島原新聞1月21日号、1面トップに「島原城の尺八」が掲載される。

 

島原城展示の一節切尺八

秘めるー松平好房公にまつわるロマンあふれる物語

 

昭和44年に有家町堂崎の牧家から島原市に寄贈され、島原城の2階に展示されていた

「尺八」がこのほど専門家(長崎市在住の松林静風氏)の指摘により江戸時代以前に

流行した古い形の尺八「一節切(ひとよぎり)」であることが判明した。

同城では現在、特別コーナーを設けて牧家の系図書や笛の由来書などとともに

展示している。

この尺八は今日一般にみられる尺八(琴古流もしくは都山流など)に比べ、長さが

1尺ほど(約33センチ)と短く、節も中間にひとつあるのみ。

普通の尺八が竹の上部を吹き口にしているのに対し、これは下部を吹き口にしている

という特徴がある。

13世紀頃、「異人がもたらし、宗佐老人に伝えた」とされており、中興の祖として

織豊時代から江戸初期にかけて京都で活躍した大森策翁宗勳(元亀元〜寛永2)が

知られている。(斉藤栄三郎著「尺八―三曲の世界」)

牧家に伝承されてきた「一節切」は由来書によると、同家の祖になる牧(元は松平姓)

重定が天正10年(1582)に持舟城(静岡県、今川領)で手に入れたもので

松平忠房の長子・好房にまつわるロマンあふれる物語が伝えられている。

好房は忠房の前妻の子、故あって京都に帰されたあと生まれた子供。

後日このことを知った忠房はなんとしてもこの子を引き取ろうと計画し、

重臣牧覚右衛門重是(重定の子)にその命を伝えたという。

そこで重是は普化僧になって慶安2年(1649)から4年(1651)までの3年間

「京都の空居」でこの一節切を吹きながら連れ戻そうとしたがダメ、最後に切腹して

果てようとした時、母がその赤心に感じて子を渡した、という。

好房は「資性温良、よく母に仕え、世に孝子の鑑と仰がれたが、寛文9年(1669)

6月父忠房が島原に移封されるのと同時に年齢僅かに21歳で早世」した。

林銑吉氏の著書「杜城の花」(昭和4年発刊)には「尺八笛と松平好房公」と題して

その話が紹介してあり、「粗末な尺八笛の音は誠忠、牧角右衛門の気韻を永久に

漂わすことであろう。これいずれも麗しい郷土の花ではないか」と記されている。

これらの話からするとこの「一節切」尺八が製作されたのは天正10年(1582)以前

ということになる。

「一節切」中興の祖とされる大森宗勳が活躍した時代とも重なることから宗勳との

関わりも浮かんでくる。

「法橋」という銘も入っており、今後の調査が待たれる。