第31回 人間の価値・天国について

 11月から「あの世」の話をしていますが、死については私は経験が少なく、身近な人が死ぬという荘厳な場面にも立ち会ったことがないので、私の書くことは薄っぺらいことだと書きながら思っていることを言っておきます。さて、今日は吉川英治の大作『宮本武蔵』の中の武蔵とその弟子伊織の会話の紹介から始めます。

 「おいらも大きくなったら、柳生様(将軍家の剣道の先生)のようになろう」、「そんな小さな望みを持つんじゃない」、「え。・・・なぜ?」、「富士山をごらん」、「富士山にはなれないよ」、「あれになろう、これに成ろうと焦るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作り上げろ。世間に媚びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値打ちは世の人が極めてくれる」、というものです。

 人間の値打ちとは何でしょうか。いくらかのよくある誤りを紹介します。一つは、人の値打ちは持ち物で決まるという考え。つまり、「私はこんな立派な家に住んでまんねん」とか、「こんな車、こんな高価な時計、下敷きを持っているのざんす」とか言って自分の持っているものを見せびらかす人は、つまるところ自分の所有物で自分の価値を認めてもらおうと考えているわけです。

 もう一つは、所属する団体によってその人の価値が決まるという考え。これは「私は何々大学の出身で、へへへ」とか「私の主人は○○証券に勤めておりますの、ほほほ」とか言う人の心底にある考えです。皆さんも入試のために会場に行くと、同じ中学校から何十人も一緒に来ているグル−プがある。大勢でいるというだけで自分が偉くなったように誤解する人がいます。でも、別に考えなくてもわかることですが、試験に合格するのは何々中学の人だから、ではなくで、良い成績をとった人ですよね。ですから、たとえ試験会場で一人ぼっちでも、自分の力に自信があれば、肩身の狭い思いをする必要もびくびくする必要もまったくない。大勢だと偉そうするが、一人だと何もできない人にはなりたくないですね。大勢でデモをするときは平気で警官隊に石や火炎瓶を投げているが、一人では弱々しい学生がいたもんです。

 上の二つの考え方は、結局人の価値がその人自身にあるのではなく、その人の外にあるもので決まるという考えです。また、二つに共通するのは、人の価値とは他人が認めなければならないということです。これは多くの人がもつ考えで、だからこそいつもほかの人によく思われようとして神経をすり減らすのです。人間の価値とは、その人の持つ体と精神の力の総合で、その中でも特に精神の力、意志の力だと思います。これに小匙一杯の高い教養と判断力といろいろな人徳を加えれば、「富士山みたいな不動の人間」、自分の価値を別に他人から認めてもらう必要をまったく感じない人間ができるのではないでしょうか。さて、今日は「あの世」についての最後です。

第六章;天国について
 菊池寛という作家が『極楽』という短編小説を書いていますが、その中では極楽とは何の苦しみもなく寒さも暑さも感じない状態のうちにずっと蓮の花の上で座っているところで、とても退屈なところとして描かれています。確かに天国は苦しみのない状態ですが、それだけならその状態が長く続くととても退屈になると想像してしまいますよね。 聖書には、 天国があること、 それが永遠の幸福であることははっきりと教えられていますが、それでは天国とはどういうところかについては具体的なことは説明されていません。「神は人の目の涙をすべてぬぐわれ、死ももうなく、悲しみも叫びも苦労もなくなる」(黙示録、21 、4)とか、「今の時の苦しみは、・・光栄(天国)とは比較にならないと思う」(ロ−マ人への手紙、8 、18)とか言われていますが、それではどんな楽しみがあるのかについては何も描写しません。

 そこで神学者たちはいろいろ知恵を絞って考えたのですが、その結論は天国の幸せは二つ、すなわち 神を直接見ること、 親しい人々と永遠に共に暮らすことです。神を直接見る(これを至福直観と言います)とは、実際に聖書に「神を顔と顔を合わせて見る」(コリント前、13、12)とか「神をそのまま見る」(ヨハネ第一の手紙、3、2)とあるからですが、これがなぜ幸せなのかは現在の私たちには完全にわかりません。地獄とは神を見ないところだと言ったときに説明したように、神は善そのもの、美そのもの、無限に完全な御方などなどですから、その御方をあるがままに見ることは人間の能力の全欲求を満たすことなのだけど、今は神のことはほんのちょっぴりしか分からないのでその素晴らしさも分からないのです。

 二番目のことは、もっとピンと来ますよね。この地上では、「会うは別れの始め」と言うように、どんなに親しい人でもいつかは別れなければならない。みなさんももうしばらくすればほとんどのクラスメイトと別れ別れになるでしょう。でも、天国で再会すれば、それからは別れることはない。これはうれしいことですよね。また、先になくなった人と再び会えるのも大きな喜びでしょう。そして、この地上ではどんなに親しい人でも、ちょっとした嫌な点があるものです。この地上では完全な人はいないから。だから、どんなに愛しあっている人たちの間でさえけんかがあるんですね。でも天国では、そういうわだかまりは全くなく本当に良い関係で一緒にいることができる。

 そうは言っても、天国の幸福を想像することは難しい。ある人は、「この世では苦しみの経験の方が幸福の経験より多くて鮮明やから、地獄については想像するのは簡単やけど、天国については想像しにくい」と言っています。ただ、天国の幸福はこの世で考えられる限りの幸福を無限に超えるものだと思って間違いない。だから、皆さん一人一人自分がもっとも幸せと思っている状態を考えて、それを無限に超える幸福が永遠に続くもが天国だと思ったらいいのではないでしょうか。

 ともかく、キリスト教の教えは、神はこの永遠の幸福を与えるため 人間をお造りになったということです。それを考えると、今の受験の しみもそう大したことに見えないのではないでしょうか。この天国は 「暴力で手に入れる」(マテオ、11 、12)とイエス様はおっしゃいました。この暴力とは、一生懸命によい生き方をするために自分自身に振るわなければならない暴力のことです。


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