第35回 自由について・その1

 いよいよ戦闘開始のラッパが吹かれましたが、試験はスポ−ツの試合と比べれば相手がフェイントを掛けてくるわけでもないし、音楽の発表会などと比べれば何か間違えてもあわてず消しゴムを使ってやり直しができるのですから、精神的にはずっと楽と思いますが、違いますか。また、試験というものは必ず答えがある。一生懸命問題を解いたのに、「ブ−、残念でした、この問題には答えがありません」なんて言われることはない。しかし現実の生活では答えが出ないような難問がざらにあるのです。と言うことで、試験を前にしてもリラックスしてください。

 さて今日から3回くらい「自由」について話したい。以前授業で話しましたが、大切な問題なのではっきり文書に残しておくのがよいと思って。「自由とは何か」と聞けば、「へえ、そげんこと簡単やっか。自由って、何でん好いたことばできることやろが」と答える人が多いかも。確かに自由とは「好きなことを選ぶ能力」なのですが、「好きならば何でも選べる能力」とは違う。というのは、もしそうなら「他人の物ば取って自由に使こうても、そいはおいの自由やっか」なんて理屈も成り立つ。「それはおかしか。他人に迷惑ば掛ける自由はなかはずたい」と言い返すでしょう。その通り。だから「自由とは何でも好きなことができる能力」ではない。つまり、悪をする自由はない。より正確に言うと、「自由とはよりよい善を選ぶ能力」なのです。と私は考えるのですが、皆さんは賛成しますか。

 ところで、旧約聖書の『創世記』で、最初に神様が人間を作りエデンの園に置いたとき、「善悪を知る木の実(リンゴではない)は食べてはいけない」という掟を与えたとあることは覚えているでしょうか。ここを読むと、「こんな掟を作らなかったら、人間は罪を犯さなかったのに」と文句を言う人がいます。ここで、大切なことは、神様が人間をお造りになったのは、「人間が自由に神様に従い幸せになる」ためだったということです。そこで、もし神様がなんらかの掟を与えなければ、人間には神様に逆らう機会がないことになるでしょう。逆らう機会がなければ、自由に従うこともできないのです。例えて言うと、もし皆さんがレストランに行ったとして、そこのマスタ−が「へいいらっしゃい。何でも好きなものを選んで食べてや」と言われたけれど、テ−ブルにもカウンタ−にもギョウザしかなかったら、「なんでも食べてと言われても、ギョウザしかないやんか」と文句を言うでしょう。同じように、もし神様がアダムとイブに掟を与えなければ、彼らは「自由に従えて言うばってん、逆らえんのやから、自由と違うたい」と文句を行ったはず。

 さて、自由とは選択(選ぶ)する能力だとしたら、まず何を選択できるのか(難しく言うと選択肢)を「知る」必要がある。でないと何を選ぶかを決められないので。またたとえを挙げて説明しますと、今度はフランス料理の店に行ってください。席に座るとウエイトレスの人が来てメニュ−を渡される。けれどもしそのメニュ−がフランス語で書かれていたら、いったい何を選べばよいのかわからないでしょう。いくらウエイトレスが「このメニュ−の中からご自由にお選びください」と言われても、「自由に選べて言うばってん、メニュ−の内容の分からんば、選べんたい」となるでしょう。

 ですから、ものを知ることはより自由になるための必要条件です。しかし、ただ単に知るだけではいけません。内容を知って、次にそれを正しく評価しないといけない。料理のたとえに戻ると、メニュ−の内容が分かったら次に、例えば「○○○は、カロリ−が高すぎるので、コレステロ−ルがたまるのでだめ」とか、「◎◎◎は、生野菜が少ないので動脈硬化になりやすいからだめ」とか、「□□□は塩分が多いので高血圧には悪いからだめ」とか(ここに挙げた例はみな老化現象が始まり体の新陳代謝が悪くなった年令の人が心配することで、皆さんには関係ないはず。ですが、最近は小中学生の間にも高血圧や肩凝りなどの成人病があるそうです。よく食べることはよいことですが、同時に偏食を避けよく体を動かして、健康な体を維持してください)、健康のことやその他のことを考えて、それぞれの食事を評価しなければいけないわけ。

 こうやって、何を食べるべきかが決まったら、最後にその行動を実行に移すことで、自由は完成します。でも、この行動をするとき、時々自分の好き嫌いに逆らわないといけないことがある。上の例であれば、「最近は太り気味だから、食べる量を少なくせんば」と思っても、おいしい料理を前にして量を減らすのは強い意志が必要です。つまり、人間が自由であるためには、「ものを知る」という知性と、その次に、「選んだよいことをする」という強い意志が必要なのです。

 現在の日本の教育が詰め込み教育だと言う批判がありますね。確かに、重箱の隅をつつくような細かいことを暗記させるのはよくないけれど、ある程度の知識は必要です。というのは、一定の知識がないと物を考えることも、何かを決定することもできなくなる。ということで、学校や家庭でいろいろなことを学ぶことは、自由な人間になるためにも役に立っているはず。しかし、知識と並んで大切なことは、学んだことがらを正しく判断する力です。判断といっても色々ある。例えば、役に立つか立たないかの判断。あるいは自分に合っているか合っていないかの判断や可能か不可能かの判断、などなど。でも一番大切なのは善か悪かの判断です。今授業でしていることはこの判断ができるための基準を学ぶことです。けれど、同時に毎日の生活のなかで、このことは善いことか悪いことかを考える癖をつけましょう。分からなければ人に質問したりしながら。


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