第40回 福音書シリーズ2・聖書についての本

 残された時間が刻々と減っていき、大部分の人々にとっては試験が近づいています。そこで皆さんの肩をほぐすために、試験にまつわるお話を一席。

 以前説明しましたが、人間には感情というものがあって、これは意志の力ではどうしようもないときがあります。だから、大事なことに臨んで緊張するのは防げないことですが、頭(知性)を使ってある程度コントロ−ルすることも可能です。そこで、もし試験で緊張するなら、次のように考えてください。「試験は逃げも隠れもしない。スポ−ツの試合の相手のようにフェイントをかけてくることもない。だから、こちらさえしっかりと答案用紙を睨んでおけば大丈夫。俺は十分勉強してきたのやから、知らない問題には答えてやる必要はない。知っていることだけ答えてやる」と。

 江夏という投手がいましたが、彼は自分の恩師に野村監督と村山投手を挙げていました。そして「野村さんからは打者にボ−ルを打たせることを、村山さんからは打者を見下すことを教えてもろた」と言っていました。ここでいう「相手を見下す」とは自分より強い相手のことです。弱い相手を見下すことは誰にでもできて、また勝負師はすることではない。弱い者は自分より弱い相手にはなめてかかって、試合の途中で意外と相手がしぶといのを知って、かえってびびるということがあります。ライオンは相手がネズミでも全力で戦うそうです。ということで試験を見下すくらいの気持ちで試験に臨んで下さい。ただし、十分に準備をしたという自信をもっていないといけませんが。

 次は私の経験で聞いていてためになる話です。それは私が大学生のときのことです。私の住んでいた寮の後輩が、一月のある寒い日に試験から帰ってきたときの話。大学では大きな試験は前期と後期の年に二回しかない。でも後期の試験(1月か2月にある)に落ちれば、翌年もう一度同じ科目をとらねばなりません。彼はある私立大学の2回生(2年生のこと)でしたが、1回生のときドイツ語の試験に落ちたので、その年も同じ科目の試験を受けたのでした。試験には文章を訳せという問題が一問あったのですが、その文章を読んで彼の知っている単語はほとんどなかった(これはもちろん本人の不勉強のせいですが、ドイツ語のような第二外国語は大学ではあまり丁寧に教えないので、彼が特別に悪いわけではない)。そこで、わずかばかり持っていた英語の知識を総動員し(ドイツ語と英語には似ているところがあるので)、それまで寝ていた脳味噌の部分もふるに活用しまるでパズルを解くように推理を働かせて行った挙げ句、「肺は二酸化炭素を出し、酸素を吸収する」という訳文を得た。この文はしっかりと筋が通っているので、本人は自信たっぷりで試験が終わった後友達と答え合わせをした。最初は彼の自信満々の態度に不安を感じていた友達も、辞書を調べながら解いていくうちに爆笑になったのです。というのは、正解は「その少女がいつまでそこにいたか誰も知らない」というものだったから。自信は普段の努力に裏づけられていないといけない。また、試験が終って自信満々の他校の生徒たちがいてもまったく気にすることはないという教訓です。 うちの生徒の場合、学校の規模が小さいから試験会場に行ったら、大勢で群れている他校の生徒を見るでしょう。人間は大勢でいるとそれだけで元気が出るもので、彼らは堂々と笑ったり大声で話しているかもしれない。こちらは一人か二人で大声で話すなんてちょっとできませんから、そういう軍団を見ると何か引け目を感じるかも知れませんが、そんな必要は全然ない、ということです。試験でものを言うのは、どの集団に属しているかではなく、個々人の実力だけです。

 それでは先日は福音書が紀元1世紀中に書かれたことを説明しましたが、その続き。

第五章:なぜ新約聖書の年代が分かるかについて説明がされるようで説明されない章。

 「でもどうして、福音書の書かれた時がわかるの」と聞く人がいたら素晴らしい。前に言ったように、福音書のどこにもそれがいつ書かれたのかを示す文はない。そこで、それを探す手掛かりは、他の人の証言、すなわち伝え。書かれている内容をよく調べる。他の本に引用があるかどうかを調べる。などです。

 聖書という本は人類の歴史上最も読まれたばかりでなく、最も調べられた本でもあるのです。だから聖書については、今まで何千何万の研究があるわけ。そこで、もしそれらの研究を逐一(一つ一つ全部)紹介していたら、時間がいくらあっても足りない、すなわち日が暮れてしまうので、ここでは証拠を二つだけ紹介しましょう。それは1世紀の末にクレメンスというロ−マ教皇がいた。この人が教皇職にあった96年頃にコリントという町の教会のもめごとを解決するために手紙を書いたのですが(そしてこの手紙は今も残っているから、もしよければ読んで下さい。ただし外国語で)、その手紙の中でマテオとルカの福音書が引用されています。また、109年に殉教したアンティオキアのイグナチウスの手紙には聖ヨハネの福音書の引用がしばしば引用されている(この手紙は日本語に訳されているので、「嘘やろ」と心の中で思っている人は是非それを読んで確かめて下さい」)。

 また、福音書の内容を検討すると、そこで出てくる場所や人の名前、度量衡やお金の単位(当時のユダヤ人はロ−マ、ギリシア、ユダヤの三つの貨幣を併用していた)、ユダヤ人の習慣など、実際にその中で生活した人でないと正確には書けないことが、非常に正確に書いてあることが分かります。この点を少し詳しく説明したいのですが、読者が拒否反応を起こすでしょうからやめますが、興味があれば聞きに来てください。

 今挙げた証拠だけでは不十分と思われる人、もっと詳しく知りたいという篤学(学問に熱心)の人のために参考文献を上げておきます。

 一番簡単なのは、講談社『新約聖書』の中にある説明。次にすこし難しいかも知れないけど、茨木晃『新約聖書の成立について』、中央出版社、少々難し過ぎて、成人するまで待つ必要があるが、岩下壮一、『カトリックの信仰』、講談社学術文庫 。

 そろそろプロ野球が始まりますが、この頃になると新聞やテレビで今年の成績の予想が出ます。このような簡単そうなことでもなかなか当たらない。将来を予測することの、難しさを知るためにも、新聞の予想を切り取って、10月にもう一度見たらよいかも。

 それではまた。風邪に気をつけて下さい。


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