美しく終える

 

両親を美しく終えさせたい、というのが私の秘かな「思い」であった。

が、現実はそんなに生やさしいものではない。

男の子が父親から満点の答えを貰えることはまずない。

ないから苦しむのだ。

男の子として、父親から「有り難う、お前のお陰で俺はいい人生だっ

た。お前を子供に持って俺は幸せだった」と、言われたいものである。

郷土に帰り、両親のそばで生活をし、心の中で、必ず最後のめざす言葉

を耳にしたい一心で日々を送った。「あと2ヶ月」と宣言されたとき、

いよいよその命題は私の心の中に燃え上がった。大学病院に折り畳み式

の簡易ベッドを持ち込み、夜だけは私がそばで寝泊まりした。

そして朝から会社に出勤する日が続いた。

当時の会社の社長はとても解ってくれた。「松林、俺はお前のように

親父に死ぬ前に尽くせなかった。今でもそのことが俺の人生の悔いだ。

会社はいいからやれるだけ、やれ」と言っていただいた。

最後の1週間、父は長崎市弓道協会の会長をしていたが、明治神宮か

どこかの大会場の射場に立っていた。

「政寛、1番に入った」私には何のことか解らなかった。

翌日は「政寛、7番に入った」うわごとで私にしきりに話す。

「よかったね」私はゴルフのことかと、そのときは思っていた。

1日もしゃべれず、ガンの苦しみに懸命に耐えていた。

眠るように唯、何も言葉を出せない日が数日続いた。

死の前日、私の手を強く握って、何か小さな声で耳元に話しかけた。

「政寛、13番に入った。」「13番ね、よかったね」

「日本一になったぞ。ついにやった」

「良かったね、日本一になったとね」「うん」

「松林はたいしたもんだった」「大往生だ」

といって、もう一度私の手を握り、嬉しそうに眠りに入った。

実は父はガンの苦しさの中で1週間ずっと弓を引き続けていたのだ。

そして勝ち抜き戦の最後の「13番的の金的」を見事に打ち抜いたので

ある。己の満願を成就したのだ。

家のことも母のことももう今は何の心配もない。そんなことを一言も

私に話すのでなく、自分の男としての最後の姿を私に教えたのである。

そのわずか3年後に、私は母の最後に立ち会った。

北病院の天井に写る夢の世界を母はうつろに見ていた。

「母さん、ネズミ島やろ」「うん」

「あのころは楽しかったね」「うん」

翌日、最後の夜だった。

「政寛、魚が焼けたけん、ガスの火ば消してくれんね」

「もうすぐお客さんが来るけん、掃除ばきちんとしとってね」

これが母が私に残した最後の言葉だった。

父は男の道を貫き、母は主婦としての務めを果たして、この世を終えた。

私の子供としての務めは、充分とはいえないながら、果たせたたことに

今も満足している。妻あってのことだった。

 

我が家の家宝

 

我が家の応接間には一枚の額が掛けられている。

そこには生前、父が脳梗塞で倒れ、生死をさまよった時にいつもそばを

離れず、快復を祈ってくれた母へ「感謝状」と、母の「返書」

母が家の前の溝の掃除をしている最中に倒れ、溝に落ち、頭を強く打っ

て尿が出なくなり、生死の境をさまよったとき、同じようにそばを離れ

ず、懸命に介抱を惜しまなかった父にあてた、心からの「感謝状」が

それぞれ並んで入れられている。

最後まであきらめずにそばを離れず、真摯に自分のことを心配してくれ

るのは妻であり、夫であることを確信し、その思いを形に変えて私たち

子供達に残してくれたのである。

我が家の、他に比することの出来ない、家宝である。

 

父の葬儀の挨拶文

 

本日は亡父、故政晴の為に御多忙中にもかかわりませず参列を賜り、

誠にありがとうございます。

父は明治生まれの気骨を持った男でありました。

昨年の正月、孫にあたる私の長男の政之が地元の三菱重工業鰍ノ就職が

内定したことをことの外喜び、女神大橋の渡り初めを親子3代の夫婦で

渡ろう、その為には自分も足腰を鍛え、母にも健康であってもらわないと

困る、ということで、体の悪い母をせっせと木鉢の温水プールへ連れて

いっておりました。

昨年7月下旬になりまして急に富士山登頂を思い立ち、末娘家族と共に

8月2日、見事に山頂に立つ程、元気な父であったわけです。

ところが、帰宅直後から急に腹痛を訴え、成人病センターで検診の結果、

既に不治の病であり、どうしようもない、との診断でありました。

われわれ家族は耳を疑いました。

こんなに元気だった父が、どうして死ぬなんて…

父にはこれからの人生を歩む3つの目標がありました。

1つは何とか弓道の奥義を極めたい。これからは弓をもっと真剣にやるぞ、

少し解りかけてきた、ということでした。

もう1つは現在、死の直前まで、5741巻まで頑張ってきた般若心経の

万巻達成でした。

もう1つが先ほど申しました、女神大橋の渡り初めでした。

われわれ家族はなんとか父の大願を叶えさせてやりたい、という気持ちで

大学病院で手術を受けることとし、最後の望みを托したわけでありますが、

現代の医学では手の届かない状況に既に至っておりました。

残された貴重な日々を出きる限り普段の生活で終わらせてやりませんか、との

先生方のあたたかい御配慮をいただき、退院し、再び弓道場へ足を運ぶことと

なった次第です。

私自身も父と一緒に30年振りに弓を弾かせていただきました。

その間、駒場クラブの皆様、市弓道協会の皆様には私の無理な相談を温かく

ご理解していただき、父が死ぬ1ヶ月前、あの寒い1月5日の初射会において

長崎市弓道協会の会長としての今生の最後の別れの挨拶

「苦しみの中にこそ、人生の楽しさを求めて欲しい。

 人生の究極の道を極めて欲しい」と

挨拶させて戴いたのがまさしく父の最後の言葉となりました。

翌日、父は自ら再入院を申し出、翌々日、成人病センターにお世話になった

わけです。

母と私と弟と妻の4人で夜を撤して看病し、3人の姉妹達も東京から7回も

8回も足を運びました。

父は死ぬ1日前、私に起こしてくれ、と申し

「今日、遂に自分はやった。13番的に的中した。

 とうとうやった。嬉しい。嬉しい」と私と母に言い残し、弓道人としての

本懐を遂げて、この世を去った次第であります。

人生、この世に生を受けて父を大往生させ得た、という喜びはまさに私にとっても

至上の幸福であります。

そしてこうして大勢の皆さんに送られて浄土へ旅立つ父も本当に喜んでくれている

ことだと思います。

本日は本当にありがとうございました。

                平成4年2月7日    松林政寛