林翁一計庵主の考察
琴古流の流祖、黒澤琴古が19歳のとき、長崎を訪れ、正寿軒で一計士に古伝3曲ほか
7曲を伝授され、のちに日本の尺八界をリードする人になった事は有名である。
このとき琴古に教えた一計がどんな人であったか、興味がある。
邦楽ジャーナル誌2000−4月号、尺八浪漫「琴古、宗悦の故郷」(九州の尺八)
に一計の尺八であろうと思われる尺八の写真が掲載されている。
位牌仕立ての尺八であり、そこに林翁一計庵主、元文庚申天(1740年)、
行年62歳と書かれている。
銘は「雨」、雨の字を二重の菱形で囲っている。寸法は1尺6寸4分
庵主とあるが、松壽軒の関係者の中には一計の名は出てこないのでこの庵は
皓台寺か崇福寺か興福寺の末寺の庵であった可能性が高い。当時の長崎ではのちに
宇治に上り、黄檗山のそばに庵を作ることも多かったので、その庵主であったことも
考えられる。宇治の庵なら「宝福庵」であろう。
それが水上勉のいう崇福寺の総門をくぐって左であれば「廣善庵」、林家の庵である。
黒沢琴古が長崎に来たのが享保14年(1729)だから林翁一計が51才の時である。
林氏といえばのちに日本の明清楽を指導したのが林家である。
林家は当時長崎で彭城家とともに大通事を務めた家柄であり、皓台寺や崇福寺の
大檀越である。
翁と称してもおかしくない家柄だ。
虚竹が長崎にいた、という話の裏に潜む「真実」とはこれだったのだろうか。
夢はどんどん広がる。
もう一度、越中先生を訪ねてみよう。
1679年生の林さん
林翁一計が1740年に行年62才であったことから1679年生まれで
1740年没の林さんがいないかと、随分探したが、現状では見あたらない。
長崎の通事を務めた林氏は林公エン、その子道栄の名やもう一つの林家
林楚玉やその子、林仁兵衛の名が出てくる。
いずれにせよ幕末の明清楽を広めたのは唐通事であり、林氏の名が出て
きても何の不思議もないのである。
今日は越中先生を訪ねた。
「一計は林さんでしたよ」 「たぶん廣善庵の林さんじゃろな」
ということで、いろいろと資料をめくって林さん探しをした。
元文庚申天年(1740)62歳行年の林翁は今日のところはわからず。
松林君、明楽は本当は心越が始まりだよ、心越はまもなく水戸光圀に招聘され
関東に出るがそこで名声を博し、長崎の明楽が注目されたと思うがな。
琴古も心越の影響で長崎に来たのじゃないのかな。
心越は1677年に長崎に入り、七弦琴を弾いて明楽に堪能だった。
1686年頃、長崎で流行った「九連環」が日本全国に広まったことを
考えても長崎の明楽が全国的に注目された様子が伺える。
また当時「寿塔」といって生前に記念碑を建立する亀の台座の墓の様式
が流行ったそうである。虚竹の墓がまさにそうだ。
明が清に変わったのが1644年、漢民族の上流社会は満州族の支配を
嫌って福建州に逃れ、そして福建から長崎へ逃げ込んだ。
明楽の名人も魏之エンや心越のように長崎から日本国中に新しい明楽を
広め、日本国中に新たな反響を呼び起こしたのではなかろうか。
魏之エンの4代、鉅鹿太左衛門の兄、富五郎民部は安永元辰(1772年)に
上京し、家老、酒井雅楽頭の扶持をいただき、舟上で明楽を奏している。
1679年生まれの林さんの探索は続く。
林太卿(楚玉)ー林守デン(仁兵衛)の系統と
林公炎(時亮、一官)−林(官梅)道栄の系統だ。
