永平寺「修行」記

 東高では、昭和58年から63年の修学旅行で、永平寺を訪れています。
 たまたま昭和61年に永平寺で修行されていた方(僧侶)から、お話を伺うことが出来ました。

 その僧侶が勤めた長崎でのある法事の席でのこと、参詣していた女性から、
「永平寺にいらっしゃいませんでしたか?」と、声をかけられたそうです。その彼女とは東高40回生で、修学旅行で永平寺を訪れたときのことを覚えていてくれたのです。
 彼女が覚えていてくれたことを、彼は懐かしがりながら喜んでいました。

 大学を卒業したこの年(昭和61年)、永平寺での修行を決心した彼は、上山一日前に、永平寺がある福井市で、宿泊した旅館の近くの散髪屋さんに行って、剃髪することにしました。

 閉店間際に駆け込んだその時間は夕食時で、ハサミの音とともに家族団欒の様子が奥から聞こえてきました。
 これからしばらく家族と離れて修行する彼にとっては、和やかな団欒の様子に胸を締め付けられるようでもありました。
 始めは店の若主人が応対してくれたそうですが、奥から初老の主人が出てきて、代わって剃髪してくれたそうです。ただ黙々と。

 剃髪も終わり店を出て、ツルツルになった頭を手でさすりながら、「もう、後には戻れないな・・・」と、彼が寒風吹き荒れる外をトボトボと歩いていると、後から初老の主人が追っかけてきて肩をたたきながら、「これから、お山(永平寺)に上られるのでしょう。絶対に途中で逃げちゃだめだよ。最後までやり通すんだよ・・・今日私は、これから修行される方の剃髪をさせていただいたことを誇りに思い、感謝しています。」と、声をかけてくれたそうです。
 主人は、彼の暗い顔を察して言ってくれたのか、30分前に出会った見ず知らずの人の、その言葉に涙があふれ、一層修行への決意を新たにしたそうです。

 修行が始まるとすぐに、一般社会の食事からすると、あまりにも粗食に身体が慣れず、今のご時世では考えられない脚気(かっけ)栄養失調になり、飢えた経験から、食に対して感謝の心を身をもって感じたそうです。
 特に入って一ヶ月は、僧侶の基本を習得するまで、昼間の「作務」と言う肉体労働と、日中止まない先輩和尚の叱責に輪をかけて、夜9時に寝て夜中の1時に起きて勉強しなければならない睡眠時間3、4時間のときが、一番辛かったそうです。
 志半ばで、お山を去る人はこの頃だそうです。

 修行も二ヶ月を過ぎると「行茶」と言う、おやつを頂く時間が許され、
(「行茶」・・・禅では、お茶を一服するのも、行の一つ)
故郷から送られて来たカステラや手作りもなかを仲間たちと食べたときのこと。
 皆、手作りもなかに餡子をどっさりと蓋が閉まらないほど詰め込むので、あっという間に餡子がなくなったエピソードを笑いながら話してくれました。

 そのような辛い修行の日々のある日、
「明日、長崎から修学旅行の団体が来るので、その山内の案内を」と、
同郷の彼が案内役を指名されたそうです。
 彼はその当時の事を鮮明に覚えていました。
 山内を案内中、周りからこぼれる長崎弁の話し声に耳を傾け、故郷、友人への思いを募らせたことや、本来ならば、生徒たちに対しては厳格な態度で接しなければならないのに、ついつい談笑したことを思い出していました。それほど故郷が恋しかったのでしょうね。
 故郷の人達が来るのは、方言が懐かしく、観光客や、生徒たちから励まされたりして、「厳しい修行の中にも安堵感を与えてくれました。」と、話していました。

 一泊していく修学旅行の生徒たちに、山内の案内のほか、掃除の仕方を指導したり、座禅では警策を持ち、禅の修行を体感させていたそうです。

 東高でも、修行体験の永平寺への修学旅行は、平成元年に取り止めになってしまいましたが、体験した生徒たちにとっては、良きにつけ悪しきにつけ思い出に残る修行だったようです。

 最後に彼は、
「物、情報の洪水の中で暮らしていますと、それに流される自分があります。そんな時、あの当時の修行生活をフッと思い出します。その経験をこの場で生かせて行かねばなりませんね…」
と、自分自身に言い聞かせていました。

(2001(平成13)年10月25日談)