第37回 自由について・その3

 プロ野球のキャンプが始まり、私にとっては今年こそはと毎年希望がふくらむ時期となりました。シ−ズンが始まると期待が裏切られるので一年中キャンプもいいかも。他方、昨日は全九州で積雪でした。あと一カ月の辛抱ですから、風邪を引かないように万全の健康管理をしましょう。

 二学期から十戒をもとにして何が善くて何が悪いかを見ています。十戒は「何々するな」という禁止命令が大部分(第四戒「父母を敬え」は別)ですが、「何々をしてはいけない」という罪の部分よりも、本当はその裏にある善い行ないに焦点をあわせて説明したほうが本当はいいのです。例えば、「偽証するな」というのは「正直に生活せよ」に、「盗むな」は「物に執着しないこと」という風に。が、やはり罪とはどのような行為かは初めに説明しないといけないと思い、このような授業になっています。

 ところで、イエス様の時代のユダヤ人は600以上の掟を決めていたそうです。だから、その掟の中でどれが一番大切かという問題がよく議論されていました。イエス様はそれに答えて、「第一の掟は『神様を全力で愛すること』、第二は『隣人を自分と同じく愛すること』」と答えられた(マテオ、22 、34~40)。別のところでは、「他人からしてほしいと思うことを他人に行なえ。これがすべての掟である」と言われています(マテオ、7 、12)。隣人を愛そうと努める人は、人殺しや強盗や偽証などするはずないもんね。パウロも「姦通するな、殺すな、盗むな、偽証するな、貪るな、その他のすべてのおきては『隣人を自分と同じように愛せよ』という言葉に要約される」(ロ−マ人への手紙、12 、9)と言っています。これと似たようなことは、中国の孔子や墨子(紀元前5世紀)も言っています。

 でも、世界の歴史には、これらの道徳を攻撃した人もあります。一番有名なのは、ニ−チェ(1844~1900)という人。この人はプロテスタントの牧師の息子だったのですが、無神論者になり、徹底的にキリスト教を批判した人です。彼の有名な言葉に「神は死んだ」というのがあります。私の大学のトイレの扉に、「『神は死んだ』・・・ニ−チエ。『ニ−チェは死んだ』・・・神」という落書きがありました。ともかく、彼は「愛せよとか、慈悲を持てとかは、弱い人間が自分たちが強い人間からいじめられないために考え出した道徳や。あんなものは『奴隷の道徳』と呼んだらええ」と言って、キリスト教の道徳を全部つぶして新しい秩序を立てなければならないと主張しました。そして、新しい秩序を立てるために超人が必要だとしたのですが、ナチスの考えはこれにも影響を受けています。ニ−チェは精神病になって晩年は気が狂ってしまうのですが、その考えは20世紀に大きな影響を与えました。

 これほど極端でなくても、「神の掟があったら、人間は自由でなくなる」と考える人は沢山います。市民革命を思想的に支援した人々(多くは啓蒙主義者と呼ばれる。ロック、モンテスキュ−、ルソ−など)は、神様の存在を否定したのではありませんが、「神は全く人間の生活には干渉せ−へん。よって、人間の自由は無制限ちゅうわけや」と主張しました。その最も明白な例がフランス革命。『人権宣言』(1798年)には、「人間は生まれながらにして自由かつ平等な権利を持っている」とあるでしょう。「これのどこの悪かとや」といぶかしがるでしょうが、キリスト教の考えでは、人間の生まれながらの権利は神から与えられたもので、人間が自分のものとして生まれつき持っているのではないのです。

 それでは、掟(道徳)は人間の自由の敵でしょうか。前にも言いましたが、自由とは「善を選ぶ能力」です。だから悪を選ぶなら、それは自由の悪用になる。掟(道徳)とは、善を示すものですから、掟を守ることは自由を正しく使うことになのです。しかし、人間は、ときどき善を行なうのがいやに感じられたり、悪いことをしたいという欲望にかられたりする。だから、「そもそも善と悪はいったい誰が決めたんや。わしが好きなことをして何が悪い。他人に迷惑かけなかったら別に好きなことしたらええやんか」と言う人が出てくるのです。上に言った啓蒙主義者は、平たく言えばこのような考えを難しい言葉で言い直したわけです。

 他人に迷惑をかけなければ、何をしても善いのでしょうか。不道徳なビデオなどを見て楽しむ人、悪い考えを楽しむことを避けない人は、このように考えているわけです。実は、十戒の第九戒と十戒は、思いの罪を禁じています。イエス様も「心から出たものが人を汚す。つまり、悪意、殺人、姦淫、淫行、窃盗、偽証、讒言などは心から出る」(マテオ、15 、18-19)と言っています(もちろん前に言ったように、「自然に起こる悪い思いは罪ではない。その思いに同意するとき罪になる)。でも、どうして、他人に迷惑をかけないのに悪になるのでしょうか。

 善と悪があるかどうかは、人間が生きている人生に目標があるかないかの問題です。つまり、もし人生に目標がないなら、人は何をしても勝手です。目標がないということは、それに導く道がない、つまり、どこを歩いてもよいということです。言い換えれば、どうせ皆死んでしまって終わりなのですから、何をしようがお構いなし、でしょう。でも、もし目標があれば歩むべき道がある。これが人の道(最初に宗教とは神に従う人の道と言ったのを覚えていますか)。道があるなら、道から外れることは善くないことになる。道徳(掟)とは人間を道から外れないように導く「道路標識」みたいなものです。 たとえで言うと、もし皆さんが三原町から長崎駅まで車で行こうとすると、沢山の道があるけど、どれでもいいわけではないでしょう。松山に出て、標識は左が長崎駅、右が時津と書いてあったとしよう。「私は自由だから、右に行く」というのは勝手ですが、それでは長崎駅にはつきません。別のたとえ。私たちは80車線もある広い高速道路を走っているみたいなものです。その80車線のどの車線を走ってもいいのですが、「私は自由だから、道路の外を走りたい」と言ったらどうでしょうか。確かに自由ですが、それでは目的地にたどり着けない。

 善と悪とは、人の目的地に向かう道の中を進むことが善で、それから外すことが悪なのです。だから、たとえ他人に迷惑をかけなくても悪い行ないは自分の害になるわけ。悪を行なうと不思議ですが、必ず良心の呵責を感じて心の平安を感じる人はいないのです。


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