51)罪−5(小罪)

 外国のお話しです。ある高校生が机に聖母の御絵を置いて勉強していました。それを授業中に見つけた先生が、大きな声で皮肉っぽく「お前は毎週日曜日にミサに行っている奴らの一人か」と言ったところ、彼は「いや違います。僕は毎日ミサに行っている奴らの一人です」と答えたのです。授業が終わるとクラスメートから拍手を受け、もっと宗教について教えてくれ頼まれたそうです。ミサに参加するとは、神様を称え礼拝し全人類のために祈願することですから、これは恥ずべきことではなく、自信をもってしかるべき行動です。それを茶化す先生とあの高校生の態度は対照的ですね。

 さて、今は罪について見ていますが、罪の中に大罪と小罪があり、前者は霊魂の死、後者は霊魂の病気のようなものだと先月話しました。もしそうなら、大罪さえ気をつければ、小罪をいくら犯しても救いは大丈夫、という考える人が出てくるかも知れません。何かけちくさい態度ですが、それでいいのでしょうか。

 イエス様は神様を「父」と呼ぶように教えられました。ならば、私たちは神の子なのです。ところで、罪とは神に対する侮辱です。それならば、「大罪は犯さないが、小罪はいくらでも犯す」という態度は、ちょうど親に対して「お父さんとお母さんに暴力を振るったり財産に害を与えたりは絶対にしないけど、その他のことではお父さんたちと何の関係も持ちたくない。勝手にやらせて」と言って、親を喜ばせることはもちろん、挨拶もしない、親が困っていても助けようともしない、つまり赤の他人のような態度をとる子供と同じと言えます。こういう子供が親に対して愛情を持っているとは言えないでしょう。それであとから親に「おまえはわしたちの子供とは言えん」と言われても、当然ではないでしょうか。

 この問題を考えるとき、マタイ福音書の25章にある、「5人の愚かな乙女のたとえ話」と「タレントのたとえ話し」はとても参考になります。あそこで断罪されるのは、結婚式の披露宴に招待されながら油を準備するのを忘れた乙女たちと、主人から預かった1タレントを地中に埋めてそのまま主人に返した僕(しもべ)です。この人たちは、別に殺人や姦淫や盗みのような具体的な悪事を犯していないのに「わたしはおまえたちを知らない」(はっきり言うと天国から閉め出される)と神に言われる。それは、彼らの怠慢が、単なる無精の結果ではなく、愛のないこと(披露宴の新郎新婦に対して思いやりを持っていなかったため、油を十分に準備しなかった乙女たち。主人を喜ばせようという気持ちがなく、汗を流すことを注意深く避けた僕)の結果と言えます。ですから、小罪はたいしたことはないと見下すことは危険です。

 小罪には二種類あると考えられます。一つは弱さの罪。もう一つは確信犯とも言える小罪です。前者は、たとえば夫婦喧嘩や兄弟喧嘩、あるいはすぐ怒ってしまう罪などのように、完全に避けるのは不可能なもの(トレントの公会議では、小罪を全く犯さないためには特別の神の助けた必要と宣言されました)で、ある程度仕方がありません。しかし、後者は罪を避けるために努力もせず何度も繰り返して犯す小罪です。この後者は、その人に神への愛がないことを表す罪です。弱さの罪もそれをほっておいてよいわけではありませんが、知りながら犯す小罪は非常に危険です。それは神への愛を冷やし、無関心に陥らせ、最後には大罪に至る可能性が大きいのです。ちょうど風邪のような軽い病気も「たかが風邪やないか」と軽んじていたら、それが悪化して深刻な容態に至る危険もあるのと同じです。「風邪は万病ももと」と言いますし、インフルエンザで死ぬ人も珍しくはありません。

 そのために、教会は小罪をも赦しの秘蹟で告白することを勧めています。義人は一日に7度倒れる(『格言の書』、24章、26)と言います。私たちは少し自分を反省すれば、小さな嘘、邪推や怒り、周囲の人への冷たい態度、罪の機会に近づくこと、などなどを犯していることに気付くかも知れません。ちょうど何もしなくても部屋には埃がたまっているように(それに気づくのは年末の大掃除のときですが)、私たちの霊魂も別に何もしていないようでも、この種の小罪で少しずつ輝きを失っていることがあります。この種の罪をほっておくのではなく、早めに掃除をしておきましょう。


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