注目すべきは元禄10年頃(1697)長崎奉行林藤五郎忠和の下向によって
長崎の町中の「林」という苗字は名乗れなくなり、林道栄は官梅を姓とし、
子息の三郎兵衛はニ木姓を名乗った。しかし三郎兵衛の養子となった
ニ木三十郎は平井仁右衛門の実子、のちに官梅姓を名乗るが、平井家と
いえば、のちに平井連山がでた明楽の平井家の祖先ではなかろうか。
1830年天保年間に福建省より林得建が来朝、音斉と号して清楽を
広めたが、その弟子の平井連山と妹、長原梅園は大阪に上り、関西に
連山派を創設、多いに清楽を広めている。
ちょうど近藤宗悦が活躍した時代だ。 夢はどんどん広がる。
東皐心越について
東皐心越(1639〜1695)は中国杭州、西湖のほとりの永福寺より
1676年に清朝の圧政を逃れて日本をめざし、薩摩入りした。
そして長崎に入り、七弦琴を広める。
もともとは関羽将軍の末裔である。
昔の唐僧はあわせて文人であり、書、画、楽、篆刻などに長じていた。
のちにスパイ容疑で捕らわれ、獄中にあったところを水戸黄門に救われ
水戸入りする。
水戸入り後も篆刻や琴で日本の新たな文化をリードし、篆刻界では独立
(どくりゅう)と並び「日本篆刻の祖」と称され、明楽界では「日本琴
学中興の祖」と呼ばれている。
とくに琴は殆ど平安朝以降途絶えていたものを心越が再興している。
ちなみに琴は琴地を動かさないもの、琴地を動かすものは筝という。
「左弦右書」といわれ、琴は君子の必須の教養となったようだ。
琴は音量が極めて小さく幽玄であるため、他の楽器との合奏を嫌い、
あっても簫(細身の尺八)としか合奏していなかったようだ。
中国のことの祖、虞山が使っていた虞山派「松弦館琴譜」を心越が携えて
来たことから、いわゆる琴の本流を学べる、ということで大変流行した。
心越は光圀公の計らいで水戸の達磨寺、高崎の少林寺に住持するが、
水戸の達磨寺では張子の達磨が名物となり、今日でも名物となっている。
水上勉の「虚竹の笛」に出てくる「善応寺」の考察
水上勉著「虚竹の笛」の103ページ
絶涯と虚竹との南屏山での出会いのシーンを水上勉は夢想する。
「海賊もこの頃、−−
ーー南無八幡大菩薩の旗が立っていれば、日本船に間違えた」
「私の船も明船でした。張九齢という船長でした」
「そんな人とどこで知りあわれた」
「長崎の善応寺です」
「善応寺、知らぬ寺の名じゃ」
「崇福寺末です。崇福寺の総門から左手を入ったすぐの所に
ありました」
この下りをもっとよく知りたいために、私は長崎歴史文化協会の
越中哲也先生を訪ねた。
ーああそれは位置的には「廣善庵」のことじゃろう。
ここは林家の2代、林仁兵衛が、父の林太郷を詣った墓だー
林家といえば大通事を勤めた家でもあり、長崎の清楽の普及に
おおいに貢献した家系である。
清楽といえば、当時「興福寺」や「崇福寺」を中心に伝習され
尺八やチャルメラ、明笛、胡弓、琴など、日本では最高水準のものが
長崎で奏せられていた。
「廣善庵」、これも充分に考えられる答えである。
末寺の一つにもうひとつ「廣福庵」という庵もある。
ここは琴古流の大重鎮、吉田一調の高弟、彭城逸調の彭城家が檀家の
寺である。
彭城逸調は後に吉田一調より一調名を貰い、近藤宗悦と共に長崎を代表
する尺八家、「松壽軒」の絵を残したことで尺八史通には知られている人
である。
「廣福庵」も「善応寺」候補の一つとして残してよい。
南無八幡大菩薩なら八幡をまつる「現応寺」説も有力であり、
