吹禅礼讃 

                   古典尺八竹風会へのご案内

  せっかくこの世に生を受けたのだから 二度とない人生を充実させたい。

   一休禅師のように、無心に、 瞑想の境地に浸って、仏陀の心を吹く。

    それが吹禅、私を変える。  一音成仏、 虚無の世界。

 

人生80年、人として定年後のいわゆる「老後」は人生の最終段階であり、最も内面的に

充実し、かつ周囲の人々に尊敬され、人生の師として仰がれつつ、送りたいものである。

最も光り輝いていたいその反面で、定年を迎え、ふと我に帰って自分の周りを振りかえった

とき、「何も無かった」という人々が多いということは世代の風潮とはいえ、残念なことで

ある。

さて、日本人の心の中には、尺八の音色は遠い昔の郷愁に似て懐かしく根ずいている。

誰でも一度は尺八を手にして、吹いてみたいという衝動にかられた経験を持っているに

違いない。

だけどもなかなか手にすることも、上手に吹くことも出来ないまま、年齢を重ねて行く。

吹奏が難しいことにも一因があろう。

あるいは現実の世界とあまりにかけ離れた世界だと思っている人も多いに違いない。

いずれにせよ、良いと思いながらなかなか実際に若い時代からやる人は少ない。

そして、晩年になってふっと我に帰ったとき、その衝動は改めて、倍化して燃え上がる。

尺八には何か、自分を慰めてくれるもの、あるいは、自分の心を写す何かがある、という

ことを多くの人が感じているからだろう。

やってみたい、あの素晴らしい音色に自分自身も浸ってみたい、と思う人が最近、

世界的に増え続けている。

さて、尺八を吹く人は県内にもたくさんいる。また指導者と称する人も少なくない。

ただ、残念ながら、尺八の本質を充分に知り尽くし、聞く人の心を魅了させうる尺八家は

きわめて少ない。

我が師、故鈴木多聞師は常々話された。尺八の音色はその人の気息であり、魂の現れである、と

基本的にその人の魂が磨かれ、清められなければ、人を魅了するような澄んだ美しい音は

生まれない。ただ単に音が大きいとか、技巧がうまいとかというだけでは、人々の感銘は

得られない。まず、尺八を吹く前に、魂を磨きなさい、と。

確かに30余年の尺八生活を経て、最近私も少しずつではあるが、師のいう言葉の意味を

実感として味わうことが出来るようになった。

毎日、正座し、一音一音を自分の毎日の精神練成の成果として確かめつつ、無念無想の

世界へ没頭して行くことが、楽しみに変わりつつある。

そして辿り着いてゆくのが、そもそも尺八本来の世界、すなわち「吹禅の世界」である。

  

 鹿野町の町並みを行脚する虚無僧愛好家、後ろの網代傘が私達夫婦である。