近藤宗悦について
幕末当時,普化宗で禁じられていた尺八と他の樂器との合奏は、
地唄、筝曲の本場である京阪では、すでにかなり行われていた。
明治4年の普化宗廃宗をきつかけに、弦との結びつきは一層強まるのだが、
この関西外曲の素地を作つたのが近藤宗悦である。
宗悦は長崎の出身で、当時長崎で流行していた清楽の太平簫を得意としており、
チャルメラ宗悦という異名をつけられていた。
40歳のころ京都に出て明暗寺に入り,役僧尾崎真龍に弟子入りした。
しかし彼の本領は外曲にあり,筝曲家古川竜斎(山口巌の師匠)を養子に迎え,
地唄、筝曲の手付けを行つた。
体は小さいが尺八の音は素晴らしく大きく、その名人芸を慕つて入門した者は多い。
大阪に居を移してからは当時大阪で最大の勢力を持つた尺八家、嘉竹の門人が次々と入門、
嘉竹自身も宗悦門に転向したという。
明治4年の尺八番付けによると、そこに挙げられた名手の殆どが宗悦門でその勢力は
大正中頃まで及んだ。
こうした宗悦の勢力下にある大阪の地に、明治29年中尾都山が登場する。
中尾都山は明治9年の生まれ、宗悦の弟子、小森隆吉に明暗尺八を習つたといわれ,
東福寺より、19歳の時、虚無僧の免許を許されている。
宗悦は中国洞簫の吹き方に似て、尺八をほぼ水平に構えて吹いた。
都山流では初期の頃は、このラツパ吹きをする人が多かつたことから、
都山のラツパ吹きと揶揄されたこともあり、宗悦の流れを汲む所以でうなずける。
晩年は天誅組や生野の挙兵で虚無僧に扮して往来し連絡役を果たすなど
勤皇党の活動に奔走した。
慶応三年(1867)二月、伊丹にて死去。五十九歳。
墓所は大阪天満橋、善導寺、戒名は清頂軒心浄宗悦居士