NO.6
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センターライン

 その軽自動車のシートはブラウンのビニールレザーだ。運転している木寺はステアリングホイールを握りなおし、両腕をまっすぐに伸ばした。シートの上で体を後ろへいっぱいにさげ、腰の位置をきめなおした。背を伸ばし、両肺いっぱいに空気を吸い込み、呼吸を止めた。そして、止めていた息を吐き出し、肩や背から力を抜いた。
 左手をステアリングホイールから離した彼は、手首のダイバーズ・ウォッチを見た。ちょうど午前2時だった。左手を、彼はステアリングに戻した。顎を引いて唇をひきしめ、まっすぐに夜の道路を見ている彼の顔は完璧に無表情だった。ヘッドライトのハイビームが2車線の道路を照らしている。道路を2本の車線に分けているのは、追い越し禁止のセンターラインだ。ブラインド・カーヴが視界に入り、やがて対向車のライトでガードレールが照らし出された。彼は中指でライトスイッチのあるレバーを手前に引いた。
 小さな音をたてて、ハイビームの青い表示ランプが消えた。

そして旅は始まった

 その部屋には、事務用のスチール机が4つずつ、向かい合って並んでいる。どの机の上にも、書類が雑然と置かれている。壁にかけてある時計の針は、午後8時30分をさしていた。中島が残務を始めて時間が過ぎていた。彼はペンを置き、電卓のスイッチをOFFにすると、ため息をひとつ、ついた。腰を再び椅子におろし、受話器をとると、一呼吸おいてから、彼は言った。
「はい、農友会文連です。」
「恐れ入りますが、中島君をお願いします。」
受話器ごしに聞こえてきた声は、木寺だとすぐにわかった。中島と木寺は大学は違うが高校の時からの友人だ。
「ああ、なんだ。」
木寺はふふふっと笑って、言った。
「明日、帰ろう。」

P.M.2:10,出発

 初春というには少し早いような気がする。風はまだ、わずかだが肌には冷たい。しかし、陽射しは充分に明るく、そして、快い。ゆっくりと、しかし確実に春がやって来るのが感じられる。
 道路に一台の軽自動車が停まっている。今はもう生産されていない、ダイハツ・マックスクオーレだ。もともとは真っ白であったのだろうが、年式が古いためか、薄いベージュに見える。小さなボンネットの下には、547cc、並列2気筒のエンジンがおさまっている。そして今、2つのピストンは一定のリズムを刻んでいる。その音は静かではないが、決して耳ざわりではない。小さなエンジンはビートを奏でる。それはまるで、これから始まる長旅への期待と不安に胸を高鳴らせているかのようだった。
 道路にはセンターラインがない。道路の両側には、一定の間を置いて木が並んでいる。その木々は、一枚の葉もつけていなかった。そして所々には、自動車やモーターサイクルが停めてある。
 ドライバーズ・シートには木寺が座っている。彼はステアリングホイールに右手をかけ、左手はシフトレバーの上にのせている。フロントウインドウごしに赤いクーペが近づいて来るのが見えた。運転しているのは、何歳くらいだろう、若い女性だ。クオーレの右側を通り過ぎるとき、その女性の顔が、一瞬、見えた。整った顔だち。彼女を見た十人のうち全員が美人と言うだろう。しかし、その表情は、どこか物憂げだった。低いエキゾーストだけを残して、クーペはバックミラーの中で小さくなっていった。
 中島は運転記録表に必要事項を書きこむと、よし、と言った。木寺はおもむろにギアをローに入れると、クラッチをつないだ。エンジンの音が少しだけ大きくなり、車はゆっくりと動き出した。
 運転記録表には、”P.M.2:10,出発”とだけ記してあった。

