野田城の笛
三方が原の攻防で勝利した信玄は、浜松城をそのままに、元亀3年(1572年)
12月24日、祝田の坂を下って刑部に布陣した。
しかし、ここで不思議な事に、信玄は年を越した。
年越しの間に、平手汎秀の首級を岐阜の織田信長の所に送り、信長が盟約を破って
家康に援軍を送った事を厳しく責め、絶交を宣言した。
翌年には信長が謝罪をして来たが、信玄は聞き入れなかった。
外交上の駆け引きもあろうが、この段階で、信長は信玄を恐れて、まだ戦いたくなかった。
信長・家康同盟軍の包囲網も危うい所で、難を逃れた。というのは、北近江の朝倉義景が
軍を引き揚げていた。
この朝倉義景は温和な人で、自分からは攻めないし、同盟の浅井長政に対しても戦意はなかった。
ただ、自分の領土が安全ならば、出たくなかったのに、しかたなく出された感じである。
これにも信玄は三方が原の戦勝を伝えると共に北近江から撤退した事を詰門した書状を送った。
その後、武田軍は三河に侵入し、正月11日には野田城を攻めた。
この野田城は豊川の上流右岸に築かれた規模の小さい山城だが、守備するのは城主の菅沼定盈と
援軍武将の松平忠正の指揮する400人である。
この城を奪取すれば甲斐の甲府から伊那を経由して京へと繋がる道が確保できる。
信玄にとっては是が非でも落としたい場所の城であった。
信玄は全軍を持って正面から攻めたが、四方を山で囲まれている城の守りは堅く、
武田軍を寄せ付けなかった。
家康も吉田城まで救援に駆けつけたが、先の三方が原の敗戦もあって手も足も出ない。
そこで家康は上杉謙信に書状を送り、信濃への出兵を要請した。
しかし謙信も越中・富山城攻略の最中であり、家康の要求には応じなかった。
野田城攻略の2週間目、落ちないので信玄は甲州から金堀人足を呼び寄せ、城壁に横穴を掘って、
そこから井戸の水を断つ作戦に出た。
2月10日、ついに菅沼定盈らは降伏、その身柄は徳川軍との人質交換の材料にされた
この時場内に「村松芳林」という尺八の名手がいて、毎夜櫓に上り、名残の
一管を吹いていた。
明日にも知れぬ命の味方はもとより、敵兵の中にも城に近寄り、その音を慕うものが
次第に増えてきた。
その夜「芳林」は明るい月に向かい、心魂を込めて尺八を吹いた。
城外では従者を従えた一人の武将が床机に座り、妙なる音に聞き惚れていた。
そのとき、城内では遠目の利くものがいて「床机の武将は信玄だ!」と城主に告げた。
城主はすぐに鉄砲の名人、「鳥居半四郎」を呼び、狙撃を命じた。
「半四郎」は神に念じ、狙いを定め、轟然と一発、「手応えあり!」と叫んだ。
尺八の音はハタと止み、武将は騒然と従者に囲まれて去り、四辺は寒月鋭く照っている
のみとなった。
信玄の傷は深く、もはや進軍することができなくなった。
療養のため、武田方の菅沼正貞が守る長篠城に入った。
医師が懸命に治療にあたったが様態は悪くなる一方で、信玄も死期を悟った。
信玄は軍団に引き上げを命じ、武田軍は病の信玄を護り、三州街道を北へ
信濃に向かって引き揚げた。途中、伊那谷の駒場で勝頼以下諸将を集めて
遺言を残して死んだという。遺言の中では自分の死を三年間は隠すことや
謙信と和睦すること、信長に注意し合戦を控えることなどを言った。
そして、いつか必ず京都に攻め上るよう伝え、この世を去った。
天正元年、五三歳で天下掌握の夢なかばのことであった
こんな話しもある。
そして信玄は、足助を通り尾張瀬戸(海上)に入り、サクラ池のほとりで山田佐右衛門庄に
助けられたが、長い間の高熱の末、他界した。
このおりの礼金七百五十両、村人一戸あたり十三両を配布し、手厚く埋葬され、喪は固く
秘にされた。
その墓は信玄公家臣の鈴木(足助の方)が守っていたが、後世まで秘にされていた。