「自分に死ぬことを納得させることが苦しかった」 予科練入隊
広瀬さんが語る「戦争中の暮らし」
城山憲法九条の会は9月10日(土)、学習会(4回目)と他の「九条の会」との交流会を開催(18人参加)しました。
下平作江さん(代表世話人)が「永久に戦争を放棄した憲法は日本の宝物です。守り抜くために頑張りましょう」と挨拶。広瀬方人さん(城山九条の会世話人・長崎証言の会代表委員)の講演を聞き、「平和と憲法がいかに大事か」を実感し、交流会で九条を守る運動をどうすすめるかを学びあいました。
広瀬さんは「戦争中の暮らし」と題して大筋次の通り話しました。終戦後に城山に引越してきた。当時、城山は北一条、南一条などの通りがあり、京都のような碁盤の目の街だった。中学時代は月一回の登校日以外は軍需工場で働いた。学校には校長よりえらい配属将校がいて、「君らは天皇陛下の赤子である。命を天皇陛下に返すときが来た」などと訓示。これに対して「天皇陛下のために死ぬために生まれてきた」と答える生徒がいるほど天皇崇拝と軍国主義教育が徹底していた。
こうした状況のなかで広瀬さんは予科練を受験し、合格。入隊に躊躇する親に「そげんことを言う大人がいるから日本は負けるとだ」といって糸島航空隊(福岡)へ向かった。しかし「自分に死ぬことを納得させることが苦しかった」と。広瀬さんは1ヵ月後病気で除隊と決まったとき「やったぁ」と思った。しかし予科練生の前では「戦争の役にたたない、卑怯者の顔ををよく見とけ」と罵倒され、長崎にもどった。原爆投下の時には戸町の工場にいたために爆死をまぬがれた。戦前軍国少年であった広瀬さんは、終戦後憲法をはじめとする民主主義を知り、戦前の日本の間違いがわかったそうです。高校教師となり、「再び教え子を戦場に送らない」ために、憲法の大事さと核兵器廃絶を訴える運動にとりくんでいることを紹介し、「政府の提案や学者の発言を、戦争の文化と平和の文化に分けて考えよう」と結びました。
広瀬さんは今日、長崎証言の会代表委員として、被爆体験を語り継ぐ運動にかかわり、憲法九条をまもるために、城山憲法九条の会世話人として頑張っておられます
広瀬さんの話を聞いて
楠田昌子さん(城山町・代表世話人・歯科医師)
仕事をしていると、時々ご年配の患者さんから「この頃は戦前の空気にそっくりだ」という言葉を聞くことがあります。日ごろ、「なんだかきな臭いな」という程度に感じていた私は、その言葉にはっとさせられます。実際に戦争を経験された方は、あれこれ考える前に全身でその空気を感じ取られるのでしょうか。そんなことから、私は戦争を経験された方の言葉を、聞き漏らさないようしっかり受け止めたいと思うようになりました。
「城山九条の会」で廣瀬先生のお話を聴かせていただきました。
廣瀬先生は長崎でも名の知れた平和活動家でいらっしゃいます。その先生が、当時自分から進んで予科練に志願され、天皇のために命を落とすことを潔しとした、という事実がとてもショックでした。いかに、国全体の空気が、そして学校での教育が、人々の思想を戦争へと、疑うことなく染めていったかを想像するととても恐ろしくなりました。もし自分が当時生きていたなら、おかしいと気付いたでしょう
か。
今回の廣瀬先生のお話と、その前にうかがった井手さんの戦争体験のお話に共通する言葉に気がつきました。「戦争が終わったとき、こんなにあっけなく終わるものなのか、と思った。」というのです。
あっけなく終わっても構わない戦争に、どれだけの大切な命や人生を犠牲にしたことでしょう。あっけなく終わっても構わない戦争で、敵味方、どれだけの悲しみや憎しみ、恨みといったものを作り出さなければならなかったのでしょう。あっけなく終わっても構わない戦争をするのは、絶対にいやだと思いました。
語る広瀬さん(手前)
2005.9.10.