松林家の歴史

 

昭和62年に松林政寛著「松林家の歴史」という本をまとめた。

その一部を紹介する。

 

1−1 編集の動機

 

 人には皆先祖があり、自分の祖先がどんな人達であったかを知りたいものだ。

私の場合も郷土に戻って毎日を送るうち、ふと自分のルーツについて考えたくなってきた。

だんだんと世代が核家族化し、クールになるにつれ、子孫に多くを語らなくなり、一方

祖父や父から自分の先祖の話を聞けず、のちに子供達にそれらを請われても、どうにも

説明のできない人もたくさんいる。

家の歴史、伝統を知らない、ということは、本当に大事な生涯の決断を迫られたときに

心の糧がない、ということである。

先人の苦労を知らないために、りっぱな家系を消滅させた例もたくさん見る。

是非家系の家訓を残し、子孫に立派な生きざまを伝えたいものである。

このような観点から、自分の祖先をしっかり知り、祖先がどのように生きてきたか、

また自分自身がどのように生きてきたか、を後世の子孫に伝えることの重要性を感じ、

今回「松林家の歴史」と題して、起稿することとした。

(中略)

いずれにせよ、深堀藩の一介の御用鍛冶であつた先祖から、乞食同然の苦悩の日々を経て

遂には内閣総理大臣賞、陸軍大臣賞を受賞する郷土史に残る刀剣家、祖父、松林政重が

世に現れた歴史の背景に、それがただ個人の努力として片付けるのでなく、先祖代々から

授けられた宿命に似たものがそこにあったのではないか、と感じずにはいられない。

松林家に代々ある直情径行、負けん気の気概は今日まで脈々と伝えられている。

 

2−1 深堀時代の松林家と大渡家

 

大渡政重― 正助 ― 秋太郎(松林家に養子入り)

大渡政十― 米一 ― 米八(松林家に養子入り) 

松林某 ― 松林秋太郎 ― 米八 ― 政重 ― 政晴 ― 政寛 ― 政之

 

2−2 高島の石炭と深堀鍛治町

 

高島の古文書「高島記」によれば炭山は以前よりあり、主として深堀鍛冶炭に用いていた。

当時、五平太と称する者が平戸領より来て、まふの近くで新しく採炭を始めた、とあり

五平太によって石炭が発見され、事業家されたことが伝えられている。

 

五平太は平戸の農家に生まれ、幼くして両親を失い、長崎来て、深堀の領主、鍋島氏の下

で仕えた。そして老齢と成り、領主に暇を戴いたとき、領主から当時無人島であった

高島を戴いた。

ところがある日、黒い石が燃えるのを発見、これを深堀の鍛冶の燃料として使うことを

考え、領主に相談した。領主は大変喜び、主だった鍛冶屋を集め、燃料の試用を命じ、

自身も鍛冶場に赴き、実験に立ち会った。それは大成功であった。

こうして宝永7年(1710)頃から五平太により高島の燃料炭掘りの事業は開始された。

 

亨保元年(1716)になって領主は高島を直営とし、高島の小浜というところに年番小屋

という番所をもうけ、1年交替で役人を派遣、事業の監督に当たらせた。

燃料の噂は全国に広がり、特に塩田業者がこれに目をつけ、注文が殺到、船団が連日の

ように高島を訪れ、鍋島氏の大きな収入源となった。

無人島が一躍宝の山に一変した。

 

松林家と大渡家、両家の結びつきは、このようにして石炭事業と鍛冶業という関係の

中から生まれたのであろう。

そして松林家は石炭事業によってかなりの財をなしていたものと思われる。

松林源蔵4代の源蔵がトーマス・グラバーと近代採炭技術で高島の開発に取り組むが

2代源蔵や3代源蔵の身内が先に深堀に来て、在住している事実からも、恐らく近い

関係の身内が石炭事業に従事していた家系であろう、ことは類推できる。

祖祖父の米八が鍛冶の最中によくこぼしていた言葉がそれを物語っている。

「あのとき、水さえ出ていなければ、」と

 

のちに高島は露天掘りから次第に井戸掘りに変わって行き、水との戦いによって

採算が急激に悪化して行く。そして佐賀藩の資金的援助を仰ぐようになる。

ついには文化14年(1817)事業は佐賀藩の藩営になり、生産拡大に力が注がれた。

そして松林源蔵により、近代式高島炭坑が誕生するのである。

 

2−3 深堀時代の住居、工場、墓地

 

沢子叔母の話によると、政重健在のころ、深堀の志波原三郎村長より連絡があり、

松林家の先祖が事業失敗により手放したらしい土地家屋が、さらに転売されることに

なっているので買い戻さないか、との相談があったそうである。

政重は結局それに応じなかったが、志波原村長に沢子叔母が同行し、現地を検分した

ところ、武家屋敷の一番奥に位置し、土塀で囲まれており、近くの道路には溝が

あったようだ、との話であった。

松林家が高島炭坑で水没により破産状態に陥り、深堀を去るが、その借財の清算の

ため、私財を処分せざるをえなかった事実が思い起こされてくる。

手放した住居が武家屋敷風であった事実をみても、一時はかなりの財をなしていた

ことが推測される。

重晴叔父の話によれば松林(大渡)の昔の鍛冶工場は今青年会館になっている、と

昭和の始め頃、政重が語っていた、という。

この話について脇崎氏に尋ねたところ、昭和6年頃から、田中家の本家の屋敷を

(現在の田中哲磨氏邸)青年会館に使っていた、という。

鍛冶町の大渡家の屋敷あとは、小川雄一郎邸のすぐ前にあったらしく、現在の

小柳邸、村上邸あたりであったようだ。先ほどの田中邸とは隣り合わせである。

とすれば、田中家と大渡家は極めて近い姻戚関係にあったのではなかろうか。

のちに述べるが、大渡家の墓地跡と見られるところも、田中氏がのちに

管理し、今は田中家の墓地として新しく築造している。昔、松林家の墓の跡は

現在、小川イネという人の墓地となっており、小川家の墓地のすぐ近くである。

 

 

2−4 松林家先祖探求の糸口

 

これまでに判明した松林家探求の糸口をたどると、以下に要約される。

 

1.    鍛治町で死んだ松林姓の人は見つからなかった。

しかし大渡家は確かに鍛治町に住んでいた。

2.    菩提寺には松林姓の納骨者はいない。

大渡政重、正助、政十の妻、娘は菩提寺で没している。

ただ政十と米一の名は菩提寺過去帳には記載が無い。

大渡政重は当時、苗字を許された御用鍛冶の棟梁で

「壽」名を戒名に貰うほどの人格者であった。

祖父、政重は先祖の政重名を戴いた、と聞いている。

3.    松林家の菩提寺は円城寺である。

 ただ鍛冶町在住の松林姓の記載はない。

多分、脇崎氏がいうように、永江か亀ヶ崎に当時住んでいたはずである。

近代高島炭坑の創始者、松林源蔵とは、何らかの縁戚関係にありそうだ。

数代前に採炭事業に参画するため、鍋島藩から来村した事業家であった可能性が強い。

我が先祖は1700年代に佐賀鍋島の東寺井村、為重村あたりから、長崎御番の

ため来村した人達であり、そもそもは士族であったのだろう。

採炭事業家の松林家と御用鍛冶の大渡家がいつか合体したようだ。