地図をたよりに

 車は国道246を下っていた。茅ヶ崎だ。ドライバーズ・シートには中島が座っていた。そういえばサザンの歌に出てきたな、と思いながら木寺はキャビンマイルドに火をつけた。ポリッシュ・シルバーのジッポがカチリと音を立てた。彼が大学に入りたての頃に買ったものだ。小さなキズがかなりついていた。シンプルな機構とデザインが気に入って、半ば衝動買いしてしまったのだ。彼はしばらくそれをもてあそんでいたが、やがてゆっくりと手を伸ばしてライターをダッシュボードの上に置いた。
 薄曇りの空の下を、ウエットスーツに身を包み、ボードを小脇に抱えたサーファー達が歩いて行った。

FROM THE RUTE−1

 1号線に入り、小田原市の表示が出た頃、太陽はもうすでに西へ、その姿を消そうとしていた。サンバイザーも役に立たない。
中島は目を細めて、
「夕日が目にしみるぜ、とでも言っておこう。」
と言って、笑った。

暗闇のワインディングロード

 箱根新道に入る頃、道路はすっかり暗闇に覆われていた。ヘッドライトが、路肩のいたるところにある残雪を照らし出す。木寺はギアをサードに落としているが、120kmまで刻まれているスピードメーターは、40kmを指すのが精一杯だ。
 峠を越えると、今度は一転して急な下り坂だった。木寺の背中にうっすらと汗がにじむ。
 タイヤが短く悲鳴をあげた。

B面の最初の曲

 静岡バイパス、島田バイパスを経て、掛川バイパス。
 道路脇の小さな店で、二人は食事をとった。弁当屋の看板が出てはいるが、テイクアウトオンリーでないところが珍しかった。先に食べ終わった木寺は、煙草の煙をながめていた。
 磐田バイパス、浜名バイパスと、車は快調なペースを維持し続けていた。ナビゲーターシートでは、木寺が寝息をたてていた。中島はカセットを裏返した。スピーカーから”悲しきRADIO”が流れてきた。
 もうすぐ日付が変わろうとしていた。

パーキングエリアにて

 木寺はステアリングホイールを両手でしっかりと固定し、前方をじっと見ていた。車が西名阪バイパスに入ってから、もうかなりの時間がたっていた。エンジンフードの先を闇夜へと延びていくその道路は、もはや高速と化していた。スピードメーターの針は90kmを指し、警告音が鳴り続いていた。それはまるでオルゴールのような、かわいらしい音だった。
 天理から郡山。法隆寺。針は100km以下を指さなかった。エンジンがうなるような音を立て、ボディのあちこちから細かい振動音が聞こえてきた。風切り音が凄まじい。
 木寺は尻をシートに押しつけ、上半身をまっすぐに伸ばした。そして目は動かさずに、片手はステアリングに固定したまま、ダッシュボードの上のダイバーズウォッチ手探りで探すと、横目でちらっと見た。
 香芝パーキングエリアまで500kmの表示が目に入った。やがて減速車線が見えてきた。彼はアクセルペダルを踏む右足を徐々にゆるめていった。スピードメーターの針がゆるやかに下降し、風切り音がフェイドアウトしていった。木寺は普通車のエリアに入り、シルバーのセダンの隣に車を停めると、エンジンを切った。そのあと、そこには静寂だけが残った。
 彼は両脚を投げ出し、両手を頭の上で組むと、上半身をそらし、深く、ゆっくりと息を吐いた。手をステアリングに戻すと、何を見るともなしに、ただ前を見ていた。そのままの姿勢で視線をナビゲーターシートに移すと、中島がぐっすりと眠っているのがわかった。やがて木寺は501のコインポケットから百円玉を一個取り出すと、思い切ったようにドアを開け、車を降りた。外に出ると、彼は全身に冷たい空気を感じた。3月の夜はまだまだこたえた。息が白かった。
 エリアは長距離の大型トラックでいっぱいだ。普通車は片手で数えるほどしか停まっていない。木寺はリーバイスのポケットに両手を入れ、肩をすぼめて自動販売機へと歩いた。”あったかーい”と書いてある販売機を見つけると、缶コーヒーを買った。冷えた体に、それは快いぬくもりだった。トラックの運転手が3人で歓談している。木寺はシャツのポケットから煙草を取り出すと、火をつけて深く吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐き出した。
 ヘッドライトの光だけがアスファルトの上を走りすぎてゆく。彼はしばらくエリアを見渡していたが、煙草を吸いおわると車の方へ歩き出した。あきカンをくず入れに放り込むと、時計を取り出して、見た。午前4時を20分ほど過ぎていた。
 車に乗り込むと、イグニッションをONにした。きしむようなセルモーターの音がして、4サイクル・ツインは始動した。ヒーターのスイッチをONにし、温風が確実に出てくるのを待った。彼はリバースで、フロントが出口の方を向くように車を出すと、ライトをONにして、ギアを入れなおした。