御朱印船取締の「清水寺」説も残る。
夢はますます広がる。
まさに長崎は歴史とロマンの町である。
「善応寺」と「現応寺」
今日は文化施設めぐりで「清水寺」と「崇福寺」を訪ねた。
そこで幕末の頃、八坂神社が「現応寺」と言っていた、という話しを
聞いて驚いた。
水上勉が尺八の祖、虚竹の何代目かが一時いたという「善応寺」は
実は「現応寺」ではなかったのか、とふと考えた。
敷地続きの清水寺も同じだ。
清水寺は1620年代に創建された真言宗の寺であるが、その後一時、
松壽軒や太平寺にかかわった小曽根家が総代をしていた寺で、随所に
黄檗の特徴のある不思議な寺である。
まさに2寺とも、崇福寺の総門をくぐってすぐ左に位置します。
そしてそこに江戸の「一月寺」の末裔であられる一月和尚が現在おられ
る。誠に不思議なご縁です。
もし水上勉が夢想した長崎の「善応寺」は「現応寺」であり、
飛躍すれば「清水寺」ではなかったのか、と胸が踊る心境です。
ここでも明清楽の主流「小曽根家」が鍵を握るのです。
「現応寺」の紹介
崇福寺の隣り「現応寺」についてのあらましを記載しておく。
天台宗の寺院、
開基は佐賀出身の先達山伏で高覚院大養坊、本山の僧頭巾頭であった。
寛永3年(1626)今籠町に八幡山王の2社を相殿としてまつった。
寛永15年に今の八坂神社の所在地を賜り、社殿を建造した。
2代観了坊盛宿に至り、清僧となり、頭巾頭を伊勢宮南覚院に譲る。
4代吉祥院寛純は東叡山(上野寛永寺)に上がり、その末寺となる。
元禄15年7代舜雄のとき、千團子祭を始めた。
名和3年に出火、全焼、安永2年に再建、遷宮式挙行
安永8年(1780)頃から、唐船船首より毎年、銀31匁の寄付を
貰うことが慣例となる、とあり、唐人とのかかわり、八幡信仰など
興味は尽きない。
いずれにせよ長崎に明楽、清楽が華やかなりし頃のことである。
「虚竹の笛」の時代考察
水上勉著「虚竹の笛」の考察は続く。
聖徳太子が洞簫を吹いていたのが600年代
楊貴妃が尺八を遊んだのが800年代
日本では天台宗の慈覚大師が唐より尺八を持ちかえり、五大山竹林寺伝の
[阿弥陀経」「供養の曲」「供敬の曲」を吹いていた頃。
心地覚心が宋へわたったのが1249年、
杭州「護国仁王寺」から尺八4居士を連れ帰国し、西方寺の開山となったのが
1258年、
明暗寺ができたのが1330年、
一休禅師が尺八をこよなく愛し、宇治の朗庵の朗庵主、絶涯や
一路とたびたびあっていたのが永亨年代(1430〜1470年代)、
長崎の崇福寺ができたのが寛永(1620)年代、
福建省の富豪、魏之エン(のちに鉅鹿氏)が来朝し、明楽を広め始めたのが
1630年以降、
1689年には鉅鹿氏によって唐人屋敷も完成、明楽が黄檗寺を中心に
盛んに演奏されるようになる。
遅れて唐僧心越も入国、7弦琴(古琴)を広める。
黒澤琴古が長崎玖崎寺を訪れたのが1729年、
玖崎寺が寺号を廃し、止宿所「松壽軒」となったのが1750年頃、
福建省より林得建が来朝し、清楽を広め、平井連山や妹の長原梅園と
関西に進出、小曽根家が長崎で清楽に取り組んだのが1830年以降、
この頃から長崎の小曽根家が明清楽の中心となる。
近藤宗悦が長崎で活躍していたのが1840〜60年頃、
こうして並べて見るとやはり水上勉の夢想は1620年から
1800年頃までの長崎、日本では長崎にしかない黄檗寺の明楽、
