10)創造−2

 聖書の冒頭に「はじめに神は天地を創造された」という文があります。聖書を他の民族の神話と同じように考える人もいますが、この最初の文だけでも聖書がどれほど唯一無比なものかが分かります。この文は、神が無から、つまり何の材料も使うことなく、この宇宙をお創りになったと言うのですが、この無からの創造を教えるのは聖書だけです。他の神話はすべて、何か混沌とした、形のないものがすでに存在していて、それを使って神がこの宇宙を形作っていった(あるいはその混沌から神が生まれた)と説明しています。どうも、無からの創造は神様が啓示されなければ、人間は思いつかなかった真理のようです。

 現代でこそ、宇宙は無限ではないことが知られていますが、科学の発達がなければ宇宙を無限と考えても無理はないでしょう。それほど大きなこの宇宙を無から創るなんて、実際考えられないことではないでしょうか。そう考えると、聖書以外の神話がそのような天地開闢の神話を語ったのもうなずけると思います。

 この無からの創造という教えから若干の重要な結論が生まれます。まず、それは神の全能を表しているということです。マジックでは「種も仕掛けもございません」と言いますが、その言葉を信じる人はいないでしょう。もし種も仕掛けもなしに、思いのままに物を取り出すことができるなら、その者は何でもできる、つまり全能のお方になる。無と存在の間には無限の距離が横たわっているので、この距離を越えることができるのは無限の能力をもつ者だけです。

 人間も何か新しい物を作りますが、その場合は必ず何かの材料を使います。例えば彫刻家は、材料の木を削って作品を作るのですが、彼は作品に「存在」を与えるのではなく、「形」を与えるだけです。ですから、作品は作者がいなくなっても存在し続けます。これに対して、無からの創造の場合は、神は「存在」を与えるのですから、もし神が手を引けばその作品は無に帰してしまうのです。このことは私たちも実感できることです。ちょっと考えてみてください。私は今存在しようと思って存在しているのではないことを。別の言い方をすれば、誰も存在するために苦労しているのではない、つまり、「存在させてもらっている」ということです。日本でもときどき「生かされている」という言葉を聞きますが、もう一歩進んで、誰に生かされているのかを考えればいいのにと思います。

 でも、神は存在を無に帰することがあるのでしょうか。答えは聖書に出ています。「あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたがお呼びにならないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」(知恵の書、11章、24〜26)と。

 ここから出てくる結論ですが、私たちは神が望まれたので生命を受けたのです。つまり、誰も偶然に生まれ、偶然に死んでいく(もしそうなら人生は無意味となります)のではなく、神に愛されているので存在している、そしてもし私たちが良心に従った生活を送るならば、永遠の生命に招かれているということです。日々の忙しい生活の中で、このような深い真理をときどき思い出すことは、つまらない悩み事から解放されるためにも良いのではないでしょうか。


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