島原新聞3月8日号に掲載
牧家伝来の「一節切」尺八、 写しを島原城に寄贈
追跡調査中の松林さん
深溝松平家の重臣、牧家に伝承されてきた「法橋」銘入り「一節切」尺八(島原城展示中)について
調査を進めている長崎市在住の松林政寛氏(古典尺八竹風会主宰)がこのほど再度島原城を訪れ、
同尺八の写しを(模作)を寄贈した。(写真)
松林氏は現在、島原城展示の「一節切」の作者を追跡中で、同日、これまでの調査で解った事実を披露。
「法橋」銘入りの一節切の作者としては江戸初期の「宜竹(ぎちく)」「是斉(ぜさい)」などが知られているが、
島原城のそれは天正10年(1582)取得を伝える由来書や、笛の作風からして
「さらに古い時代の法橋銘の作品である」ことを明らかにした。
松林氏が、江戸時代の虚無僧寺の総本山・鈴法寺(昔、埼玉県青梅市にあった)ゆかりの法身寺住職で
虚無僧研究会会長の小菅大徹師に問い合わせた返書によると
笛に法橋銘を「焼き印」で刻した人物には「宜竹(ぎちく)」がいる。
ところが宜竹の作品は竹の全体に何重にも「樺巻きが施してあり」牧家の素朴な作風とは趣が異なる。
しかも宜竹が「法橋」に除せられたのは承応4年(1655)のことで
天正10年の70年以上もあとのことである。宜竹の作とは考えにくい。
「法橋」というのは元来、仏教用語で僧位を表す言葉。「法眼」の次ぎに位置し、
「律師」に相当、中世時代には仏像彫刻師や医師、絵師達にも与えられていたという。
牧家伝来の尺八「一節切」の作者を追求する上で手がかりになるのは
「天正十壬年 持舟城二而得一節尺八、重定」の記述がある由来書である。
「持舟城は静岡県静岡市用宗にある中世の城(もとは今川氏が築城)
永禄13年(1570)以降、武田信玄が領有していたが、
天正7年(1579)から数度にわたって徳川家康の攻撃を受け、
同10年(1582)2月23日の再攻撃によって、ついに同27日城を明け渡した。
(静岡県教育委員会編集「静岡県の中世城館跡」)
つまり由来書にある天正10年というのは同城が武田方から徳川方に移った歴史的事件と一致しているわけで、
問題の「一節切」尺八はこのとき、牧氏(松平太郎左衛門重定)が相手方から戦利品として入手したものと考えられる。
その後、天正18年(1590)には豊臣秀吉が後北条の居城、小田原城落とし、
牧氏は同時に落城した忍城(おしじょう)(埼玉県生田市)に
主家・松平家忠(島原松平藩主初代、忠房の祖父)とともに入封している。
北条家の配下には当時尺八が大流行し、のちに浪人が虚無僧となっていった経緯からすると、
「法橋」銘入りの一節切尺八を手にしていた牧家と虚無僧、さらには総本山・鈴法寺との関わりは否めない。
今後の調査を待ちたい。