の方々と尺八を交えて遊ぶ。  

二胡と尺八に合わせ、老夫人が笛を吹いたり、踊りだしたりした。

そのあと、飛来峰を巡り、霊隠寺に参拝、堂内は多くの参拝客でごった返していた。
そのあと、浄慈寺へ、ここは曹洞宗の開祖道元が修行をした寺として有名。
寺は「南塀晩鐘」という名で西湖10景の一つになっている。
その鐘は消失後、日本の本山・永平寺から寄贈されたものだった。
道元の師「如浄禅師」の墓は寺の裏山の南塀山にあり、一般には公開されておらず、施錠がなされていた。
恐らく墓の裏手から奥に洞窟があったのではないか、そんな気配がした。
日本から尺八のことでわざわざ来られた方です、とのガイドの謝さんの熱心な懇願で
老僧が開錠をしてくれた。
如浄禅師の墓前で献笛したあと、しばらく付近に洞窟はないかと、周囲を探すが見当たらない。
仕方なく門を出て、下の「奉納堂」の老僧に洞窟は無かったのか、尋ねてもらったら、
なんと!洞窟は今も残っているとのこと、「蓮華洞」別名を「天神洞」といい
今は聖地として立ち入りを厳しく制限している、というのだ。感激した。
老僧によれば「ご縁があれば、いつか洞の前に立てますよ」とのことであった。
今回は洞屈の前に立てなかったが、かならずさらに魂を磨いて、ご縁にあずかりたいものである。
 
如浄禅師の墓前で献笛、南塀山の洞窟跡であろう方向に向かって「虚鈴」を吹いた。 

浄慈寺の大雄宝殿の前には大きな亀趺(キフ)があった。
ああ、これだ!これが亀趺だ!
虚竹禅師の墓であろうとして、私達が現在礼拝している吸江庵跡の墓だ、とこれも感激!
やはりそうなれば、今我々が礼拝している虚竹禅師の墓らしきものは水上 勉が言うように
隠元以降の、虚竹を名乗った「和漢竹簡往来」の「峯尾絶外・虚竹禅師」の墓に違いない。
峯尾絶外は南塀山の洞窟で何代目かの虚竹に学び、帰国後、長崎から宇治へ上がり、吸江庵に住し、
その虚竹を偲んで「虚竹名」を名乗ったのであろう。

下の台座が亀である。亀趺(キフ)が日本に持ち込まれたのは隠元禅師や朱瞬水の来日以降である。

今回の旅行に際しては、まだ顔もあわせた事の無い神崎 憲先生がいろいろとご心配を下さり、
旅行会社を紹介してくれ、また幸いなことにガイドに同行してくれた謝 芳さんは
熊本・福岡で5年間勉強をされていた方で、私と同じ気持ちで熱心に私の歩行の多い行脚に
付き合ってくれた。美人で独身、心弾む旅行でもありました。
 
西湖湖畔の東屋で尺八を吹く私、  ガイドの謝さん、素敵でした!

帰りは上海により、上海音楽学院で趙先生の簫レッスンを受けて帰国した。

簫で李白の「長相思」をレッスンしてもらう私、

さてここでもう一度虚竹禅師について復習してみよう。
今、宇治の吸江庵跡に虚竹禅師の墓と称する武家風の墓があり、
われわれ尺八家の間では「尺八の祖・虚竹の墓」として礼拝している。
しかしこの墓は亀の形の台座に据えられており、隠元禅師の入国以降に
日本国内に流行した墓の形式、黄檗式の墓・亀趺(キフ)である。
従って、法燈国師の時代や、一休禅師の時代には無かった墓である。
また吸江庵自体も万福寺が創建されて以降の庵の名称であり、
それまでは吸江庵という名の庵は存在していない。

水上 勉氏は何回も中国にわたり、杭州の寺院を訪ね、歴史家に逢い、
虚竹禅師についての研究をされて「虚竹の笛」を刊行した。
その中で上海在住の張 錫さんの論文、「日本僧と洞簫のこと」と題した論文の中に
詳細な記述がある。