すでに遥か彼方

 藤井寺を経て、終点の大阪で車は西名阪を降りた。大阪駅には午前5時45分に着いた。駅前の広い道路の路肩に車は減速して近づき、徐行して、そして停まった。木寺はエンジンを切ると、眼鏡を外して、顔をマッサージするように両手でなでた。そして右手の親指と人差し指で目をおさえ、しばらくじっとしていたが、やがて眼鏡をかけなおすと、ナビゲーターシートの中島を起こした。
 空はゆっくりと白んでゆく。ここからは2号線を下る。

ON THE ROAD

 木寺が眠っている間に神戸を通過した。
 彼は自分の名を呼ぶ声で目を覚ました。
「ここどこ?」
「姫路バイパスの入口。」
木寺は体に掛けていた毛布を畳んでリアシートに置くと、起き上がった。中島は疲れたような顔をして言った。
「交代してくれ。やべえ、眠りそうになった。」

 姫路城に着いた時、陽はもうかなり高かった。姫路城は、白鷺城の別名にふさわしく、美しく、しかし力強く立っていた。
 塀を囲むようにある道路に、木寺は車をとめた。

 兵庫から岡山。玉島バイパスを抜け、広島市街を経て、西広島バイパスに入った。バイパスを降りる頃、スモールランプを点けた対向車の数が多くなり始めていた。
 宮島は夕闇に隠され、よく見えなかった。
 中島は2号線を山口へ入り、岩国へ向かっていた。彼はステアリングホイールの最も下の部分を右手で軽く握り、左手はシフトレバーの上に添えていた。信号が赤に変わるのが見えた。彼はアクセルペダルから右足を離すと同時にクラッチペダルを踏んだ。車は惰性で走った。彼は停止線、あるいは信号で停止している車と自分の車の間がかなり離れている場合は、しばしばこうして減速した。アクセルペダルから離れた右足がブレーキペダルの上に乗り、3回踏むと、車は停止線でぴたりと止まった。一連の動作の途中、顔は無表情のままだった。

真夜中のセブン・イレブン

 木寺はダッシュボードの上からダイバーズウオッチ取り、見た。午後10時30分ぴったりだった。時計を元の場所に置くと、リアシートの上にあった運転記録表を取り、ルームランプをつけた。そして、それに時刻と走行距離を記入して、備考の欄に”九州上陸”と書き加えた。

