野口寧斉について

 

<漢詩中興の祖、寧斉>

日本文学史のうえにおいて殊に詩史のうえにおいて、諌早出身の漢詩人、

野口寧斉の業績は特筆すべきである。

元老伊藤博文、山県有朋元帥、乃木希典大将、渋沢栄一、副島種臣、富岡鉄斉らの

明治の知名士が野口寧斉に師事したことは、当時の漢詩界における寧斉の評価が

いかに高かったかを物語るものであり、しかも政治家、財界、軍人との交流は、

漢詩を通じて当時の日本に大きな影響を与えた。

雑誌「百花欄」を編集して広く詩道の振興に尽くし、「漢詩中興の祖」ともいわれ、

正岡子規とともに、明治詩壇の両雄と称された。

後年、ハンセン病に侵され、闘病の中にあっても文学の道を貫き通した寧斉39歳の

生涯は、まさに「詩壇の鬼才」として生き様を当時の人々に広く知らしめることに

なった。

 

野口寧斉は慶応3年(1867)諌早に生まれた。

父は内閣書記官を勤めていた野口松陽、父の下で寧斉は幼くして漢書を学び、

明治6年、小学校の設立を機に、東京の番町小学校に入学している。

この小学校時代に成績抜群であったため、東京府庁より数回褒章を受けている。

 

明治17年、寧斉が18歳のとき、当時日本漢詩界に名の高かった森春涛・槐南の門に入って

漢詩を学んだ。

以降、明治38年5月12日、39歳で他界するまで、なみなみならぬ覇気とその天性の才気を

もって、日本の漢詩界にその名を上げるとともに、新聞に雑誌に、文芸評論や政論の発表を行った。

 

軍人乃木希典が、非常なる敬意を払って、この野口寧斉に漢詩の添削を依頼したことは、あまりにも

有名である。

また「百花欄」という雑誌の発行を行い、自ら編集の任に当たるなど、自在の活躍を見せ、

著書に「出門小草」「少年詩話」「開春詩記」「三体詩評釈」などがある。

いずれも名著として高く評価されている。

特に「三体詩評訳」は寧斉が漢詩人として全能力を傾注し、作詩法をまとめたものである。

徳富蘇峰、森鴎外、幸田露伴との交友もあり、正岡子規とは詩について激論を交わす仲だった。

 

その名声は全国に広まり、まさにこれからという時に、ハンセン氏病ゆえに生じるさまざまな偏見や

差別のために、寧斉の輝かしい功績は歴史の片隅に埋没し、後世に伝わる機会を逃がしたのである。

自身の身は疾病に苦しみながらも「諌早文庫」の必要性を郷土の有志に説き、諌早の文化振興と

青少年の健全育成を願って多くの図書を寄贈した。

この努力が礎となり、諌早文庫の前身「諌早文庫」が明治37年12月20日に創立され、

今日の諌早図書館に至っているのである。

 

諌早図書館の前身は「諌早文庫」として明治37年12月20日に創立された。

設立趣意書の冒頭に「今般寧斉野口先生の勧めにより、」とある。

発起人は古賀篤介、執行徳郎、その他数十名、

 

<寧斉と乃木希典>

乃木希典が50歳半ば、寧斉がまだ30代のときのことである。

乃木希典は有名な「金州城下の作」という詩を読んだ。

山川草木轉荒涼 十里風腥新戦場

征馬不前人不語 金州城外立斜陽

そして末尾に「御正斧の上、寧斉兄に御示し、可被下候、傾首、右林子」と記す。

20歳も年下の寧斉に兄と尊敬し、漢詩の添削を依頼している。

また明治36年、寧斉が刊行した「百花欄」の1月号には「爾霊山」を投稿している。

 

<野口家のこと>

野口家は代々、医者、祖父、野口良陽は諌早領主の御典医

父は松陽は6歳のとき諌早に戻り、福田渭水の門に入る。

父松陽は才気に富み、出藍の誉れ高く、好古館の教官であったが、明治4年上京し、

三条実美太政大臣に認められ、内閣権少書記官に採用された。

明治7年、大隈重信の幕下で台湾出兵、10年の西南の役にも出向く。

明治14年5月、享年40歳で他界、

 

弟の文次郎は4歳のとき、父の親友である初代岩手県知事、島維精の養子となって、島姓を名乗り、

1高、東大と秀才コースを歩む、のちに京都大学教授となり、文学博士となった。

「帝国文学会」を設立し、機関紙「帝国文学」を発行、

明治30年、京都帝国大学の設立に際し、「図書館に関する事項研究」を委託される。

弟の島文次郎は、兄寧斉の没後、寧斉の蔵書1万冊以上の中から半数以上を早稲田大学図書館に寄贈した。

大学側では「野口寧斉文庫」として学生の閲覧に供し、清朝詩文集のコレクションでは比類なき文庫として

今日に至っている。

大正8年頃から3年間、欧米に留学、帰朝後、3高教授、京大講師、京都女子専門学校教授など幾分冷や飯を食う。

しかし教え子の多くが彼を「人生の達人」と評し、大変な苦渋を背負いながらも、終始ユーモアとセンスに満ちた

おおらかな生き方を貫いた人だ、と敬服していた。

昭和20年10月10日、腎臓炎により、73歳で不帰の客となる。

 

妹の曾恵は寧斉の死後、諌早に戻り「敬老院」で晩年を送る。

 

<人肉スープ事件>

寧斉がこれだけの人物でありながら、なぜ歴史から消えたのか?

