島原城の一節切資料
島原城資料館に展示されている牧家の尺八は
笛の元祖「宜竹」作の一節切であることがわかりました。
宜竹は萬宝全書で「宜竹は笛の祖といへり」と記載され、
また松尾芭蕉が「まずしるや 宜竹が竹に 花の雪」と歌い
吉野の山の花吹雪と宜竹の笛を知らないものは句人にあらず、と
評したほどの天下一の笛師だった人です。
「天正十壬年 持舟城二而得一節尺八、重定」と由来書に記されており、
初代深溝城主、松平大炊助忠定の孫にあたる松平太郎左衛門重定
(牧覚右衛門の父君)が天正10年(1582年)、持舟城を攻略した際、
戦利品として手に入れたもの。
そもそもは島原の歴史家「林銑吉」氏のご子孫が私の竹友で、
島原城に由緒のある尺八が展示されているが調べて欲しい
という依頼からでした。
現地に行き、特別に見せていただき、吹かせていただいたら
「この笛は普通の笛ではない」と感激し、涙が溢れました。
早速東京の「虚無僧研究会」に調査を依頼、小管会長に島原まで来ていただき、
調査を続けた結果、これが笛の元祖・宜竹の作であるらしい、ということが
わかった次第です。
「萬宝全書」元禄7年(1694)に記載されている「宜竹の一節切」の説明と
宮地一閑「尺八筆記」に記載されている「宜竹の一節切」の説明
しかし今宜竹が法橋に任じられたのは1655年、ということもその後
判明、天正10年(1582)の70年以上もあとのことだから、
宜竹の作であることはわかるが、「由緒書き」との整合性がない、
また宜竹管なら樺巻きが施されているはず、という専門家もいた。
しかしどう否定しても、宜竹の作であることには間違いない。
「萬宝全書」や「尺八筆記」に示されたとおり、特別な宜竹印が彫られている。
真似られるようなものではない。
、
「森田流奥義録」によれば能管の場合、
宜竹は「中古の上作の部」の人となっており、
およそ1600年前後の時代の人を指している。
二代目庄平衛光時、森田休音(1616〜86)が法橋宜竹に
修理を依頼したという「男女川」銘の能管が残されている。
森田流笛方寺井家には「古法橋」作という管もある。
また一噌流では一噌庸二師の「松虫」という笛は
明和年間(1764〜72)に登録された笛といわれている。
能管であれ、一節切であれ、1655年に法橋に任じられたという
宜竹とは別人の人もおり、宜竹が何代もいたこと、
そして一節切とともに能管も作していたことが証明されている。
宜竹については万宝全書に「一代に、参拾管をなす」と
記載されてあるが、一代に、と書かれている以上、
何代も宜竹銘が継承されたはずだ。
蘆庵や一路、宗佐、小森宗勲をさしおいて
「笛の元祖」といわれる人を私達はこれまで知らなかった。
「宜竹は笛の元祖といへり」と万宝全書に記載されているかぎり、
少なくとも一休の時代まで初代はさかのぼるのではなかろうか。
一休禅師の時代に宜竹号を名乗った禅師がいる。
相国寺慈照院の塔主、景徐周麟(けいじょ しゅうりん)、
景徐周麟の師は横川景三(おうせん けいさん)
横川景三は一休禅師とはきわめて近く、一路、蘆庵とも親交が深かった。
まさに笛の元祖の面々である。
宗祇や村田殊光とは同年代、頓阿法師の笛を頂いた宗長もしかり
一節切の元祖、宗佐老人も同世代である。
笛の元祖といわれる宜竹と、宜竹禅師・景徐周麟とが
どんな関係なのか、さらに研究を深めたい。
能にしろ、茶にしろ、連歌にしろ
一休禅師や相国寺が当時の中心であったことは間違いない。
もうひとつ「樺巻き」が施されていないのはこれが武将への寄進物でなく
かなりの吹き手が自分の吹き料として愛吹していたからではないのかとも
考えられる。
東京文化財研究所の高桑先生の論文(都文研ニュース2004-18号)によると、
熱田神宮の一節切は永禄11年(1568)に京都から取り寄せられ、
樺巻は施されていない、とある。
島原城の一節切と同年代の笛である。
先生は江戸時代に入ってから横笛を模して樺を巻いたり、黒漆をかけたり、
蒔絵を施したりなど趣向を凝らすようになったわけで、
それ以前は簡素な造りだったのでは、と推測しておられる。
「持舟城は静岡県静岡市用宗にある中世の城(もとは今川氏が築城)
永禄13年(1570)以降、武田信玄が領有していたが、
天正7年(1579)から数度にわたって徳川家康の攻撃を受け、
同10年(1582)2月23日の再攻撃によって、ついに同27日
城を明け渡した。(静岡県教育委員会編集「静岡県の中世城館跡」)
その際の城主、朝比奈信置周辺についても調査の必要がある。
つまり由来書にある天正10年というのは同城が武田方から徳川方に
移った歴史的事件と一致しているわけで、その後、天正18年
(1590)には豊臣秀吉が後北条の居城、小田原城を落とし、
牧氏は同時に落城した忍城(おしじょう)(埼玉県生田市)に
松平家忠公(島原松平藩主初代、忠房の祖父)とともに入封している。
北条家の配下には当時尺八が大流行し、のちに浪人が虚無僧となって
いった経緯からすると、「法橋」銘入りの一節切尺八を手にしていた
牧家と虚無僧、さらには総本山・鈴法寺との関わりは否めない。
徳川家康と松平家忠、忠房、牧覚右衛門との関係は下図の通り
世良田親氏―松平泰親―信光―親忠―長親―信忠―清康―広忠―家康
忠景―忠定―好景―伊忠―家忠―忠利―忠房
定清―重定―重是=牧覚右衛門
昭和5年発行「郷土読本 杜城の花」中の
「尺八笛と松平好房公」
(牧氏家乗、深溝紀略、口碑)を改めて読んでみよう。
いま島原城の本丸に1本の尺八が展示されている。
実は松平忠房公の忠臣、牧角右衛門(晩年覚右衛門との記述が多い)の
牧家に伝わる家宝の尺八である。
忠房公の長子、好房公は1650年頃に生まれた人で、
世に孝子の鑑と仰がれ、本朝孝子伝、並びに昭和の初めの
小学校修身書に載せられていた人であるが、
その生母は忠房公の側室で京都から召された方であった。
が、意に添わぬことがあり、京都へ帰ってしまった。
しかし懐妊しており、まもなく玉のような男子を分娩した。
忠房公は大変喜び、この公子を引きとろうと画策したが、拒まれ失敗、
どうしようもなく重臣の牧角右衛門重是に
「我が子をなんとしても連れて帰ってくれ」と頼んだ。
牧角右衛門は直ちに京都に上がり、虚無僧となり3年間、生母の家を
尋ね、
嘆願し続けた。
しかし、3年間の努力の甲斐もなく、何の進展もないある日、
ついに最後の覚悟を決め、「このまま帰っても主君に会わせる顔がない、
迷惑だろうが、この場で腹を切らせて頂きたい」と切腹しようとする。
この姿に心を打たれ、生母は遂に好房公を手放し、公は江戸に赴くことと
なり、のちに世子となり、世に「孝子の鑑」と仰がれるようになった。
そして、父忠房公が寛文9年6月に島原に移封されるのと同時に、
21歳の若さで早世した。
花咲く間もなく散った芳薫の公子、松平好房公と誠忠牧角右衛門の
はかなくも美しい物語を1本の尺八が物語っている。
平成22年12月 古典尺八竹風会主宰 松林静風