62)最後の審判 |
前回見たように世の終わりには、聖書によれば、まず死者の体が復活し(そのとき生きていた人も一度死ぬと考えられています)、その後審判が行われます。その様子は『マタイ』の25章に詳しく描かれています。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らをより分け・・」と(この他、『黙示録』、20章、11~15)。すなわち、イエスキリストは再度この世に来臨されます。一度目はしもべの姿で来られましたが、二度目は栄光のうちに審判者として来られます。ですから、使徒信条で「かしこより生ける人と死せる人を裁かんために来たり給う」と祈るのです。 公審判は、控訴審ではありません。各自が死の直後に受ける私審判の判決は決定的です。それではなぜもう一度審判をする必要があるのでしょうか。それには二つの理由が考えられます。 一つは、人が自分の死後にも与え続けた影響のためです。例えば、ある人は生前に本を書いてそれによって善い(あるいは悪い)影響を後世に与えることがある。あるいは、親は子供に、教師は生徒に、上司は部下に、あるいは友人に、善い(悪い)影響を残して死ぬことがある。その影響のために、残された者は周囲に善(悪)を行う。最後の審判では、その死後の影響による善悪が加味されると考えられます。悪い模範や行いで他人、特に無垢な子供に罪を犯させることを「つまずき」と呼びます。イエス様はつまずきのひどさを教えるため、こう言われました。「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて深い海に沈められるほうがましである」(マタイ、18章、6)。軽薄な行いや言葉に気をつけましょう。 もう一つは、私審判はまったく個人的なものですが、公審判では各自の真実がすべての人の前に公然と知らされます。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済む者はない」(マタイ、10章、26)と主が言われた通りです。この世では金や権力や暴力を駆使して弱者を踏みつけながら、上手にそれを隠してこの世の春を謳歌している人がいる。他方、貧しく正しく生きながら、強者の不正のために苦しんで死んでいくが、誰も彼を弁護してくれる人はいない、というケースもある。その隠された悪行と善行が公審判ですべて明らかにされるわけです。これが正義でなくって何でしょう。 この審判の結果、最終的な形で善人は永遠の命に入り、悪人はイエスから「私から離れ去り悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」という判決を聞きます。この地上の生活の間は、善と悪が入り乱れていましたが、あの毒麦の譬えですでに教えられたように、毒麦は焼き払うために、善い麦は倉に収められるために集められるのです(マタイ、13章、14~30)。 人間は体とともに、天国あるいは地獄に行くのですが、聖書によればその天国とは「新しくされた世界」です。つまり、聖書によると、この世界も一変するようです。アダムとエバの罪は、どうも自然界にも害を与えたようで、その修復も最後に行われるようです。それについては次回に見たいと思います。 最後に、この世の終わりがいつ来るのかについて一言。使徒たちはイエス様から世の終わりの話しを聞いたとき、それがいつのことかとこっそり尋ねましたが、答えはこうでした。「その日、その時は、誰も知らない。・・子も知らない」(マルコ、13章、4,32)。「子も知らない」と言うのは、人間としてはイエス様も知らないという意味と、その問には答えたくないという意味のようです。神としてイエス様がそれを知っておられたことは間違いないからです。でないと神ではなくなりますので。つまり、終わりがいつ来るのかは、人間には知らされない秘密ということです。人間にとって知らない方がいいからでしょう。ただ、それが来ることは確実だから、「警戒せよ」と何度も繰り返されています。しかしながら、歴史上、「世の終わりがもうすぐ来る」と言っては人々を不安に陥れ、新しい宗教に引き入れようとする運動が時々見られます。その良い例がエホバの証人です(コンプリ神父、『ゆがめられたキリスト』、ドン・ボスコ社、参考)。
むかし長崎である主任神父さまに聞いた話しですが、ある信者が「2年後に世の終わりが来るとて、そんときに○○の宗教に入っとらんば救われんらしかけん、教会ば離るっです」と言われ、「そしたら2年経ったら帰ってこんね」という会話があったそうです。イエス様が教えなかったことを知っている人はないわけで、教会も同じように教えているのに、なぜ教会を信じないで、門外漢の人間を信じるのでしょうか。でもこれに類似したことはときどき耳にします。
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