中でも尺八文化の真髄が長崎にあったことを言いたかったのだろう。
幕末の長崎と尺八、考察
水上勉の「虚竹の笛」以来、少し長崎の尺八について考察してみた。
1571年の長崎開港以来、1620年には最初の黄檗寺「興福寺」が
建立され、1600年代に唐寺3ケ寺が完成した。
1629年に福建省の富豪「魏氏」が長崎へ渡来、帰化、鉅鹿姓を名乗った。
鉅鹿氏4代目の太左衛門の兄、富五郎が上洛、民部と改姓、宮中で
明楽の指導にあたる。
1830年天保年間に福建省より林得建氏が来朝、音斉と号して清楽を
広める。その弟子平井連山と妹、長原梅園をつれて大阪に上り、関西に
連山派を創設、多いに清楽を広める。
「興福寺」で演奏された楽器は19種類、月琴、胡弓、琵琶、柏板
笛、太鼓、銅羅、シチリキ、木魚など、当然尺八もその中の重要な
位置を占めていたようだ。
明楽と亀型の墓
長崎の明楽は中国からの渡来人で崇福寺の創建に功績のあった魏之エン
によって広められた。曾孫の魏君山が民部と改姓、上京して明楽の
師範となり、酒井雅楽頭(音楽担当の家老職)の扶持を受けた。
安永元年(1772)には河原御殿泉水で船楽を奏している。
酒井侯の死去とともにまた長崎へ戻り、筒井景周ら弟子たちに
秘曲を伝えた。
安永3年に没するが「すべて本朝にて明楽流行し候う儀は民部より
弘まり申候」と由緒書にあり、日本での流行は安永以後と言われる。
楽器には唐琵琶、月琴、明笛、胡琴、片鼓、柏板、木魚、シチリキ
それに尺八(簫)など19種類であった。
初代の魏之エンが本国から楽器を持参して魏家に伝えた。
それを図示した本も残されている。
書家の小曽根乾堂らによって明清楽は広められ、幕末から
現在まで続いている継承の系譜は、小曽根乾堂−小曽根キクー
中村キラ・渡瀬ひろ子になっている。
私も会員の一人であり、明笛を担当している。
現在長崎県の重要文化財に指定されている。
明楽は2つの傾向があり、1つは揚子江下流を中心とする北部明楽、
もう1つは福建省南部の南部明楽であり、南部明楽にはメリ込み、
掏り込みが多用されており(琴古系)、北部明楽には深いメリが
少ない(宗悦系、都山系)のが特徴である。
ところで先日、魏之エンの墓を見学にいったが、中国式で墓の形が
亀の形を想像させられた。
また大音寺の開山、伝誉上人の墓も亀の甲羅の上に碑があり、福済寺の
慈母観音様も亀の甲羅の上に立っている。深堀の五官の墓もそうだ。
この亀の墓は隠元とともに明から亡命してきた朱舜水によって国内に
広められた中国式の墓の形である。朱舜水は後に(1665年)
水戸黄門に招聘され、儒学の師として王制復古に貢献した人物である。
その娘、高は鄭成功と結婚し、台湾王となり、清に最後まで抵抗した。
宇治の吸江庵にある虚竹の墓も亀型であり、吸江庵という名の正式な
登場は萬福寺の建立以降、というのだから、興味深い。
虚竹の墓といわれるが、1600年以降の唐人の朗庵主のもので
あるかも知れない。
虚竹禅師奉賛会の酒井理事長と酒井雅楽頭が同姓であることも、
偶然だろうか、と考えたりもする。
朗庵と吸江庵
虚無僧研究会の機関紙「一音成仏」の第5号、6号に宇治市在住の
水野礎空師が地元に住むものとして、私見を起稿しており興味深い。
水野師によれば吸江庵は黄檗の総本山「萬福寺」が創建(1661年)
されて以降に朗庵が再興され「吸江庵」と称されたもので、その所在地
