奉仕の理想探求語録     第37号

            長崎東ロータリークラブ 雑誌委員会

 

現代の忘れもの  (第2690地区大会講演より 

               (ノートルダム清心女子大学学長 渡辺和子)

 

数年前、アメリカの少年刑務所に入った非行少年の話が、ドキュメンタリーとして

NHKで放映されたことがあります。この少年は生まれ育ったのが問題の多い家庭で、

ワルと呼ばれるような友達しかいなくて、その結果として非行に走ったのですけれども、

何とかしてまっとうな生活を送りたいと思っておりました。

ただ生まれ育った環境も友達もそれを教えてくれなかったのです。

そんなある日、施設にホームレスのおじさんがやってきて、少年に

「お前は物事にぶつかったときに、すぐ反射的に行動して、それから感じて、それから

考えるという順序で生きてきたのかい?それともその逆で生きてきたのかい?」と尋ねます。

少年は「気に入らない人や難しいことに出くわしたときに、反射的に行動して、それから

感じて、考えるという順序で生きてきた、と思う」と答えました。

おじさんは「だからお前はここにいるんだよ、明日からはその逆の順序で生きてみな」

つまり「まず考えて、それから感じて、そしてそのあとで行動してごらん」と言ったのだ

そうです。

そこで初めて少年はまともに生きる、まっとうな人間になる道筋を教えて貰い、何度も

失敗して倒れながら、また立ち上がって、まっとうな人間になったということです。(中略)

パスカルは「人間は考える葦である。人間はこの世の中で最も脆いものだ」といいました。

しかしパスカルは続けて「人間は他のすべてのものを越えて尊い。なぜならば、他のものは

自分が死ぬということを知らないけれども人間は知っている。人間にとってその全存在の

全品位、尊厳というものは考えることにあるのだ」といっています。

私たち人間の自由は、平たく申しますと、考えることによって自分の情欲を押さえることが

できる、本能とか衝動に打ち勝つ自由なのです。自分の怒りをかき立てるような相手に

ぶつかったとしても、自分はその相手のなすがままにならないで、その相手を許すことさえ

できる。つまり環境の主人となることが出きるのです。

ビクター・フランクルの「それでも人生にイエスという」という本が最近出版されました。

彼はかってアウシュビッツやダハウの収容所にいた精神科の医師で、九死に一生を得て

「夜と霧」などの素晴らしい本を書いた人です。

この人が「人間の自由というのは心の自由なのだ。

諸条件からの自由ではなくて、それら諸条件に対して自分のあり方を決める自由なんだ」と

いうことを言っています。

人間ですから病気やけがをしますし、失敗もあります。生別、死別、自分ではままならない

事態にぶつかることがございます。そのような諸条件から自由になることは出来ないけれども、

事後の後遺症を抱えながら、あるいは愛する人の死を乗り越えて生き生きと生きる、

その自分のあり方を決める自由は持っています。

それこそが実は人間の自由なのだと彼は言っているのです。

ある小学6年生の女の子が作った詩に

 

王様のご命令 

といってバケツの中に手を入れる

王様ってだあれ  

私の心のこと

 

というのがございます。

冬の厳しさの中で、冷たい水に手を入れて雑巾を濯ぐのはとても辛いことです。

しかし、女の子は自分の心と闘い“王様のご命令”といってイヤだと思いながらもバケツの

中に手を入れたのです。人間は誰しも心の中にこの“王様のご命令”を持っています。

英語でコンシェンスと申しますが、よいことを勧め、悪いことを止める良心というものを

持っています。その良心の教育ということが最近忘れられています。

今新聞を賑わしているいろいろな事件をみましても、私たちのお手本であって欲しい方たち

が万引きまがいのことをしている。人を騙したり、嘘をついたり、盗んだりしている。

それがばれたときに人のせいにしたり、ばれるまで口をつぐんでいる。

今大切なことは大人がまず我が身を正すことだろうと思います。

(中略)

東京の新大久保の駅で線路に落ちた方を助けようと、2人の方が一緒にお亡くなりになった

ことが大きく報道されました。

しみじみ思いましたのは、それは本当に日本人の目を覚ますような行為だったと言うこと

です。

なぜなら、私たちはあまりにも人に迷惑をかけないと言うことを中心に生きてきたのでは

ないかと思うからです。

これもとても大事なことです。ただ忘れていたことの一つに、人のために働くと言うこと、

進んで人のためになるということ、それを私たちは子供達に伝えてきたでしょうか。

お二人の方が示してくださったのは、ただ人の迷惑にならなければいい、のではなく、

人間が人間らしく生きるということ、人のために働くということでした。

そしてこれこそがロータリーの奉仕の精神ではないかと思います。

不平を言わないだけでなく、進んで明かりを付け、笑顔で感謝に満ちた社会にして行きたい

と思います。そういうことにほど遠い社会でございますけれども、それだけに現代の忘れ物と

して、私たち人間に与えられた自由、その厳しさをしっかりと心に留めて、その自由を充分に

使って暗いと不平をいうよりも、進んで明かりを付ける自由な人でありたい、と思います。