50)罪−4(大罪)

 先月は脱線しましたが、また「罪」の問題に戻ります。

 人間は体と霊魂から出来ていますが、体と霊魂はある意味で平行関係にあります。罪とは霊魂に害を及ぼすものですが、それはどのような害でしょうか。

 人間の体は普通の状態では健康ですが、病気になることもあります。でも病気には危険な病気とそうでない病気があります。危険な病気とは、体に深刻な害を与え、一つ間違えば死に至らせるかも知れないものです。

 同じように、霊魂に害を及ぼす罪にも、軽重の差があります。聖書を読むと、罪には「神の国から除外される罪」とそうでない罪、の二種類の罪が出てきます。聖ヨハネは「死に至る罪」と「死に至らない罪」(第一の手紙、5章、16~17)と表現しており、教会はこの二つを「大罪」と「小罪」というふうに呼んできました。つまり大罪とは「霊魂を死に至らしめる」、すなわち「神の国から除外される」罪のことで、それが「霊魂を殺す」ということです。

 しかし、大罪とは具体的にはどういう罪でしょうか。聖書には「それは姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、・・このようなことを行う者は神の国を受け継ぐことはできません」(ガラテヤ、5章、20~21)とありますように、大罪を犯す人は天国から除外される、言い換えれば地獄、永遠の滅びに落ちることになります。これが、この世の中で唯一の本当に恐るべき悪です。別の言い方をすると、大罪を犯すとき、人は天国への切符ともいうべき成聖の恩寵を失うのです。

 ただし、すでに見たように、「罪とは悪いことと知りながら神の掟に背く行為」です。つまり、知性と意志を十分に発揮して自由に犯す場合に成立するものです。ですから、たとえ重大な悪い行為をしても、十分な知性の認識か、または意志の明白な同意がなければ大罪にはなりません。そこで、教会は大罪というものが、「重大なことがら、十分な認識、完全な同意」の三つの条件がそろったときに成り立つと教えています。

 これに対して、ある人たちは「はっきりと神様を排除して自分を選択(基本的選択と言います)して犯す罪」だけが大罪だとしました。もしそうならば、たとえば姦淫を犯す人も、別に神様を憎んでいるわけではない場合もあるわけで、そのような場合は大罪を犯したとは言えません。ということで、この考えなら大罪は極めて稀にしか犯されないものとなります。

 しかし、教会は1984年の『和解とゆるし』17,1993年の『真理の輝き』2章、3、そして『カトリック教会のカテキズム』ではっきりとこの考えを否定し、伝統的な教えを再確認しました。これは非常に大切なことなので、よければご自分で読んで頂きたいと思います。

 ある家族で親が子供たちに仲良くすることを頼んだとします。ですが、ある子供がその頼みをまったく無視して小さな弟をいじめてばかりいたとしましょう。その子供が「僕は弟をいじめるけど別にお父さんたちを憎んでいるわけじゃないよ」と言ったとしても、その子が親の言いつけをひどく踏みにじっていることには変わりはないでしょう。そして、その子に親への愛情がないことも確かでしょう。神への憎しみという感情はないが、平気でわいせつな行為や愛に欠く行為をする人は、この子供と同じです。

 つまり、自分の楽しみや利益で頭がいっぱいで、神のことにまったく無関心、すなわち神への愛がまったくない生活なのです。別の機会に地獄のことを説明するとき、またこのことを扱いますが、地獄に行く人は、「地獄に落とされる」のではなく、「自分からそちらに行く」という方が正しいのです。この世でまったく自分中心の生活をした人が、死後になって今さら神と人を愛するのは難しいことだろうと想像できるでしょう。

 それでは逆に「大罪は地獄の罰を招くから絶対に避けるけど、小罪はいくらでも犯す」という人は大丈夫でしょうか。これについては次回に見てみたいと思います。


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