はフケ村と呼ばれ、「フクズミ」「フケのマエ」など、中国福建の地名
呼称が多いとのことである。
土佐の吸江庵出身で晩年、等持寺、建仁寺、南禅寺の住持となった五山
文学の重鎮、義堂周信(1325〜88)の関わりもあったのでは、と
述べている。
義堂周信は号を「空華」といい、その日記「日用工夫集」の中で
「空華庵」や「釣月庵」で遊んだ、という記録を残している。
この頃には「吸江庵」という庵の記述はない。(1381年頃)
朗庵主水噴という句が2首出てくるので朗庵という庵があったことは
事実である。
「釣月庵」主人の祐乗道人の一族に「楽阿弥」と号して尺八を吹いた
「多福庵」「鉄船宗熙」(1409〜1492)がいるが、宇治市史に
よれば宇治填島の古書(1618)に土地保有者「多福」という名が
あり、釣月庵は多福庵の場所であったことを伺わせる。
これによれば朗庵が「空華庵」であった可能性は残る。
「空華庵」に遊んだ「空華、義堂周信」の強い影響で、後世の朗庵主が
空華の出身地「吸江庵」の名をつけた可能性は高い。
空華自身が何代目かの朗庵主であった可能性もないわけではないが
義堂周信が尺八を吹いた、という記録もないし朗庵主水噴という記述
からして本人でないことは明白である。
宇治で当時、行われていた「水燈会」は中国華南華中地方の宗教的儀式
である。宇治が黄檗の慣習、文化を古くから有していたことには注目
すべきで、また同じ日を京都明暗寺で「普化忌」としていたことは、
尺八が黄檗文化であったことを証明している。
当時の朗庵主はやはり福建人ではなかったか、との自論を述べている。
朗庵という庵が昔から存在していたことは確かであり、一休が一路と
朗庵で遊んだことも事実のようだ。
一路が一時朗庵主であったことも考えられないことはない。
朗庵主、恐らく代々何人もいたことであろう。その中から吸江庵の
亀の墓にはいった人を後世の人が「虚竹」と名付け、尺八の祖とした。
この人は一体誰か? 唐人か、一路か、山名義理か、
「虚竹禅師奉賛会」は尽きぬ謎を残したまま、長崎献奏大会を迎える。
探索のポイント
1679年生まれで、1740年没の林さん探索のポイントを以下に示す。
・「翁」というのでかなり偉い。
・「庵主」というから、どこかの庵の主であった。
・当時の長崎の明楽に関わる家系は「魏家、のちの鉅鹿家、民部家」「林家」「彭城家」
「平井家」「小曾根家」等であり、当時の唐通事が明楽を広めている。
・当時、崇福寺から宇治の黄檗山に上がる僧が多く、黄檗山のそばに庵を作った者も多い。
・水上勉の崇福寺の総門をくぐって左、にあるのは廣善庵、林家の墓地があった。
・その上に廣福庵があり、ここは彭城家をまつつている。
彭城逸調は近藤宗悦と並ぶ長崎出身の尺八家、吉田一調から一調名を貰った琴古流の重鎮、
大通事、劉宣義の子孫、10代目で唐人である。
・林公エンの墓はなぜか皓台寺にある。皓台寺は玖崎寺を救済した。
林翁は皓台寺の庵の可能性もある。
林公エンの次男、ニ木茂十郎の子、林右衛門、2代目二木茂十郎が、「唐通事家系論攷」
という本の中ではかなり近い人物だ。
林右衛門は父初代林茂十郎の死により、若くして(16歳)年行事役を継いでいる。
40歳(1704年)でお役ご免となっており、興味深い。2代で絶家している。
・祖父、公エンの号が「一官」といい、「一計」ときわめて似ている。
結論的には皓台寺の過去帳をじっくり調査する必要がある。