明暗双打の偈 

 

唐の宣宗時代の大中年間(850年頃)に河北省の鎮州というところに

臨済院という小院があった。

わが国禅宗臨済宗の宗祖、臨済義玄禅師が修行していた寺である。

後に大名府の興化寺に移るが、その時臨済を助けたのが普化和尚である。

普化和尚は盤山に師事し真訣を受け、あたかも狂僧のごとく振る舞い、

常に手には一鐸を持ち、

「明頭来也明頭打   暗頭来也暗頭打 

 四方八面来也旋風打 虚空来也連架打」と唱えながら振り歩いていた。

最後は自分で棺桶を担いで土を堀り、鈴の音だけを残して昇天した。

この行雲流水のように道を行脚する普化禅師の姿に敬慕して張伯という

居士が自分の好む竹管で禅師の振鐸の音を真似て吹き、自らを虚鐸と

号した。尺八でお経のように「虚鐸」を吹いたのである。

この張伯から16代目の張参の頃、日本からきた留学僧、心地覚心

(のちの法燈国師)は杭州の護国仁王寺でこの虚鐸の音に出会い、張参に

学んだ唐僧4居士(国佐、宝伏、理正、僧恕)を連れて日本に戻り虚鐸を

国内に広めた。

 明頭来也明頭打     暗頭来也暗頭打 

 四方八面来也旋風打   虚空来也連架打 

 

この明暗双打の偈は虚無僧の偈として大事にされているが、直訳すれば

明るい奴は打て、暗い奴も打て どこから来てもつむじ風で打て

天から来てももぐら叩きで打て となる。

禅語らしく解釈すれば、

この世には善も悪もない、明も暗もない、虚も実もない、

(色不異空 空不異色 色即是空 空即是色)

地上のどんな現象も、いや現世の存在自体もうたたかの夢なのだ。

四方八方の一切の衆生よ、本来無一物だ、といって迷いを吹き飛ばし、

己の六根を清浄にして、みんなで極楽浄土へ行こう、さあ 行こう

(掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提娑婆訶 般若心経)

というところだろうか。

あるいは逆に、

善には善のごとく、悪しきは悪しきを知り、

明には明で、暗には暗で、生を生として、いずれ来る死を死として

すべてあるがままに受け止める、無為自然、無心たれ、と言うことか。

 

水上 勉と般若心経 

水上勉著の「般若心経を読む」という本の中に一休禅師と正眼国師の

言葉がたびたび出てくる。

僧は寺にいて事業を営むのでなく、衆生にあって迷いを説き、行脚を

すべきだ、という主張がここそこで出てくる。

一休は尺八を好んで、遊行しており、「空」の象徴的存在の人であるが、

「一切空」「不生不滅」をあらわす言葉として、正眼国師の言葉が挙げ

られており、とても気に入っているので紹介する。

 

善き分別を自慢もせず、喜びもせず、そのまま不生なり、不滅なり

往くも生滅を離れ、還えるも生滅を離れ、食をくい、茶を飲む

鳥の虚空をかけり、雲の風に任せて、さわりなく往来するが如くにして

自由、自在なり

 

まさに普化禅師の「明暗の偈」

明頭来也 明頭打   暗頭来也 暗頭打

四方八面来也 旋風打 虚空来也 連架打  を思い出す。

 

この正眼国師も長崎に来て黄檗宗崇福寺の3代、道者超元に師事し、

のちに京都妙心寺の住持となり、当時の日本の宗教界を先導した。

 

当時の宗教界は後水尾法皇や4代将軍家綱をはじめ、大名が競って隠元

を始めとする黄檗の禅風を学ぼうとし、五山文化の花を咲かせた。

そんな中で、水上勉が憧れた正眼国師の「平語で説く街頭禅」の教えも

しっかり残されていたのだ。

どこに托鉢しても、誰と会っても、解りやすく「空」を説いたのだ。

まさにそれが、われわれが憧れる「街頭禅」である。

そしてそれは長崎から発信されていた、ということが嬉しい。