それは彼の妹婿、野口男三郎の「人肉スープ事件」によるところが大きい。

 

野口男三郎はもともとは竹林男三郎といい、

明治30年、大阪から上京、東京外国語大学に入学、野口家に書生として同居していた。

やがて妹曾恵と結婚、寧斉は男三郎を養子とし、野口姓を名乗った。

しかし、男三郎はその後、学業についていけず、野口家でも無為徒食、

遂に寧斉と口論、離縁となった。

あとで悔いた男三郎はしきりに寧斉に復縁を願い出る。

そのような中で明治38年の5月12日、寧斉は突然急死する。

 

前日には弟の島文次郎も一緒に談じて帰ったといった矢先だった。謎の急死であった。

 

その12日後の5月24日、薬屋、都築富五郎が殺害されるという事件が起きた。

殺人とともに、350円の現金が盗まれていた。

警察は男三郎を高飛び直前の飯田町停車場で逮捕、

逮捕時に男三郎は270円の現金を所持していた。

また男三郎の部屋から被害者の鞄が発見され、致命的な証拠となった。

 

警察は事件の12日前に亡くなった寧斉の死にも疑念を持ち、寧斉を司法解剖、

復縁を認めなかった男三郎の犯行ではないか、と調べた。

妹の曾恵も事情聴取を受けたし、弟の島文次郎も前日に何かトラブルがなかったか、調べられた。

 

丁度この事件から3年前の5月3日、11歳の少年が殺害され、

尻の肉が切り取られる、という事件がおきていた。

当時人肉をスープにして飲めば、ハンセン氏病が直る、という迷信が広がっていた。

警察は男三郎が寧斉に好かれようと、この少年の尻肉をスープにして寧斉と曾恵の飲ませたのではないかと疑った。

 

この事件は興味本位にマスコミに取り上げられ、歌まで作られるという始末だった。

一旦は男三郎は警察の執拗な拷問に屈し、犯行を自供した。しかしその後自供を覆し、無罪を訴えた。

 

明治39年3月に公判があり、男三郎は寧斉殺しと、少年殺し事件は自供を否定、無罪、

しかし薬屋事件は有罪となり、41年に死刑が執行された。

人肉スープ事件 http://www1.cncm.ne.jp/~seifu/jinniku1.htm

 

この事件は結論的には証拠不十分で無罪になったものの、野口家にとって致命的な傷となり、

世間から冷たい目で見られた。

その後の弟、島文次郎も事件に絡んだ偏見で閑職に甘んじながらも、苦渋を背負いながら

人を恨まず、ユーモアを忘れなかった人間性に対する高い評価や、

妹曾恵の諌早敬老院での生活を記した、手塚登望著の「寒空の梅」という著書で

「仏陀ににも似て」と形容された曾恵の人間性紹介によって少しずつ野口家の名誉が復権されてきつつある。

 

<出門放歌>

 

疾風吹屋塵繞膝   疾風、屋を吹いて 塵、膝をめぐる

倮然一身苦抱疾   ら然の一身   抱疾に苦しむ

矻矻窮年不看山   こつこつの窮年   山を看ず

萬斛鄙吝除無術   ばんこくのひりん 除くに術なし

故人勧我白雲遊   故人我に勧む  白雲と遊ぶを

躍然而起興乃逸   躍然として興を起こして 乃ち逸す

忙中倫閑閑亦忙   忙中閑を倫にして 閑も亦 忙がし

算来今年明日畢   算え来たれば 今年も明日おわる

是誰破膽文送鬼   是れ誰ぞ はたんの文を鬼に送らんや

我欲被襟談捫虱   我襟を開きて捫虱を談ぜんと欲す

是誰紫陌拝新年   是れ誰か紫陌にて新年を拝せん

我欲青山繙異帙   我は青山にいちつをひもとかんと欲す

人間姑絶間応酬   人間姑らくの間 応酬を絶たん

望外肯求新撰述   外を望んで肯えて新撰述を求めん

抗手乱山何處邊   手をあぐるは乱山何處のあたりぞ

出門笑掲登程筆   門を出て笑って掲ぐ 登程の筆

 

書日巳丑臘月三十日

 

嵐がわが家に吹き付けて 土埃が膝元に一杯になる。

わが身は病気を抱え、苦しんでいる。

こつこつと年を極めるのが精一杯で、全てに余裕もない。

多くの卑しい心を取り除く術もない。

知人が私に白雲と遊ぶことを勧めてくれた。

躍り上がらんばかりに心が弾む。

忙しい中にも閑かな時間を友にすると、閑もまた楽し。

数えてみれば今年もまた明日で終る。

誰が鬼祓いの恐ろしい文書を鬼神に送るのか

私は襟を開いて無頓着な話をしたいのだ。

誰が今更都にでて新年を拝むのか?

私は青山に赴いて新しい書を読みたいのだ。

世間のこせこせしたお付き合いはもうやめにして

新しい著作の道を求めようと思う。

奥山のいずこで山の神に挨拶をしようか?

門を出るときは笑って旅発ちの書を掲げよう!

 

明治22年12月30日 書す