5月3日 長崎市公会堂&公会堂前広場
基調講演する
湯川れい子さん
シンポジウム
「平和のためになにができるか」
女性団体の歌とアピール
(公会堂前広場ステージ)
憲法記念日の5月3日「憲法九条守ろう」と「ながさき9条フェスタ」(同実行委員会主催、長崎市公会堂・同前広場)が1500人の参加で盛大に開かれました。この実行委員会には、長崎県九条の会などのよびかけにこたえて40数団体が参加。「9条守れ」の声を一つにするフェスタになりました。城山憲法九条の会もとりくみに参加しました。
土山さんがあいさつ、湯川さんが講演
主催者を代表して土山秀夫さん(「長崎県九条の会」代表の一人、元長崎大学学長)があいさつに立ち、「憲法改定は国民の声でなく政界、財界の主張。最高法規である憲法を安保条約にひざまずかせるもの」、「被爆地長崎から九条の意義を世界に」とよびかけました。
つづいて湯川れい子さん(「女性九条の会」よびかけ人、音楽評論家)が「私の憲法九条―音楽から見えてくる平和について」と題して講演しました。自らの音楽活動や体験、家族の歩みにもふれて、「九条だけは死守します」「戦争を体験している残り少ない世代の一人として、自分の痛みの真実を伝えたい。人の痛みの分かる人間にしか平和はつくれない」と、日常生活のなかで九条を守る行動を呼びかけました。
高見三明・カトリック長崎大司教や学者、被爆者、青年、留学生によるシンポジウムでは、「憲法九条」への思いと「平和を守るため何ができるか」がこもごも語られました。
歌、演奏、展示など多彩な催しも
野外ステージでは合唱、踊り、寸劇、演奏が。広場に張られたブースでは写真展、紙人形芝居、書籍販売、署名など、「憲法九条守れ」の多彩なとりくみがおこなわれました。
城山憲法九条の会ニュース3号 から紹介
湯川れい子さん講演要旨
「私の憲法九条ー音楽から見えてくる平和について」
私は日本にプレスリーやビートルズなど米英の音楽を紹介してきたが、この仕事に関わって今年で45年になる。ある政治家から「湯川さんのような左翼文化人は無責任で困る」と言われたとき、「私は左翼でも右翼でもない、仲よくです」と言い返した。戦争で人生が変わってしまった残り少ない世代の一人として、真実を語りたいと思う。
長崎に久しぶりに来たが、この小さな町に原爆が落ちたことをあらためて再認識した。大変な大虐殺だったと思うが、戦後60年間国家犯罪として国連の場で議論されたこともなかったし、謝ってもらったこともない。広島、長崎に落とされてあたりまえというような当時の国際世論を考えると、それだけひどいことをしたのだと思う。
私も、私の家族も戦争の犠牲者。次兄は海軍大佐だった父の跡を継いで軍人になり、戦争中大けがをしたが、戦後は自衛隊に入り、現在82歳で健在である。私はいつもこの次兄と議論をするが、「もし朝鮮半島から何万人ものボートピープルが日本に来たら。それでも軍備はいらないか」と言われたことがある。しかし話し合いで平和が築けないときに来るのは恐怖と無知だ。世論調査でも憲法9条を変えてはいけないと考える人が国民の半数以上いるのに、それを主張する勢力が旧態然とした左翼と位置づけられている政党であることが残念。もっと人類とか生命とかを基本として主張できないか。ごく普通の人々がこの9条を言えないか。夫婦や親子や隣近所の人たちと9条を議論できないか。日本人がもっとも苦手とすることだが、口で、行動であらわさなければわたってもらえない。人の痛みがわかる人間にしか平和はつくれない。ひどい犯罪が増えている。人の痛みがわからない人間が人を殺すのだ。愛情をすり込んで人間は育つ。子どもをいっぱいかわいがって感性豊かな人間に育てる。自分の痛みだけでなく、人の痛みがわかる人間に育てなければ。人を殺せない人を育てることが大事。音楽や絵が大好きだった長兄は、18歳の時フイリッピンで戦死した。彼が自作の歌と偽って教えてくれた曲が、戦後になってアメリカのジャズだったと知ったときの驚きと悲しみ(ここでその曲ハリージェームズ楽団の「午後の入り江」が会場に流れる。湯川さんは涙で言葉が詰まり、会場ももらい泣きしてしまう)。
戦争をしてはならないと言うこと人間の理念にならなければおかしい。一万人のボートピープルが来ても、いらっしゃいと迎えられるのか。それだけの覚悟で九条のことを言わなければならない。人間にしかできないことは想像すること、夢見ること、歌うこと、笑うこと。夢見る人と言われるかもしれないが、すべての武器を楽器に変えよう。死守するという、それくらいの気持ちを持たなければ九条は守れないかもしれない。