第24回 ローマ教皇・変わらぬ道徳

 中間試験お疲れ様でした。台風の後で急に涼しくなりましたが、テストに集中しすぎて気候の変化に気づかなかった人はいないでしょうね。かつて日露戦争のときに自分の研究に熱中しすぎて戦争があったことを知らなかった学者がいたそうですが。

 ところで、最近、ロ−マ教皇ヨハネ・パウロ2世の在位20周年のニュ−スを新聞などで見ませんでしたか。いきなりですが、今日はこのことについて一言。

 キリスト教を始めたナザレのイエスが公に宣教をしたのはわずか3年間弱でした。その説教にはいつも大群集が集まって来ました。が、イエス様はこれらの大勢の中から12人を選んで弟子のグル−プ(使徒)を作り、この使徒たちには特別に教えを説明したりしました。こんなことをしたのは、彼らをえこひいきしたからではありません。イエス様は自分で世界各地に宣教しに行くことはせずパレスチナのユダヤ人だけを相手にしたが、初めから自分の教えは全世界の人々に伝えるべきものであることを自覚していました。そこで、この任務をまかせることのできる組織(教会)を作るために、彼らを選んだのです。

 さて、ある組織が長い間活動を続けて行けるためには、まずその組織のリ−ダ−を決めねばならないでしょう。ペトロが使徒たちのリ−ダ−に任命されました。では、彼の死後はどうなるの。それについてのイエス様の言葉は福音書には載っていません。ペトロは後でロ−マに行きそこの司教となります。そして、紀元64年に始まったネロ皇帝のキリスト教迫害の中で殉教します。彼の墓の上に建てられたのが今の聖ペトロ教会(バチカン)です。この教会の祭壇の下にペトロの墓があることは、第二次世界大戦の前と後に2回行なわれた発掘によって明らかにされました。

 面白いことはペトロの死後に世界のあちこちに散らばっていた使徒たちがどこかに集まってその後継者の選挙を行なったり、あるいは後継者争いが起こったりした気配がまったくないことです。その代わりにペトロの後にロ−マ司教になった人が全教会の指導者として何の抵抗もなく認められました。一つの事実だけ紹介しておきます。90年代の終わり頃コリントというギリシアの町の教会でいざこざが起こりました。そのときその問題を解決するために干渉したのは、その当時イエスの愛弟子として最も尊敬を受けていたはずの使徒ヨハネではなく、ロ−マの司教であったクレメンスだったのですが、このことはロ−マ司教が全教会のリ−ダ−として認められていたということを証明しています。

 ロ−マ教皇はペトロの後継者として、つまりイエスの代理者として、全教会を指導するわえです。現教皇は第263代めです。長い歴史の中では少々不適格な人が教皇になった時期(特に10世紀とルネッサンスの時期)もありますが、そのような時にも教皇は全教会を指導する任務をなおざりにしたことはありません。その任務とは信仰と道徳に関係することで、信者が正しい道からはずれないように絶えず気を配ることです。

 カトリック教会はその創立者が神の子であると信じていることです。それゆえ、創立者の教えは絶対に変えられない。ただし、イエス様の教えではなく後の時代に教会が付け加えていった法律や制度は変えることができます。また、教会は、道徳(善悪の判断)も神によって人間に与えられたもので変えることができないと信じています。しかし、時代は変わります。そこで教皇の任務は、変わらない信仰と道徳を変わっていく時代の中でどう生きるかを教えることですが、これはそう簡単ではあません。

 ある新聞に「ロ−マ法王あす在位20周年」という題で二人の専門家が論評を載せていました。どちらも、ヨハネ・パウロ2世を誉めると同時に批判しています。批判の文を引用しますと、一人は「人工妊娠中絶や女性司祭叙任などをかたくなに否定し、保守的な姿勢をとり続けている」、もう一人は「法王は厳しい倫理観から・・教徒の間に大きな分裂をもたらした」と言っています。もし教皇が人工妊娠中絶や女性司祭叙任を認めるならば、世界のマスコミはこぞって「この教皇は話がわかる。革新的な人だ」といって誉めたたえることは目に見えている。

 問題は、教皇がこれらのことをなぜ否定し続けているかということです。人工妊娠中絶とは堕胎のことで、無抵抗の胎児を殺すことです。「胎児を殺すことは殺人ではない」と言うのが革新的なのでしょうか。女性司祭叙任の問題は道徳の問題ではなく、信仰の問題です。つまり、女性が司祭になっても不道徳でも何でもないのですが、イエスの教えに反するというのが教会の立場なのです。この教えが女性差別ではないことは、司祭になるとは何かの特権ではないことから説明できると思います。教会では、司祭などの職務は奉仕職といわれお金が儲かるわけでもないし何も得することはない。とは言っても、これは複雑な問題なのでもう少し丁寧に説明する必要があります。もし興味があって質問したければ、尋ねてください。

 つまり、教皇を批判する人は、「道徳は時代によって変わる」という考えをもち、また人々にもそう考えさせようとしている人たちです。道徳は時代によって変わるのでしょうか。もしそうなら、人殺し、盗み、嘘つき、親不孝、姦淫などが善だとされる時代があることになる。昔は悪いと考えられていたわる行為が現代では悪くなくなったと言えば、その悪業を大きな顔をしてできるので、そう考えたい人も結構いる。マスコミとインテリの一部は、世間に気にいられるために、その考えを事実かのように言い広める。これに反して教皇は、「善と悪には古い新しいはない」と言うわけです。この考え方は別に「厳しい倫理観」ではなく、多くの人にとって常識です。ですから、このように教皇が教えることによって「信徒の間に分裂が起こる」なら、分裂する信徒の方がおかしいかも。

 面白いことにヨハネ・パウロ2世は若い人々に人気があります。ある非カトリックの新聞記者が、現代100万人の若者を集めることができる人はヨハネ・パウロ以外にはいないと、また、教皇の魅力は本当に信じていることを教え、教えることを実行している点にあるとも言っていました。世間には人の目だけを気にして自分の評判が下がることを恐れて、本当のことを言わない人が、あるいは、何が善で何が悪かの判断を自身ももって下せない人が圧倒的に多い。そんな現代社会の中で、はっきりと善は善、悪は悪と本当のことを言ってくれる人を若い人が求めているということでしょう。

 善と悪の問題は非常に大切なので、また授業で話し合いたいと思います。ではまた。


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