最澄について
最澄 (さいちょう)
767年(神護景雲1)生まれ、822年(弘仁13)に比叡山で入寂。
平安時代初期の僧、日本天台宗の開祖、俗姓を三津首(みつのおびと)と称した。
近江国、つまり滋賀郡三津ケ浜(大津市下阪本辺の湖岸)に生まれ,
父は中国からの渡来人の子孫、後漢の孝献帝の一族といわれている。
『天台座主記』によると父は三津首百枝、母は妙徳夫人となっており、幼名を広野と呼んでいたらしい。
19歳のときに東大寺で正式の僧となったが、当時の仏教のあり方には不満をいだいていた。
弟子の仁忠が書いた『叡山大師伝』によると東大寺の受戒の終わった夏に、故郷に帰り
比叡山寺(ひえいさんじ・のちの延暦寺)をたてて12年の間、一人で修行した。
さらに深く仏教を学ぶため、804年(延暦23)に遣唐使にしたがって唐(中国)にわたり
天台山国清寺で道邃(どうすい)と行満について天台宗の付法をうけ、翌年帰国した。
天台宗とは隋の僧・天台智(ちぎ)を開祖としており、正式名称は天台法華宗と言う。
又真言宗の東密に対して台密とも呼ばれ、南都佛教との最大の相違は一切階成(いつさいかいじょう)
如何なる人間も成仏する事が出来ると言う法華経を土台としたキャッチフレーズである。
帰国後、新しい宗派・日本天台宗をおこした。
弘法大師・空海が密教を学んだのに対して、最澄は天台の法華、達磨による禅、
大乗戒思想の内、六波羅蜜の円頓戒、密教と当時の唐佛教の殆ど全て持ち帰り
四宗兼学を武器に桓武天皇の庇護の下で南都佛教、更には真言宗との対抗手段とした為に
本家中国とは違った日本独自の天台宗となったが、
最澄が望み死後に認められた「一向大乗戒」は日本にのみ存在した緩やかな戒律である。
有名な「山家学生式」を定めて籠山12年の制をたて、
〈国宝とは何物ぞ,宝とは道心なり,道心ある人を名づけて国宝となす〉
また〈一隅を照らす者はこれ国宝なり〉とし、その下に国師・国用の僧階を設けて
天下国家に有用な人材を養成することが比叡山寺の使命であることを天下に公にしている。
死後、朝廷から伝教大師とおくり名された。
信徒数約三百五十万人。 本尊 釈迦如来 寺院数4462ヶ寺
主な経典・妙法蓮華経、阿弥陀経・法華文句、摩訶止観 他