寄竹は杭州禅源寺に日本から渡来していた僧と同寺に住持していた僧、源心慧光の
下働きをしていた「安」という後家女との間に生まれた子だった、と述べている。
この寄竹が後世、虚竹と呼ばれるようになる。
しかも後世、虚竹にまつわる人物には「安」という名が付きまとうことになる。
呂安しかり、蘆安しかり、朗安しかり、道安しかり、琴古に伝授した龍安しかりである。
皆発音は「ロー・アン」に近い。

もともと尺八は聖徳太子が百済の聖王からいただいて吹いたのが始まりで、
その後、天台宗最澄の弟子慈覚大師が入唐し、尺八を学び、
「天声阿弥陀経」を尺八で吹いたことで有名である。
当時から読経に楽器の伴奏はつき物であったわけである。

しかしこの頃の尺八伝承者をなぜか尺八史では「尺八の祖」とは記述していない。
もっぱら表5孔、3節切りの洞簫つまり雅楽尺八としての位置付けであったのだろう。
なお、上海博物館でも検分したが、当時の歌口は「唐切り」と称して今の尺八の歌口形状に近い。

尺八の祖として最初に登場するのは心地覚心のときである。

心地覚心、のちの法燈国師は1254年2度目の入宋をし、
杭州・禅源寺で修行していた源心の計らいで護国仁王寺に入り、無門慧開禅師に師事し、
そのとき寄竹というものに尺八を学ぶ。(張 錫さんの説)
寄竹は同時代の僧、済公・道済禅師(中国の一休さん)とも交流あり、
栄西(1187入宋)や道元(1223入宋)もほぼ同時代の日本からの渡来僧である。
この説とは別に普化禅師時代の洞簫家、張伯の16代、張参に習ったという言い伝えもある。
総じて、虚竹という名は後世の歴史家の創作である公算が否めない。

次代の尺八の祖は一休禅師の記述に出てくる「宇治の朗庵主」である。
一節切の祖「蘆安」ともしばしば記述されている。
この蘆安はもっぱら福建からの渡来僧であるとの記述が多く、個人的には指示したい。
建長寺の宝殊庵の庵主、祥啓筆になる朗庵図を参照されたい。 こちら
一休禅師や一路居士とも交流のあった高僧であり、見かけのような俗僧ではない。
日本人としても横川景三や山名満幸や山名義理などの南朝武士の名が
朗庵主候補にあがっているが、確定的な根拠はどこにもない。
やはり当時の朗庵主は宋人であったと考えたい。
そして表5孔の簫のほかに、すこしずつ表4孔の1節の一節切が流行していく。

最後が宇治・吸江庵主としての虚竹禅師である。
隠元の弟子で「和漢竹簡往来」を記した明末の亡命僧、曼公こと載笠和尚の記述によれば
南朝の武士で杭州の浄慈寺の洞居で道安の弟子となり、何世かの虚竹に尺八を習った
峯尾絶外という出家僧が万福寺創建のあと吸江庵に住し、虚竹と名乗った、とある。
絶外は小倉の広聚寺から長崎の崇福寺末の善応寺に入り、隠元の跡を追って宇治入りしたとある。
黄檗に携わった日本の武人である。
吸江庵跡の虚竹禅師の墓はこの峯尾絶外・虚竹の墓であろうことは充分に推察できる。

ところで明末の簫といえば中国では南音尺八のことで、
長崎の唐人屋敷ではもっぱら南音尺八の簫が七弦琴と合奏されていた。
(逸然の弟子、元禄の漢画家渡辺秀石(1639〜1707)の唐人管弦図にはっきりと描かれている) こちら
それまでの一節切尺八が急速に南音の根付き尺八に変わっていくのである。

参考までに琴古流の重鎮、吉田一調に一調名を譲り受けた高弟「彰城逸調」は
長崎の唐通事、劉一民・一族の10代当主であり、やはり崇福寺の大檀越であった。

なお初代黒澤琴古に吸江庵で古伝曲を伝授したのは「琴古手帳」によれば龍庵と記述されている。

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