第1回 哲学とは何か

 哲学というと難しそうに聞こえますが、哲学を人生観と言い換えると少しは分かるかも(正確には哲学と人生観は違います)。人は誰でも自分の人生観を持っていてそれに従って生きています。と言うと、「うっそ−、僕は人生観なんてもってへんよ」と長崎弁で抗議する人もいるでしょう。そうではない。例えば、「こんな哲学とか宗教とかは勉強しても一銭の得にもならへんで」と言う人がいるでしょうが(特に大阪には多いかも)、こう言う人は結局のところ金儲けになるかならないかが一番大切なこと、つまり「人生とは金儲けである」と考えているわけです。あるいは、「哲学とか宗教とかは暗いで。もっと楽しく生きようで」と言う人は、突き詰めれば「人は物事を考えるよりも体の楽しみを考えて生きるべし」という人生観をもっているわけです(言っておきますが、哲学や宗教はべつに暗いものではない)。あるいは「哲学や宗教は高校入試には何の役にも立たへん。時間の無駄とちゃうけ」と言う人は、人生とはまずよい高校や大学に入り一流会社で働くこと、つまり安定した生活を送ることだという考えに基づいているわけです。ともかく、人は意識するかしないかは別にして、結局自分の人生観に従って生きている。

 問題は、金儲けや体の楽しみは一生をかけて追い求める価値があるのか。そうして生きた後満足して死ねるかです。あるいは、よい大学に入り一流会社に勤め、安定した生活をするためだけに必死で勉強し労働に励むのは、その人を本当に幸せにするのか、です。皆さんは、どう考えますか。少なくてもこの問題が大切な問題であることはわかるでしょう。ところが、現在の日本の教育制度ではこの種の問題を考える科目がない。せいぜい、高校の「現代社会」の中に「倫理」という分野があり、そこで簡単な思想の歴史を学ぶくらいです。このために、中高生はただ入試に役に立つ主要5教科だけを勉強して、「何のために生きるか、何のために勉強するか」ということを考えないままに大学に入る。入ってから「あれ、俺は何をしようと思ってここにいるのかな」と悩むのです。

 確かに、今は受験という目標だけを考えて、がむしゃらに勉強だけしていればいいかも知れない。あるいは、そんなことを考えるのは、かえって勉強の邪魔になるというのもあながち間違えではない。実際、高校の先生には、「今は我慢して勉強しておけ。大学に入ったら好きなだけ遊べるから」というような暴言(こういう発言をする人は無責任きわまりないと腹が立ちます)をはく人がいるそうな。大学で遊ぶために勉強するなんてアホの極みです。

 阪神の野村監督は、選手に「野球選手として働けるのはせいぜい15年。人生はその後何十年も続く。だから、よい野球選手になる前に、よい社会人になれ。また、何のために野球をしているかを考えよ」と教えるそうです。これと同じことは我が広島カ−プでも新人選手に教えられるそうですが、「よい社会人になっても給料は上がるわけではない。だからそんなきれいごとは無視してまずよい選手になるべきや」と考えた選手がいました。この選手の主張にも一理あります。だから、皆さんが、「人生についてまず考えよう。その答えが出てから勉強したらええんや」と言ったら、これもよくない。中学生、高校生の第一の義務は勉強することですから。そのためにお父さんお母さんは一生懸命に働いておられるのですから、子供にはよく勉強する義務がある。(しかし、ここでいう勉強とは、単な受験勉強だけではなく、一人前の大人になるために必要な勉強全体です)。要するに、人間らしい勉強の仕方をしてほしいということです。人間らしいというのは、考えながら、また家族生活や友人との友情を大切にしながら勉強することです。ロボットみたいに何も考えずに勉強したほうが、確かに効率は上がるかもしれません。けれど、それはまったく味気ない生活だし、後で結局悩むことになるでしょう。


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