日本琴楽中興の祖、東皐心越
明楽が長崎から全国に発信されたことは、多くの人の知るところである。
七弦琴を国内に広めたのは東皐心越(1639〜1695)
心越は中国杭州、西湖のほとりの永福寺より1676年に清朝の圧政を
逃れて日本をめざし、薩摩入りした。
そして長崎に入り、興福寺に住し、七弦琴をはじめ黄檗文化を広める。
もともとは関羽将軍の末裔であり、文人として篆刻や琴の名人でもあった。
昔の唐僧はおおむね文人でもあり、書、画、楽、篆刻などに長じていた
人が多く、文化の先導者を務めていた。
しかし心越の黄檗は従来の臨済黄檗とは宗旨が異なったため、先住の
黄檗僧からは嫌われ、どちらかというと孤立状態にあった。
曹洞宗の皓台寺の住職にはかなり精神的な援護を受け、親交が深かった
ようだ。 皓台寺の扁額には心越の書がある。
「常寂光」ーどんな暗闇にあっても、一筋の光になれ、
のちにスパイ容疑で捕らわれ、獄中にあったところを水戸黄門に救われ
水戸入りする。
水戸入り後も篆刻や琴で日本の新たな文化をリードし、篆刻界では独立
(どくりゅう)と並び「日本篆刻の祖」と称され、明楽界では「日本琴
学中興の祖」と呼ばれている。
とくに琴は殆ど平安朝以降途絶えていたものを心越が再興している。
ちなみに琴は琴地を動かさないもの、琴地を動かすものは筝という。
「左弦右書」といわれ、琴は君子の必須の教養となったようだ。
琴は音量が極めて小さく幽玄であるため、他の楽器との合奏を嫌い、
あっても簫(細身の尺八)としか合奏していなかったようだ。
中国のことの祖、虞山が使っていた虞山派「松弦館琴譜」を心越が携えて
来たことから、いわゆる琴の本流を学べる、ということで大変流行した。
また、いわゆる琴と尺八の合奏の原形になり、のちの邦楽合奏の新形式に
発展していった。
心越は光圀公の計らいで高崎の少林山「達磨寺」の開山となるが、
達磨寺の張子の達磨は今日でも名物となっている。
このような貴重な歴史上の史実は長崎にとって大事なことであり、
われわれ郷土に住むものは、もっと真剣にその歴史的背景を認識し
なければならない。