第41回 福音書シリーズ3・四つの福音書

 今は梅の季節ですが、梅は最も寒いころにしっかと芽を出しています。このような強さを身に付けたいですね。さて、「福音書シリ−ズ」の続き。

第六章:福音書が書かれたのが1世紀中であることがなぜ大切かが説明される章。

 今まで福音書が1世紀中にできたと言い続けたけど、「それがどうしたん。べつに福音書がいつ書かれてもかまへんやんか」と心の底で思っている人がきっといる。

 福音書が1世紀中に書かれたもので、その著者がマテオ、マルコ、ルカ、ヨハネということは、福音書は非常に信頼度の高い書物だということになるのです。マテオとヨハネはイエス様と3年間いっしょに過ごした弟子ですから、自分の目で見たことを書いたわけです。ヨハネは福音書の中で自分が書いたことについて「これを見たものが証明する」、つまり自分は見たことを書いたのだと何度か言っています。

 マルコという人は、子供のときイエズスキリストを知っていたけど、キリストと一緒に暮らした訳ではない。あとで大きくなってペトロがローマに行ったとき通訳として一緒に働いたようで、ペトロの話をもとに福音書を書いた。だから『マルコ福音書』はペトロの福音書とも言われます。ルカは、全くキリストを知らなかったし、ユダヤ人でもなかったから、いろいろと調査して福音書を書いた。「私もすべてのことをはじめから詳しく調べ、順序よく書いてあなたに送るのがよいと思った」(1章、3)と初めの部分で書いている通りです。

 さて、四つの福音書を読み比べてみるとすぐに分かるのですが、マテオ、マルコ、ルカの三つは内容がよく似ている(そこでこの三つは共観福音書と呼ばれる)。でも、もっと注意深く読んでみると、似ているけれど微妙に、あるいは結構違っているところがよくある。また、ヨハネの福音書に至っては、前の三つに全く書かれていないことが書いてあったり、逆に共観福音書のどの本にも書かれてある事件が抜かしてあったりするんです。これを見ると、「もし福音書が目撃者か、それに近い人が書いたのなら、違うところがあるのはおかしい。違うところのあることは、著者が嘘を書いたという証拠じゃないか」と標準語で考える人もあるでしょう。それについてひとこと。

 みんなの中で4人がある日遠足に言ったとしよう。次の日に、先生に「昨日の遠足のことを話して下さい」と言われて、その4人が遠足について話し始めたら、同じ出来事について話すのに、一人一人の話は少しづつ違っている筈。それもそのはずでしょう。同じ出来事についても、見る人が違えばその感想もすこしは違うはず。もし、4人が全く同じことを言ったとしたら、先生もそれを聞いている人たちも「これは口裏をあわせたに違いない」と疑ってしまいますよね。だから、裁判のときに裁判官は、証人が複数いてその証言がぴったり会うなら、「この証人たちはちょっとあやしい。きっと証言の前に打ち合わせをしたにちがいあらへん」と考えるのです。

 四つの福音書で、同じ事件なのに書いていることが少しずつ違うのは、まさにそれらを書いた人が、自分は本当にあったことを書いているんだと自信満々でいた証拠です。だってそうでしょう。たとえば、ルカは自分が福音書を書くとき、すでに少なくともマテオの福音書は知っていたのだから、もし自分の書くことが本当に起こったことであるという自信がなかったら、わざわざマテオの言っていることと少し違うことを書くでしょうか。ルカがマテオやマルコと同じ事件に言及ながらすこし違ったことを書いたのは、それが本当だというかれの確信を示すものです。ヨハネの場合はもっとはっきりする。ヨハネは、一番最後にまた共観福音書が出来てからかなり後に第四の福音書を記したのですが、その内容は前の三つとかなり違うものです。もしヨハネがありもしないことをでっちあげようとしたなら、なんでそんなに違うことを書いたのか説明がつかないでしょう。

 さて、ここまで噛んで含むようにくわしく説明したことのまとめ。福音書、つまりイエズスキリストについての記録は、1世紀中に、直接の証人か、もしくは直接の証人からの証言を調べた人によって書かれたものである。

 いよいよこれから本論に入りたいのですが、ちょうど時間となりました、で今日はこんへんで失礼します。でないと、これ以上やるとこれから受験に備えて必死に勉強している人の頭をめちゃめちゃに混乱させて破滅に追い込むことになるかも知れないから。

第七章:と思ったけどやっぱり少し続ける章。

 せっかく福音書を読んでも、ある人たちは奇跡の話につまずきます。つまり、「これはええお話やけど結局つくり話やろ。なんせ、奇跡なんかあるはずないんやから」と言うわけ。もし作り話だったらまじめに読む必要もないし、ましてやごミサの説教で詳しく解説するなんて「ばかばかしくってやってらるか」と言いたくなります。

 福音書以外の本でキリストの奇跡が記録されていれば、福音書の奇跡が本物である証明になりますが、ユダヤ人の古い本である『タルム−ド』に「ナザレトのイエスは魔術を行なって人々を惑わした」と書いてあるのは注目に値するかも知れません。しかし、福音書が歴史的な本である、すなわちそこに書いてあることは想像の産物ではなく、事実を事実として書かれたということは、さっきからしつこく言っているように、聖書が1世紀中に目撃者によって書かれたということを認めれば、納得されるのではないでしょうか。

 つまり、聖書が書かれたのが1世紀中なら、当然そのころまだキリストの敵もたくさん元気に生きていたはずです。だから聖書に書かれていることがウソ八百なら、すぐに「あのキリスト教徒達が聖書と読んでいる本は嘘だらけぞ。あげんもの信じたらいかんばい」とその人達は宣伝カーに乗ってマイクのボリュームを最大にして町に宣伝しに行ったはず。しかし、最初のロ−マ時代の反対者たちも福音書の信憑性を攻撃しなかった。キリスト教を憎んで破壊しようとした人達は古今東西掃いて捨てるほど沢山いて、特に19世紀からは聖書が作り話だと攻撃した人が増えましたが、歴史学や考古学の研究はしばしばその逆の結論を出しています。だから20世紀の末の今まで聖書は多くの人に読まれ信じられ続けているわけ。

 これで福音書が少なくとも空想の産物ではないことを説明したことにさせてください。


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