47)罪−1

 キリスト教は人間をきわめて高く評価します。その根拠は、人間が「神の似姿に創造された」という事実ですが、また前回見たように神の恩恵によって「神の子」となるという事実にもあります。しかし、同時にこの社会を見ていると、あるいは私たち自身の内部を見ると、人間がとても神の子には見えないと思えることもあるのではないでしょうか。

 この人間の暗い面の底にあるものが「罪」という現実です。罪とは何でしょうか。罪にはいろんな定義があるのですが、ここでは「悪いことと知りながら、自由に神の掟に背くこと」という定義をとりたいと思います。

 ところで、ずっと以前、「神はよいお方なのに、どうしてこの世に悪があるのか」という問題を説明していたときに、悪には二種類あると言いました。つまり、自然災害などの「物理的悪」と呼ばれるものと、人間の自由意志から生まれる「罪」。そして、後者、「罪」が本当の悪である、と。ある聖人がこう言っています。「我が子よ、忘れてはならない。この世において、神の恩寵の助けを得て避けるべき悪、おまえが恐れるべき悪は一つだけだ。それは罪である」と(聖ホセマリア、『道』、386)。この聖人は子供の時、お母さんの友達が家に訪問してくるのが大嫌いで(というのは、そのような場合、子供は玄関に出て行って訪問客にキスをするのが礼儀だったのですが、ご夫人方の中にはすごい厚化粧をした人やヒゲをはやしていた人もいたからだそうです)、来客が玄関のベルを鳴らすとベッドの下に隠れました。そうするとお母さんがやってきて、やさしく「ホセマリア、恥ずかしいのは罪を犯すことだけです」と言ったそうです。この言葉には神学的に深い意味があると大きくなって理解できたと言っています。

 でもなぜ罪はそれほど悪いことなのでしょうか。その理由は三つあると言えます。一つは、罪(特に大罪)を犯すと成聖の恩恵を失い、その状態で死ねば永遠の罰を受けるからです。永遠の罰を受けるということは、人生の唯一最大の失敗ですから。しかし、これは消極的な理由です。罪を恐れる本当の理由はあとの二つにあります。

 二つめの理由は、上に定義したように、罪が「神に背く」ということです。このことの悪辣さは、親不孝の子供を考えると理解が容易になるかも知れません。親から生命を受け、立派に育ててもらい、生活費と学費を出して貰っている大学生が親を軽んじるならば、「こいつは何という恩知らずか」と情けなくなるでしょう。人は神に対し、子が親に対するよりももっと絶対的な依存の状態にあります。人は神様からすべてを受けているのです。それなのに神に逆らうというのは、これ以上嘆かわしい悪はないと言えます。

 と言うと、「しかし罪を犯すとき、人は必ずしも神様を侮辱しているという意識がわるわけではない」と言われるかも知れません。確かにそれは事実です。しかし、こう考えてください。ある家族で両親が、「これからは毎日みな一緒に夕食をしよう」と決めたとします。しかし、ある子供がそれをまったく無視して、毎日自分の好きなときに好きなところで勝手に夕食をしたとしましょう。それで彼が「いや僕はお父さんたちを侮辱したいと思っているわけでは全然ないよ」と言ったら、どう思いますか。「いや、ご両親の決めたことを軽んじるなら、それはご両親を軽んじていることになる」と言うでしょう。同じことで、意識の中には神様はなくても、「神の掟に背くこと」を行うとき、人は善悪をお決めになった神を侮辱しているのです。

 「罪を避けるようにしましょう」というと、「それは消極的な生き方や。そうと違うてもっと積極的に愛によって生きんとあかん」という反論が聞こえてきそうです。確かにそうです。でも、親を喜ばせたいと願う子供なら、まず親を悲しませることを避けようとするのが当然ではないでしょうか。罪の恐ろしさには、もう一面がありますが、それは次回に回したいと思います。


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