 木寺は右手でステアリングを持ち、左手は脚の上に載せ、やや前かがみに背中を丸めていた。やがて前方に、明るく光るコンビニエンス・ストアの看板が見えた。日本全国、どこにでもある規模の大きな24時間営業のチェーンだ。車は減速して、その店に近づいていった。ウインカーが点滅した。
 店の前は歩道だった。そして歩道はその店の一角だけ、車道に向かってごくゆるやかにスロープを描き、小さな駐車場に車を入れ易くするために段差を無くしてあった。駐車場には車が3台停まれるように白線が引いてあったが、白いセダンと薄汚れたワゴンが、もう一台分のスペースを占領していた。木寺はスロープに車体の左半分を乗り上げ、クオーレをとめた。エンジンを切り、ギアをニュートラルにすると、サイドブレーキを引き、外に出た。
 店内には店員が一人と、土木作業員とわかる中年の男達がいた。彼らは立ったまま食べるように作られたテーブルを囲み、ハンバーガーを食べていた。表のワゴンは、彼等が乗ってきたものに違いなかった。
 木寺はレジスターを兼ねているカウンターに歩いて行くと、アメリカンを一つ、と言った。
「SとM、どちらになさいますか?」
彼はMとだけ答えた。店員はサーバーからMサイズの紙コップにコーヒーを注ぎ、キャップをしてから再び尋ねた。
「お砂糖とミルクはお使いになりますか?」
 木寺はいらないと答え、代金ちょうどの小銭を渡し、ありがとうございましたという店員の声を背中に店を出た。
 車にもどり、ドライバーズシートに座って、2日ぶりのレギュラーコーヒーの味を彼は楽しんだ。彼は決してインスタントコーヒーを飲まないし、もうコーヒーは眠気覚ましの役には立たない。いつも、そしてコーヒーの銘柄が何であろうとブラックで飲み、夏でもホットを好む。
 街は静まりかえり、コンビニエンスストアの辺り、そこだけが明るかった。煙草をふかす。昼間の喧騒はどこに行ったのだろう。とても静かだ。コーヒーの湯気でウインドウが曇った。

ギアをサードに落とし、星を見ながら西へ

 鳥栖で2号線から34号線に入ったのは、午前2時15分だった。
 武雄市内でクオーレの前を大型トラックの群れが遮った。木寺は対向車がないことを確認すると、ギアをサードに落とし、パッシングしてからアクセルペダルを踏み込んだ。ガクンという軽い衝撃があって、車は加速した。 メーターパネルからビリビリと音がし、レッドゾーンに入ったことを告げた。ギアをトップにし、再びアクセルを踏み込んだ。数秒後、警告音が鳴り出した。
 トラックが8台連なっていたことがわかった彼は、思わずヒューッと口笛を吹いて微笑んだ。

 長崎まであと何キロ、という表示がいくつも見られるようになってきた。木寺は頭の中で計算をして、60kmで走っても午前4時には長崎に着いてしまうことに気がついた。そこでギアを今度は追い越しをするためではなく、星を見るためにサードに落とし、のんびりと走った。
 スピードメーターの針が下降し、30kmの辺りを指した。

MIDNIGHT AIRPORT

 まだ時間がある。木寺は深夜の空港が見たくなった。大村市内を空港の方へ走っている時、中島が目を覚まして、尋ねた。
 「今、何時?」
 「4時半くらい。」
 「この時間に起きるっていうのも面白いけれども、こんな時間に起きても話し相手がいるというのもまた面白いな。」

 その空港は世界で唯一の海上空港だ。大村市の湾岸から空港まで2車線の道路がつないでいる。両側にある照明に照らされている道路に、クオーレのほかに車の影はない。
 空港の灯が海面に映り、美しい。
 ターミナルビルの前は大きな駐車場になっていて、一方通行2車線の道路がそれを囲み、ビルの正面だけ、車線が4本に増えている。DC10が見える。人影は全くない。
 バックストレッチにあたる直線を車は加速して行く。

PLACE IN THE HEARTS

 車は坂を登っていた。木寺の顔には微笑みが浮かんでいた。ギアをローに落として、ゆるやかなカーヴを次々とクリアしてゆく。最後は右カーヴだった。その先に目指す高校の校門が見えた。
 星降る空の下、二人の目の前に校舎が浮かび上がった。そのコンクリートむき出しの鉄筋の建物は完璧に無機質だった。窓ガラスがヘッドライトの光を反射した。校門の前でUターンすると、右のウインドウごしに街の灯が見えた。それはまるで黒い紙の上に、さまざまな色の宝石を散りばめたように美しかった。

 二人は顔を見合わせて笑った。木寺は、
 「とうとう帰ってきたな。」
 とだけ言うと車を発進させた。
 3月7日、午前5時10分のことだった。
 
 
 

・・・LA FIN
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