第32回 真の文化・煉獄について

 先日出した31号では「天国」について話しましたが、「煉獄」を抜かしていました。順番が後先になりましたが、今日「煉獄」について話して、これで「あの世シリ−ズ」は終わります。

第五章:煉獄について

 皆さんはソルジェニ−チンというロシアの作家のことを聞いたことがありますか。ロシア語では「それじゃ、兄ちゃん」と発音されるのでだそうです。この人は、ソ連の将校で第二次世界大戦中に大きな活躍をしたのですが、友人に書いた手紙の中でスタ−リンを批判していたのが見つかり収容所に入れられます。10年間の収容所生活を生き延びて、学校の先生をしながら小説を書き、政府からさまざまの妨害を受けながらも『イワンデニ−ソビッチの一日』という本でノ−ベル文学賞を受けた(1970年)人です。この人の作品の中に『煉獄の中で』という本がある。この「煉獄」とは、スタ−リン時代に科学者たちの収容所のことなのですが、その理由はソビエトにあった無数の収容所は普通は肉体労働をさせるもので、普通の人なら住まないような極寒の場所にあり、設備も粗末で食べ物もわずかなので死ぬことも珍しくない。これに対して科学者の収容所は、寒くもないし食べ物もあるし、仕事は研究(といってもスタ−リンから命じられた国家のための研究で、小説では盗聴器に写した声を聞き分ける機械の開発が命じられていた)とうわけで、一般の収容所を地獄とすれば、こちらは煉獄だというわけです。

 しかし、カトリックでは、公式の教えではありませんが、大部分の神学者は煉獄の苦しみはこの世のどんな苦しみよりもひどく、地獄のそれと同じであると教えます。この煉獄(purgatory)という言葉は、実は聖書にはなく、またそれができたのはヨ−ロッパの中世(1000年以降)なのです。そこで、ルタ−は「煉獄なんてのは、カトリック教会がでっちあげたことや」と言い放ち、死後は天国と地獄しかないとし、プロテスタントはこの考えです。

 それではカトリックはどうして煉獄の存在を主張するのでしょうか。まず、聖書には、確かに「煉獄」という言葉はありませんが、次のようなカ所があります。まず、イエス様の言葉に「聖霊に反する罪は、この世でもあの世でも赦されない」(マテオ、12 、32)というのがあります。これに基づけば、「あの世で罪が赦される」ことがあるわけですよね。ところで天国には罪のない人が行くし地獄に行けば罪は赦されない、ということは天国でも地獄でもなく、死んでから罪が赦されるところがあるやんか、ってわけ。もう一つは、「彼自身は、火を通るようにして救われる」(コリント前、3 、15)という文。これも天国なら火はないし地獄なら救われない、じゃからして火で浄化されて救われるところがある、って結論を引き出すのです。

 また、もう一つの論拠は、キリスト信者は昔から死者のために祈る習慣があったことです。というのは、もし天国と地獄しかなければ、亡くなった人のために祈るのは無駄でしょう。なぜって、天国に行った人のためには祈る必要はないし、地獄に落ちた人のために祈っても役に立たないから。だから、もしキリスト信者が最初からそういう習慣があったなら、聖書には載っていないけれども、イエス様か使徒たちから口頭でそのように教えられたと考えられるわけです。初期のプロテスタントは煉獄を否定したので、死者のために祈ることも禁止した。カルビンが支配していたジュネ−ブである老人夫婦がお墓の前でお祈りしていたのですが、それが見つかってその夫婦は罰せられたという事件は有名です。

 煉獄の火は厳しくても、そこで苦しむ霊魂は喜びにあふれていると考えられます。なぜならば、ここには希望があるからです。その火は罪の汚れを落とすのに役に立つし、その後で神様に会うことを知っているからです。ちょうど、みなさんが偉い人に会いに行くとき、ほっぺたにご飯粒が見つかったら、まずそのご飯粒をとってから会いに行こうとするのと同じです。もし天国と地獄しかなければ、天国に直接行けると確信している人は少ないでしょうから、大変恐いことになるのではないでしょうかね。


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