奉仕の理想探求語録 第20号
長崎東ロータリークラブ 雑誌委員会
良寛さま
(友1999−2号 前橋東 近藤浩通)
富山富一ガバナー(第2560地区)が今年度「良寛の心をロータリーの心に」と
提唱されていることは、私たちロータリアンとしての心の源を、深く問われている気が
してならない。
他の犠牲なくして生きられない、現代の人間社会の中で、仮にもロータリアンとしての
今があることのありがたさ、その深い認識と反省。
換言すれば、自らしからしめられていることへの、贖罪と感謝の念なくしては、
ロータリー活動そのものが偽善に陥り、自己満足にしか過ぎなくなる。
富山ガバナーはそのことへ警鐘されているのではないかと感ずるのである。
良寛さまは偽善とおごりを最も嫌った。
内なる自分の真と善に厳しく律して生きてきた人である。
私たちは日常、心の中の、自分の真、善に対して正道に生きているだろうか。
否である。思っても容易に出来るものではないと、妥協しながら生きているのが現実である。
本質的に善なる自分でありたい、と願う人生のたびを始めれば、良寛の声が聞こえてくる。
そして真なる良寛に、到底及びもつかない自分を認め、あこがれを一層強くする。
良寛は悟りを開いた高僧ではなく、ただの市井の人である。無能の乞食坊主であることを
自認し、生涯を貫き通した人である。
私たちは、良寛さまと口にするだけで、心が和むのである。
その温かさこそが「友愛」に根ざすものであろう。
ロータリーの友愛と奉仕は、善意を根源としており、富山ガバナーは、その本質的な心の
ありようを、ロータリアンに問うているのではないだろうか。