5)無神論−1

 前回「神が存在することは考えればわかる」と言いました。しかし、それではなぜ世間には神が存在しないと言う無神論者がいるのでしょうか。無神論は昔からありましたが、近代になって文化に大きな影響を及ぼすようになり、第二バチカン公会議はこれを現在の最も重要な課題の一つに挙げています(現代世界憲章19番)。

 無神論者と言っても色々なタイプがあり、大雑把に戦闘的無神論、理論的無神論、実践的無神論の三つに分けられます。最初の二つは神は存在しないと言い切る人たちですが、戦闘的無神論者とは、それだけでなく、神を信じることこそ人間と社会を悪くしている、それゆえ宗教は撲滅しないといけないと信じるマルクスの考えに忠実な人々です。ただ、このように無神論を確信している人は少数派のようですが、この人たちは「なぜ私は神を信じないか」をはっきりさせるので、彼らの主張を少し見てみましょう。

 しかしその前にはっきりさせておきたいことは、「神が存在しない」ことを証明した人はいまだかつていないということです。かつて「神が存在しないことはもう証明されている」という中学生(信者でした)がいてびっくりしたのですが、彼は科学が発達すれば神の存在が否定されると考えていたようです。この幼稚な誤解についてはすでにお話しました。

 本当の無神論者は神と宗教は人間が作ったものだといいます。その代表的であるフォイエルバッハという人は「人間には理想的存在をでっち上げる習性がある。『神』とは、人間がこの習性に従って、全知や全能や永遠といった完全性を備えるものとしてでっち上げられた存在だ」というような説明をしました。この説明は結構世間で受け入れられています。しかし、彼は何かの具体的な証拠からこの結論を導き出したのではなく、その結論こそ何の根拠もない想像の産物です。また、万一この仮説が正しいとしても、「それでは一体この宇宙はどうしてできたのか」という疑問は、触れることさえされずに残ります。

 もう一つ、神の存在を否定する人がよく言うのは悪の存在です。「神が善なら、どうしてこの世に悪があるのか」というものです。つまり、悪があるから神はいない、という論理です。しかし、ここでも先ほどと同じ理屈が通るでしょう。つまり、万が一彼らの議論が正しいとしても、もし神が存在しないなら、悪が起る舞台であるこの世はどうしてできたのか、という根本の問題は何にも解決されずに残るということです。確かに、善の神がいるならこの世界にどうして悪があるのかは誰の頭にも浮かぶ疑問で、教会の中でも最初から大いに善意の人々を悩ました問題です。この問題は避けて通ることはできません。この先「神様とはいかなるお方か」を見るときに、もっと突っ込んだ議論をしましょう。

 ということで、神の存在を完全に否定したければ、この世が神以外のものに原因をもつこと、そして、その原因が何かを示さなければなりません。そこで、神を否定する人は結局この世が永遠である、またはこの世は偶然に生まれた、のどちらかの仮定に頼るしかありません。しかし、もしこの世が永遠であったとしても、それではなぜこの世にかくも完璧な秩序があるのかは無限の知性を考えることなしには説明できないでしょう。それを偶然のせいにするのは、前回見たように非常に無理があります。

 ではなぜそのような無理のある考えに固執するのか。その根本には人間の高慢が潜んでいます。すなわち、神を認めると人間は自由でなくなる、「好き勝手できなくなる」と考えるのです。自分の思い通りに何でもしたいという人は、何が何でも神を否定しようとするのです。しかし、神を否定すれば、人間は解放され真の自由を得ることになるのでしょうか。この考えがいかに酷い誤りであったかは、20世紀に無神論を国教とした国々で、どれほど非人間的な現実が生まれたかを見ればわかります。

 次回は実践的無神論について見てみましょう。


4に戻る   6に進む
目次に戻る